スーリヤの花嫁
スーリヤは自分の花嫁が来てから浮かれているのを自覚していた。
異国の土地から自分の妻になるためはるばると来てくれた花嫁。
父から縁談を聞いただけでも気分が高揚し、まだ見ぬ花嫁になるべく良いものを与えてやりたいと自分の母の遺品を売り払ってまでも婚礼の装束や贈り物を用意した。
もちろん、養父であるスレイマン三世もこの婚礼のためにまだ誰も乗せたことのない新しい船や花嫁のための装束、必要な家具や調度品など様々なものを手配してくれたが、スーリヤはそれ以上に熱がこもっていた。
六歳の時に母が死に、弟が死に、それから忘れ去られたかのようになっていた自分の元へ、自分の妻となるべく遠い土地から少女が来てくれるのだ。
故郷を離れ、家族と別れ、それはどれほどの覚悟をもって挑むことだろうか。
言葉も文化も違うイェニラに自分の妻となるために来てくれる彼女の頼みとなるのはこの自分しかいないのだと思うとスーリヤは心臓が早鐘を打つのを感じていた。
この荒んだ宮での暮らしは異国の令嬢にはあまりにも辛いだろうけれど、せめて苦労だけはさせぬようにと彼女の部屋は宮で一番涼しく、老朽化の少ない自分の部屋を移動させて準備をさせた。
今はもう顔も思い出すことができない優しく美しい母の遺品も真珠が一粒ついた指輪を除いて、彼女のために売り払い、美しい装束や装飾品へと変えた。
らしくもなく浮かれる自分を感じながらスーリヤは久しぶりに宮殿へと向かった。
自分に会うと使用人たちは慌ててその場に跪き、額を床に押し付けるようにしていた。
スーリヤはそんな人々を見る度に、養父であるスレイマン三世がどれほど自分を大切にしてくれているかを感じずにはいられなかった。
異邦の人間であるビンバの血をひき、イェニラの血をまるで受けていない自分を王子として扱い、貴人の顔を見ては無礼になると人々が平服するのはすべて養父スレイマン三世が自分を大切にせよと命じてくれているからに他ならない。
そう思う度に例え血がつながらぬとも、養父であるスレイマン三世への畏敬の念が強くスーリヤの胸に刻まれていた。
「スーリヤ、花嫁が来るというのは本当か」
不意に声をかけられて視線をやると、宮殿の回廊を通り義弟であるカリムが近づいてきていた。
カリムはスーリヤの六歳下の弟で第三王子である。
癖のある見事な黒髪にくっきりとした黒い目をした美男子で、スーリヤは彼こそ神が地上に作り上げた最高傑作といえる男だろうと思っていた。
「そうだ、遥か海を越えて、俺の元に来てくれるのだ」
「どういった女性なんだ? イスの国から参られるとは聞いたが」
共に回廊を歩きながら、スーリヤは浮かれる気持ちをカリムにさらけ出すことにわずかばかりの羞恥を感じながらも嬉しさのあまり語らずにはいられなかった。
もっと下の弟たちはこの胸の内を語るには幼すぎるし、また長兄である自分を尊敬するあまりか言葉に詰まってしまうらしくあまり会話が長続きした試しがなかったので、スーリヤにとってこの喜びを共有できる兄弟はカリムをおいて他にはなかった。
「美しい金髪をしていると聞いた」
「イスの国民はほとんど金髪だそうだが」
「鮮やかな緑の目をしているそうだ」
「イスの国民はほとんど青か緑の目をしているらしいが」
「まだ若い」
「花嫁だからな!」
スーリヤが語る言葉にカリムは調子のよい相槌を打ってくれた。
スーリヤはそのカリムの様子に満足そうにうなずいていたが、カリムの方はまだ花嫁について知りたいことがあるのか、眉根を寄せていた。
「何、お前もその内よい花嫁が来る」
「私の事はいいんだ! お前の話だ、花嫁が来るといって……準備はできているんだろうな? 何か足りないものはないか? お前はいつも、要求が端的過ぎて伝わり切っていないんだ」
「案ずるな、花嫁のための支度は全て整っている」
兄を心配するあまりに前のめりになるカリムの仕草を兄らしく落ち着いた態度で窘めるも、スーリヤの言葉を聞いてより一層心配になったとでもいうようにカリムは項垂れた。
スーリヤの方はなんら落ち度のない返答をしたのに何を心配しているのだろうか、と首を傾げていたがカリムはきっと顔を上げるとスーリヤを見つめた。
「いいか、お前は自分が思ってる数倍は顔にも言葉にも出ないし、足らんのだ! 女性というのはお前のようになんでも都合よく考えてくれるものではない、不安になるし、怯えもするし、恐れもする! お前は花嫁になんの不安も不満も抱かせぬように大切にしなければならんのだ! 花嫁がこの国が嫌で泣いて帰ることなど絶対にしでかすなよ!」
きつく、きつく言いつのるカリムを見ながら、スーリヤは「分かった」と短く返事をして頷いた。
スーリヤはきっとカリムが自分のあまりの浮かれように何かしでかして花嫁を驚かせてしまうことを恐れているのだろう。
何しろ、カリムはとても家族想いな弟で、両親が違う自分のことを本当の兄も同然に慕ってくれるよい男だ。
義理の姉が家族恋しさに泣いたりせぬよう支えてやれと言ってくれているのだろう、とスーリヤは受け止めた。
そして、花嫁が訪れた当日、スーリヤは自分が想定していた十倍は慌てていた。
何しろ本来の予定を一週間もあちらが前倒しするよう要求してきたのだ。
そんなに自分の事を思ってくれている娘が嫁いでくると思うと、もはや心臓は戦場にでも出たかのような有様だ。
まだ日も昇らぬうちから花嫁を迎えるためのホールでじっと立ち尽くしていた。
まず彼女の手を取り、挨拶をするのだと何度も、何度も頭の中で反芻していた。
しかし、そんなものは訪れた花嫁を見た瞬間に消し飛んでしまった。
薄暗い宮の中にいるというのに光の祝福を受けたかのように輝く鮮やかな金の髪は癖もなく真っ直ぐに落ち、鮮やかな緑の瞳は最高級の宝玉よりもなお澄んでいて美しく、珊瑚で形作ったような品のよい唇の内側から真珠の歯が覗く美しい花嫁の姿にスーリヤは完全に意識が飛んでいた。
どこか憂うかのような面差しは思慮深く貞淑な様を示し、ほっそりとした指は触れれば折れてしまうのではないかという不安を感じるほどに繊細であった。
この地上において神が作りたもうた奇跡とでもいうべき女性が目の前にいるのだ。
しかも、彼女は自分の妻となるためにこの場にいるのだ。
スーリヤは自分の舌がまともに動くかも不安になる中、妻となる女性へと声をかけた。
触れた手はほんのりと温かく、幼い頃に失った母の温かさを思い起こさせてくれた。
この日、スーリヤは喜びのあまり、自分がどうにかなってないか不安であったが、それははた目にはまるで普段通りに見える姿であった。
信頼できない語り手というのはこういう人間のことをいうのでしょうね。