父との決着
宴席が落ち着いてきた頃、招待客を受けつけで案内していたカリムから伝言を受けた召使が一人、スーリヤをアントニアの元へと駆け寄ってきた。
「シッテンヘルム伯爵家ご一行様がまいられました」
静かに告げられた言葉にアントニアは体が強張るのを感じていた。
スーリヤは無表情のままにアントニアの肩をしっかりと抱きしめると、ホールの中央へと歩いてきたシッテンヘルム伯爵家の人間たちを眺めた。
背の高い金髪のシッテンヘルム伯爵、長い髪を品よく結い上げた夫人、そしてアントニアとはそっくり同じ顔をしたアンネローゼの三人だった。
アンネローゼは母親の腕にじゃれつくように触れ、母親もまた笑顔でそれを受け止め、ゆっくりとした歩みをしていた。
その中で、シッテンヘルム伯爵だけが冷ややかな眼差しをアントニアへと向けていた。
スーリヤはアントニアを伴い歩みだそうとしたが、それをアントニアの手が止めた。
「殿下はどうぞお待ちください。 これは、私の……私と家族の問題です」
覚悟を決めた、というように普段は温和な表情を厳しくするアントニアを見つめて、スーリヤは静かに頷いた。
たとえ無表情であったとしてもスーリヤは内心穏やかではいられなかった。
つい先日、会食の折に呼吸もままならぬほど傷つけられていたアントニアを一人であの家族のもとへ向かわせてよいのかという疑問があった。
無論、彼ら家族にはアントニアを自分の妻としてくれた恩義は感じるが、それ以上に感情的に許せないと思う気持ちが炎を吐いて胸の中に渦巻いていたのだ。
けれど、アントニアがいうのだ。 愛しい妻が、自分で戦うというならば夫である自分はそれを信じてやらねばならない、そう思いスーリヤは静かに佇んでいた。
アントニアが歩み寄っていくと、シッテンヘルム伯爵はただ静かに見下ろしていた。
まるで木製の人形か何か、自分にまったく関わりないものを見るような無表情な目をしていた。
思い返せばアントニアは本当に、この人から優しい言葉のひとつももらったことはなかった。
だからこそ、アントニアは強く、真っ直ぐに自分とよく似た緑の目をした父を見上げていた。
「シッテンヘルム伯爵閣下、よい夜ですね」
声をかけられてシッテンヘルム伯爵ハインツは眉根を寄せた。
お父様、ではなく、シッテンヘルム伯爵と呼んだのだ。
いくら愛情を注いだことがない娘とはいえ、今まで自分に縋るような眼差しを向けていたアントニアが唐突に他人のように振舞ったことに戸惑いを覚えていた。
「先日、閣下の乳母だという女性にお会いしました」
「……それで?」
告げられた言葉にシッテンヘルム伯爵は急に早く鼓動を始めた心臓が分からなかった。
何故、アントニアに自分の過去を知られることでこんなにも心音がやかましくなるのか、それが理解できなかった。
ただ直観的に、もしもアントニアが自分を憐れむような眼をしていたらシッテンヘルム伯爵は正気を保てていなかっただろう自覚があった。
そして、彼が正気を保てていたのはアントニアの向けるまなざしに一切の憐憫も親しみもこめられていなかったからだ。
突き放すような無関心ではなく、ただ勇ましく燃える緑の瞳を前に、シッテンヘルム伯爵はおのが娘に気圧されてしまっていたのだ。
「私は、閣下のお兄様とも閣下ご本人とも違う、一人の人間です」
「……」
「無視されれば傷つきますし、愛していれば愛されたいと思います。 閣下が私の受けるはずだった愛情を無碍にお捨てになられたことはもはや咎めもいたしませんが……私は、もう閣下のことは家族だと思いません」
招待客たちはそれぞれの相手と話すのに夢中で、シッテンヘルム伯爵とその娘の会話になど誰も耳を傾けてはいなかった。
けれど、シッテンヘルム伯爵本人は生まれて初めて自分へと反抗の意思を見せた娘の姿に目を離せなくなっていた。
アントニアは一度も父のことを父と呼ばなかった。 シッテンヘルム伯爵閣下、とあくまでも公的な付き合いしかないのだと家族の縁を切り捨てる覚悟で口にしていた。
「どうぞ、閣下。 アントニアは死んだと思ってくださいませ。 それかシッテンヘルム伯爵家に生まれたのは最初から一人娘のアンネローゼだけだったとお思いください」
アントニアの肩は震えていた。
どれほど覚悟を決めて挑んだにせよ、実の父へと決別を突き付けるのは彼女の良心と道徳心に大きく反することであった。
けれど、アントニアは父の玩具ではない。
もうこれ以上、与えられないと分かっている情のために時間も心も注ぐのは嫌だった。
シッテンヘルム伯爵は何か言おうと、唇を一度開きかけたが、ふたたび唇をつぐんでいた。
アントニアから言われた言葉になんと返すべきか分からなかったのだ。
悪意などなかった、最初からアントニアが愛せなかっただけ、そんなつもりじゃなかった――様々な言葉が脳裏をよぎるが、そのどれも今のシッテンヘルム伯爵の言葉ではなかった。
言い訳がましく娘に思ってもいない謝罪や愛情があった素振りを見せることもできず、シッテンヘルム伯爵は沈黙していた。
シッテンヘルム伯爵にはシッテンヘルム伯爵の葛藤があった。 けれど、それはアントニアが解決してやる問題ではない。 彼自身が結論を出すのに付き合う必要もなかった。
「さようなら、シッテンヘルム伯爵。 もう二度とお会いしません」
静かな口調で告げ、背中を向けたアントニアを見ながらシッテンヘルム伯爵は手を伸ばしかけた。
しかし、急にそんな恥知らずな自分がいたたまれなくなり、そのまま項垂れた。
今までずっと、自分は娘が懸命に伸ばした手を振り払い続けたのだ。
何故、アントニアだけを愛せなかったのか、その結論はまだシッテンヘルム伯爵の中ではついていない。
やり直しだったのか、仕返しだったのか、ただアントニアが憎かったのか、もっと別の理由があったのか、何も分からない。
けれどもう取り返しはつかないのだ。
その思いを噛み締めて、シッテンヘルム伯爵は手を下ろすと、スーリヤの元へと真っ直ぐに歩いていくアントニアの姿を見つめていた。
自分が突き放し、とうとう最後まで愛することができなかった娘は実家にいた頃には見せたことがないような安堵の表情で夫を見つめていた。
シッテンヘルム伯爵はただそれを見つめながら、愛していない自分にできる娘のための最善はただ、自分が二度と娘の生涯に関わらないことであると噛み締め、静かに背を向けた。
こうして、イス最後の夜はアントニアの過去との決着により幕を閉じた。




