宮での暮らし
正式な婚礼の日までスーリヤの宮の与えられた部屋で暮らすこととなったアントニアはこの宮の暮らしが本当に酷いことを思い知った。
まず大きな宮であるにも関わらず、働く人間がほとんどいないのだ。
スーリヤの邪眼を恐れて奉公に来る人間はおらず、今の宮で働く人間の大半はスーリヤの母、ラクシュミが生きていた頃からの人間ばかりだという。
つまり、働き手が少ない上に年を取っているものが多くてとてもではないが宮全体を清潔で暮らしやすく保つだけの労働力がこの宮にはないのだ。
しかも、王子の宮だというのにどういう訳かこの宮には食糧や飲み物もほとんど運ばれてこない。
飲み物はオアシスの水や井戸水が豊富に使えるということで賄えているが、食べ物に関してはそうもいかず、本来美しい花が咲き乱れていた庭園は穀物畑になっており、王子であるスーリヤ自身が生い茂る木々の中で獣を狩っているのだという。
だが、アントニアにとってこの暮らしの中で素晴らしい救いが見出された。
それはスーリヤの恐ろしい噂のほとんどが本当に勘違いであったということだ。
スーリヤは確かに無口で無表情で感情がほとんどないようだが、少なくとも彼がいつも武器をもって宮をうろつき獣の死骸を集めていたというのは食糧難のためやむを得ない行動の結果だった。
それに、スーリヤの素顔を見たことがあるという使用人も何人もおり、邪眼を見るとたちどころに死んでしまうというのは真っ赤なウソであることが分かった。
またスーリヤ本人は悪魔のような残虐な男ではなく、むしろぼんやりとしたところのあるごく普通の人のように思えた。
「アントニアか、今日は猿がとれたぞ」
首を跳ねたばかりの獲物を手に返り血塗れで報告をしてくれる花婿を見て硬直しながらも、アントニアはなるべくスーリヤのいいところを探そう、と決めた。
しかし、目の前で猿の腹を裂き始めたのを見て、アントニアは流石に失神した。
部屋に運び込まれ、棕櫚で編まれたカウチに横たわった状態でアントニアは意識を取り戻した。
数少ない宮の人員からわざわざアントニアのために、と与えてくれた女官はすでに髪に白いものも混じる壮年であったが、背筋が伸びた厳格な人だった。
「まったく、スーリヤ王子も何度いえば分かるのでしょうね。 お妃様に野蛮なところを見せてはいけないと言い聞かせているのですが」
彼女はスーリヤ王子が子どもの頃からこの宮で働いているのだという。
宮が出来た当初はそれは素晴らしく美しいものだったが、いつの頃からか宮に回される資金がどんどん減っていき、人も減らされ、ついには今のような荒んだ生活を王子にさせるはめになったのだと嘆いていた。
「い、いえ……寧ろ、私がこちらの作法に慣れるべきなのでしょう」
「とんでもない、お妃様はそのままでよろしんですよ。 寧ろ、スーリヤ王子がこの生活から抜け出し、本当に王子様に戻られるためにもお妃様は今のままでいてくださいませ」
申し訳なさそうに眉を下げて体を起こしたアントニアを見て、侍女--カマラは貧血など起こしていないかと案じるように顔を見つめていた。
アントニアは自分がこんなにも大切にされるなど思いもしなかった。
屋敷にいた頃は両親からいないものかのように扱われていたし、修道院ではシスターたちは親切であったが子供の人数が多いから手が回りきらなかった。
スーリヤ王子の元に来てから、確かに人も物も不足してはいるのだが使用人の人たちは誰もスーリヤ王子に嫁いできたアントニアの事を本当に大切に思い、少ない小麦でお菓子を焼いてくれたり、この国の文字を教えてくれたりと世話を見てくれた。
特にカマラはスーリヤ王子が結婚できる、ということを心から喜び、亡くなったラクシュミ王妃の墓前に報告にまで行ったというのだ。
「あの……スーリヤ王子はどうして酷い噂があるんでしょう」
ほんの短い期間ではあるが、身近に過ごしてみるとスーリヤ王子は思っていたよりずっと親切で親しみを持てる相手だった。
表情を変えることはないし、言葉も短く、行動も粗野ではあるが、暴力を振るったり、誰かを怒鳴るようなことはせず、寧ろ時折歌っている声が遠くから聞こえた時にはアントニアはその歌声に聞きほれてしまうほど美しい声をしていた。
それが何故、船旅の最中、侍女たちが名前を口にするのも恐ろしい相手であるかのように語っていたのかどうにも合点がいかずアントニアはカマラに質問していた。
カマラは一度眉根を寄せると、はあ、と溜め息をついた。
「スーリヤ王子がイェニラの国の人間でないことはご存知ですよね」
「ええ、殿下からビンバの出だと伺っております」
「ビンバは十九年前にイェニラに滅ぼされた国なのです。 ビンバ王族、最後の生き残りであったラクシュミ様は既に前の夫であるビンバ王との間にスーリヤ王子をもうけておりましたが、イェニラ王の強い要請で正妃となりました」
カマラは重々しい口調で語っていた。
ビンバ、というのは小さな国だったが珍しい花が咲き、それが薬としても使えたため、花を加工して暮らす農業国だったという。
現在のイェニラ王スレイマン三世はそのビンバを制圧し、ラクシュミ姫を妃に迎え入れる際に息子であるスーリヤを必ず王子として受け入れると約束をした。
そして、スレイマン三世はその約束の通り、スーリヤを王子として迎え入れ、宮と王位継承権までも与えたのだという。
けれど、ラクシュミ姫は結婚後僅か三年でスレイマン三世との間に生まれた第二王子を残し、亡くなってしまった。
そして、その第二王子までも生まれて僅か十日で亡くなってしまった。
国王が喪に服す中、宮殿からか市井からか分からないが「スーリヤ王子が呪ったのだ」という噂が流れだしたのだという。
「それでは、スーリヤ王子はまったく無関係な噂のせいで苦しめられているのですか?」
あまりにもひどい、とアントニアが口元に手をやるとカマラは困ったように笑った。
「イェニラの血をもたない王子が今、安全に生きていられるだけでも、私たちビンバの人間には奇跡のようなものなんですよ……。 陛下は決してスーリヤ王子をないがしろになさってはいませんが、
人の心までは王様にもどうしようもありませんからねえ」
アントニアはカマラの表情に諦めの色を見てとり、その悲痛なまでの想いに眉根を寄せていた。
スーリヤ王子の噂を聞いたとき、アントニアもどれほど恐ろしい人なのかと思ってしまっていた。
きっと、スーリヤ王子と実際に会うことのない人ならばその噂を信じ込んでしまうに違いない。
おまけにスーリヤ王子にはイェニラの血が流れていないのだ。
カマラの言う通り、今、無事に生きていることでさえどれだけ彼にとって奇跡的なことだったかと思うとアントニアは手を握り締めていた。
「せめて、私は……スーリヤ王子に親切でいたいです」
「そのお心だけで十分、スーリヤ王子も幸福になれますとも」
カマラはそう穏やかに笑うと、夕食の支度をしてくるといってアントニアの部屋を後にしていた。
夕食……と聞いてアントニアは先ほど、スーリヤ王子がためらいなくさばいていた猿を思い出し、再度失神した。