スーリヤの不安
アントニアが罰則を受けて6日目の朝、スーリヤは不安になっていた。
明日にはアントニアの罰則は終わるのだが、昨日の夜帰ってきたアントニアはひどく疲れていたように見えた。
4日目まではやることは多いが、楽しんでいたらしいアントニアがあまりに疲弊していたのを見て、スーリヤとしてはアントニアの具合が悪いのではないか、と案じていた。
本人はあくまでも少し気疲れしただけだと笑っていたが、もしや何か思いもよらぬトラブルが発生して、そのために疲労したのではないかという不安があった。
しかし、スーリヤ本人は母が既に故人ということもあり、後宮へと入る伝手を持ち得なかった。
そして、スーリヤはまたスレイマン三世に誘われるままに狩場である森へと移動していたが、馬の上から前を進むスレイマン三世へと声をかけた。
「父上、アントニアが昨日、ひどく疲れていたようなのだが、後宮ではどのような手伝いをさせられているのだろうか」
まだ朝といってよい時間帯の空気は澄んでおり、日差しははっきりとしているが木立に覆われた森の中は比較的涼しかった。
馬に乗りながら揺られる心地よさを感じていたスレイマン三世はスーリヤから声をかけられたことで馬の鼻先を横にやって背後へと振り返った。
「後宮のことはハイファーに一任しているが不安か」
「いや……ハイファー妃が貞淑で非の打ち所がない女性ということは俺も知っている」
スーリヤはハイファー妃のことはカリムの母として知っている。
家族ではあるといえ男であるスーリヤには視線も向けず、言葉をかけることもしないほどに貞節を重んじる女性であり、素晴らしい美徳に包まれた女性である、と認識していた。
イェニラでは特に女性の事は親しい間柄でもどのようか、ということを聞くのは避けられるため直接カリムからどんな人か、と聞いたことはないが、少なくともスレイマン三世が正妃としたほどの女性ならば真っ当な女性であるということは疑いようもなかった。
「召使としての仕事は大変なこともあるだろう。 アントニアに何かあったか?」
「少し疲れが目立っていた」
スーリヤが短く告げた言葉にふむ、とスレイマン三世は自分の豊かな顎髭をなでた。
このスーリヤが、何事も大抵はいい方に考えて、自分の周囲の人間が悪意を持っているなど微塵も考えないスーリヤが、妻が疲れているように見えた、というのだからそれは相当なものなのだろう。
ハイファーに一任している、という通り、スレイマン三世自身は後宮内部で普段どのようなことが起きているか、ということはほとんど知らない。
無論、大きな事件になるとか、経費の内訳などは把握しているが、誰が何をしている、といった事細かなことまで知っているのは後宮の人間だけなのだ。
スレイマン三世にしてもスーリヤの妻であるアントニアのことは自分の娘たちと同然に考えている。 彼女が辛い目にあっているというならば助けてやりたいとも思うが、何しろ自分が言いつけた罰の途中であるために口を挟むというのも筋が通らぬように思えて考え込んでいた。
すると、スーリヤは馬を近づけて父の顔を見つめた。
「そもそも、アントニアは何故、罰を受けているのだろう。 持ち物に禁止品があったため、とは聞いたが」
スーリヤはアントニアが罰せられた詳細については知らなかった。
アントニア本人が言っていた禁止品、というのが何をさすか分からなかったが、本人が最初の内は楽しそうにしていたためあえて罪の内容を問いただす真似をしなかったのだ。
しかし、こうも疲れているというならばそれに見合った罪をあの心優しく精錬な自分の妻、地上において他に並ぶものがいない素晴らしい女性が犯したというのだろうか、という疑念をスーリヤは抱かずにはいられなかった。
「ああ、嫁入りの品としてアントニアが作った刺繍がな、馬の模様だったので叛意の有無を確認する事態になったのだ」
そう言いながらスレイマン三世は数日前のディワーンを思い出していた。
彼女本人は悪意など微塵もなく、ただ名馬の産地に嫁にくるのだから、という理由で選んだ図柄でこれほどの騒ぎになったのは哀れといえば哀れだが、何しろ本来であれば国家転覆に繋がりかねない事件であっただけに罰を与えないわけにもいかなかった。
だが、スーリヤはそこには全く興味がなかった。
「アントニアの嫁入りの品ということは、それは俺に渡されるものだったのでは?」
「うん? まあ、そうなるな。 だが、何しろ図柄がまずか……」
「父上は俺宛の、アントニアのものを俺よりも先に見たのか?」
スーリヤの黄色の目が真っすぐにスレイマン三世を見つめていた。
スレイマン三世はああ、と小さく呻くような声を漏らしながら困ったように眉を寄せていた。
「俺は、まだ見ていないのに」
スーリヤは別に怒っているわけではないのだ。
ただ、単純に、妻が作った刺繍を自分が見る間もなく没収され、また今後もみられないことに落ち込んでいたのだ。
だが――。
「スーリヤ、お前、その目はよしなさい」
かっと見開かれた目の中央で爛々と光る黄色い目が揺れている。
顔の半分は仮面に覆われ、雪のように白い肌は木立の影のために青白くなり、その中で食いしばられた口元が震えている。
まるで今にも飛びかからんとする獣の威嚇にも似たその表情を落ち込みを隠そうとしているのだと正しく理解できるのは、イェニラでもスーリヤと親しいごく一部の人間だけだ。
もしもこれを他の人間がみたら、スーリヤが父親に殺意を抱いて迫っていると思われてもおかしくないような表情であった。
元々、表情豊かでないうえにこの感情と表情が今一つ一致していないスーリヤの様子が不気味という印象を加速させていることにスレイマン三世は深い溜め息をついた。
「刺繍ならばまた作ってもらえばよいではないか」
「アントニアは疲れているのだ。 強いる真似はできない」
まだ目を見開いて睨みつけるような視線を向けている落ち込んだスーリヤを背後にしながら、スレイマン三世は少し急ぎ気味に馬を走らせていた。
スーリヤに追求をされるとスレイマン三世は余計なことまで口にしてしまいそうな気がしたのだ。
どうにもあの目に見つめられると、スレイマン三世はなすすべがなかった。




