カリム王子絶叫
アントニアは修道院での生活が長かったため、早起きになれていた。
しかし、そんなアントニアよりも早い時間にスーリヤは起きて、獲物をとるために狩りへと向かっていた。
獣をさばく姿は流石にまだアントニアにとって貧血を起こすようなものだったが、それ以外のときのスーリヤはとても親切だった。
ならばこそ、アントニアもまた彼のために親切を返したいという思いはより一層募っていた。
「お妃様! 掃除なんて私どもがやりますから」
老いた従僕がうろたえるのを見て申し訳なく思いながらもアントニアは掃除用具を手にしていた。
「どうぞご心配なさらないでください、私、こういったことも慣れております」
「いえ、そんな……スーリヤ王子のお妃が使用人と同じことをするなど……」
「どうか見逃してください。 この宮はとても立派なのに人の手が入りきらないため荒れております。 何より、宮の主人であらせられる王子のお部屋までも荒れているのはあまりにも気の毒で」
アントニアはまだ正式な婚礼の儀をあげていないため本来であれば王子の部屋に入ってはいけないのだが、窓からちらりと中を見た時、その荒みように驚いた。
柱の彫刻はすっかり欠け落ち、壁には罅が刻まれ、寝台の置かれた床にまで埃が溜まっていた。
このような中で暮らしていたのではいかに頑健な人物であっても体に不調をきたしかねない。
ならば自分が宮の掃除を手伝えば他の人がその間に王子の部屋を清めることもできるのではないかと思ったのだ。
本来であればアントニアとて伯爵家の令嬢として部屋で佇んでいればいいのだが、親切な使用人たちがいてくれる上に、スーリヤ王子本人も何くれとなく自分に声をかけて不便がないか聞いてくれているのだ。
政略結婚に過ぎない自分に愛情を示してくれないことになんら不満はない。
ただ、スーリヤ王子が少しでも過ごしやすい宮になればいいと思ってアントニアは使用人たちに頼み込むようにして清掃をさせてもらうことにした。
結果として、アントニアは最初にスーリヤ王子と会った回廊の掃除をしていた。
遥か高い天井にかかった蜘蛛の巣や埃を払い落すのは流石に専門の掃除人に頼まねば難しいだろうが、柱や床の拭き掃除や水槽に浮かんだ枯れ葉を拾い集めることくらいならばアントニアにもできることだ。
アントニアは井戸でバケツに水をくむと、ぞうきんを使って掃除を始めていた。
掃除は案外好きなのだ。 結果が目に見えるし、汚かった部屋が綺麗になっていくとなんだか自分のしたことで良い結果がもたらされたと感じられてアントニアに満足を与えてくれる。
柱や壁を先に拭いてから床掃除に入ろう、そう思ってアントニアは長い髪を結い上げ、イェニラの装束を汚さないように木綿の前掛けをつけて掃除をしていた。
掃除が始まると修道院にいた頃のことを思い出していた。
あの頃、仲のよい友達と互いに歌いながら掃除をしていたのだ。 一小節ずつ歌っては、互いに顔を見合わせて笑い声をあげる。
もちろん、院長先生やシスターに見つかれば真面目にやりなさいと叱られるのだけれど、それがまた大人の目をかいくぐって遊ぶ楽しさがあった。
今はもう一小節ずつ歌って返してくれる相手がいないけれど、アントニアは笑顔を浮かべ、軽い調子で歌いながら壁を磨いた。
壁は分厚くつもった埃のせいで灰色のように思われたが、掃除を初めて埃がとれてくると元は白であったのがよくわかる。
水槽にたっぷりと水をはって、白い壁に反射させればきっと宮の中はずっと明るくなるだろう。
「なんて素敵でしょう、まるで光の宮殿だわ。 床も磨けばもっと明るくなるはずね」
アントニアはくすくすと笑いながら口元に手を当て、床拭きの前にまずは掃き掃除を、と箒を手に取った。
丁度、その時、宮の入り口から一人の男が入ってきた。
男はアントニアよりもまだ幼い雰囲気をし、黒い見事な巻き髪に大きなアーモンド形の目をした美しい青年だった。
青年はアントニアの姿を見つけると、苦笑を浮かべながら近寄ってきた。
「すみません、お嬢さん」
「は、はい!」
突然声をかけられて慌ててアントニアは振り返った。
青年の見事な装束や気品のある表情にもしや貴族の子息がスーリヤの元を訪れてきたのかと思い、まずいところを見せたという不安がよぎった。
スーリヤの妃である自分が掃除をしていたなど、それこそ王子の悪い噂を加速させてしまうのではないだろうか。
そう怯えていると目の前の青年は一度お辞儀をした。
「私はイェニラ第三王子のカリムと申します。 お嬢さんはイスからこられた方でよろしいでしょうか」
「え、ええ……つい、先週、イスより来ました」
第三王子、つまりスーリヤの弟ということだ。
一瞬驚きはしたが、弟が訪ねてきたということはスーリヤはもしかして家族の中では愛されているのだろうか?
