悪魔憑きの王子
アントニアは船旅の間、毎日のように刺繍をしては神に祈った。
「神様、どうか私が刺繍を差し上げる方が温かな心を持っていますよう。 私に親切でなくっても構いません、ただ、人として優しい心がほんの少しでもある方でありますよう」
修道院で習った祈りの言葉に付け加えるようにして祈りを唱えてから眠るのがアントニアの日課になっていた。
船旅は昼間こそにぎやかだが、夜になると昼間の喧騒が嘘のように静まり返って、ただ壁越しに唸るような波音が聞こえ、より一層アントニアに異邦の地への不気味さを与えていた。
船旅は一週間に及んだ。
侍女たちは皆、なるべくアントニアの故郷の言葉で喋るようにしてくれ、なにくれとなく不自由のないように尽くしてくれた。
イェニラの甘い茶、菓子、それに見事な織物の装束……どれもアントニアには身に余ると思うほどの贅沢な品だった。
明日には陸につく、と言われた日、とうとうアントニアは自分の不安を抱えきれなくなり、侍女たちに尋ねた。
「私が嫁ぐ相手はどんな方ですか」
質問に侍女たちは一斉に顔色を失い、誰が言い出すべきかと探るように顔を見合わせていた。
アントニアは返答がくるまでの時間がほんの短い間なのか、うんと長い間なのか分からなくなるほどの不安を感じ、手を握り締めていた。
「ご存知ないのですか?」
侍女の一人、シーリンが不安そうな表情のまま問いかけた。
彼女は本心からアントニアを心配するように眉をさげ、綺麗なアーモンド形をした目に涙すら浮かべると柔らかな手でアントニアの白い手を握り締めた。
「お嬢様は本当に、相手が誰か知らずに嫁がされるのですか?」
シーリンが再度尋ねるや、背後にいた侍女の一人は自分の顔を両手で覆って、すすり泣いていた。
まるでアントニアがあと三日とせぬうちに死んでしまうのだと告げられたかのように、侍女たちは重苦しい空気をまとい、悲痛な面持ちをして、互いの肩を寄せ合い、哀れな花嫁を見つめていた。
「何も聞かされていません。 私、婚礼のためといって実家に戻り、すぐに旅に出されたのです……その、お相手の方の顔も名前もうかがってはおりませんでした」
アントニアは一体自分がどんな相手の元に嫁がされるのかと不安になりながら、船に乗った初日に聞いた「悪魔憑き」という言葉がより一層恐ろしくなった。
侍女たちは恐れるように身を震わせるとアントニアの方へと寄り添い、アントニアの細い肩を抱きしめて涙を注いでいた。
「おかわいそうな方……貴方が嫁ぐのは呪われた王子……スーリヤ様です」
シーリンはまるでその名を口にするだけで自分までも呪われるかのように震えた声で言った。
すすり泣いていた侍女は顔を上げると、涙にぬれた手で優しくアントニアの手に触れた。
「前の妃様の連れ子で今の国王様とは何の縁もないお方。 おまけに邪眼の持ち主だといわれる恐ろしいお方です」
そう告げると侍女は再び涙を流していた。
他の侍女たちも皆、アントニアが嫁ぐ相手のことをひどく恐れているようであった。
いわく、イェニラ王国第一王子スーリヤは元は異民族の姫であったラクシュミという女性の前の夫との間にできた息子だという。
ラクシュミは夫がイェニラ国王に討たれたのち、恥じることもなく仇の妻となるやスーリヤを王子として扱うよう国王に働きかけ、スーリヤは国王とはなんの血縁もないにも関わらず王子となった。
更には恐ろしいのはスーリヤ本人であり、彼の髪は赤子のころから老人のように白く、また血の気の無い石のような肌をしており、心無い人形よりも無表情で冷徹。
彼は親しい人が死んでも涙を零すこともなく、また幼い時分から笑った顔すら誰も見たことがないほど心を持たない男で、いつも武器を手に自分の宮を歩き回っては血だらけの獣の死骸を運んでいる残虐な人間。
更に恐ろしいのはその邪眼で、普段は仮面の奥に隠されているその目を見た人は必ず不幸に見舞われ、そう遠くないうちに死んでしまうという噂まであるのだ。
アントニアはその話を聞いて、自分の手足から血の気が失せていくのを感じていた。
悪魔のような人であればまだいいとさえ思っていたが、異形の上に呪われた王子が自分の結婚相手なのだと思うと今にも卒倒しそうになった。
シーリンが急いで熱くて甘い茶を持ってきてくれたが、それもほとんど味わうことが出来ないまま、アントニアは自分の心臓がせわしなく騒ぐのを聞いていた。
「そ、それでも、何かお優しい話などあるのでしょう? きっと、何か……そう、何か勘違いで、酷く恐ろしいような人に思われてるだけかもしれません」
アントニアは希望に縋るように問いかけたが侍女たちはすっかり押し黙って、項垂れてしまっていた。
これ以上、残酷な事実を伝えるのはアントニアの心が耐えられない、そんな風に彼女たちがつとめた沈黙はこれ以上ないほどアントニアを失意の底に静めることとなっていた。
アントニアは自分が嫁ぐ相手がどれほど恐ろしく、またおぞましい相手なのか知らされ絶望していたが、それでも刺繍だけは止めることができなかった。
まだ会っていない。 もしかしたら、本当になにもかも全て勘違いかもしれない。
そんな淡い期待を込めてアントニアは完成した白い馬の刺繍を抱きしめてベッドに入った。
そして、翌日……いよいよ、アントニアはイェニラ王国の国境を越え、スーリヤ王子の住まう宮へと足を踏み入れたのであった。