そう考えるとアントニアはわがことのように嬉しくなった。
自分は最期まで家族に愛されなかったけれど、スーリヤはこうして訪ねてくる弟がいるのだ。
それに彼はとても穏やかで、紳士的で、優しい口調で話しかけてくれる。
きっとスーリヤのことを大切に思い、尊敬しているのだろうと思うとなんだか胸の内に春が訪れたかのように温かな気持ちになり、普段は沈んだ表情を浮かべがちなアントニアは穏やかな笑顔を浮かべた。
「スーリヤ王子でしたら今は狩りに向かわれておりますから、どうぞお部屋でお待ちくださいませ」
「狩り? ……ええと、お嬢さん、ここでの暮らしに不自由はありませんか?」
「不自由なんて何も! 皆さんとても親切で、スーリヤ王子も何かと心配してくださっています」
「それはよかった」
アントニアの言葉にカリムはほお、と息をついて胸をなでおろした。
もしかして、彼は自分のことを心配してきてくれたのだろうか、とアントニアは改めて目の前のカリムを見上げた。
カリムはその視線にも穏やかな笑顔を返してくれた。
イェニラ王の血を引かない王子、呪われた邪眼の持ち主という恐ろしい噂があるスーリヤ王子だが、こうして宮に訪れる弟ならばきっとスーリヤの噂などあてにせず、彼を大切に思っているのだろう。
そう思うと嬉しくなり、アントニアは微笑みを浮かべながら答えた。
「本当に、この国に嫁いでよかったと思っています。 スーリヤ王子の花嫁として、これからより一層精進いたしますのでどうぞお願いいたします」
そういってお辞儀をするアントニアを見てカリムの笑顔は凍り付いていた。
「スーリヤ王子の花嫁?」
困惑に震える声、見れば肩までも僅かに痙攣をしている。
何かおかしなことを言っただろうか、無礼なことをしでかしただろうか、と思いさっとアントニアは青ざめた。
「も、申し訳ありません、私……こちらの文化にまだ不慣れで、失礼なことを、なにか……あの、どうか、お許しを」
「お許しください! 義姉上!」
慌ててその場で頭をさげようとしたアントニアを遮る勢いでカリムは頭を下げた。
目を見開き狼狽えるアントニアを見ながらカリムはわなわなと手を震わせながら、箒を取り上げていた。
「あ、あのバカ者……花嫁にこんな薄汚れた場所の掃除をさせるなど……いや、そもそも、なんで宮がこんなに薄汚れてるんだ! 何が何も足りないものはないだ! 阿呆かアイツは!」
「そ、掃除は私が無理を言ってさせていただいたのです、あの、スーリヤ王子は本当に親切で、いまも私のために夕飯を狩りに」
「狩りに行かねば食事も出せないほどに困窮していたのですか!?」
カリムは半ば悲鳴のような声を上げながら大慌てで使用人を呼びに宮の奥へと向かった。
一人残されたアントニアはどうしていいのか分からず、ひとまず回廊の床の拭き掃除をはじめてしまい、戻ってきたカリムに急いで止められるまでに一区画を綺麗に仕上げていた。