シッテンヘルム伯爵の過去
ガルニエ伯爵夫妻との楽しい邂逅を終えて宿へとつくと二人はその日の楽しい気分のままに過ごしていた。
そして、翌日、スーリヤの元に使用人からの報告が届いた。
「シッテンヘルム伯爵の乳母を務めていた女性が見つかりました」
アントニアはその言葉を聞いて驚いた。
シッテンヘルム伯爵家について知りたい、とは言っていたがまさかスーリヤがこんなにも早く調べてくれているとは思っていなかったのだ。
「話は聞けるか?」
「はい、こちらにお待ちいただいております」
使用人の男はすぐに頷いて談話室へ二人を連れていった。
談話室の中で椅子に座っていた老婆は二人の姿をみると立ち上がり、穏やかに微笑みながら頭をさげた。
「あなたが、シッテンヘルム伯爵家の乳母だった女性か」
「はい、ハインツ坊ちゃんの乳母を務めておりました」
乳母だった女性は穏やかな表情でアントニアを見つめた。
アントニアはこの女性に会ったことがない。 乳母だった、というだけに屋敷で侍女として務めていてもおかしくなかったが、彼女がスカートの裾をつまんでいる左手の薬指と小指が不自然にくっついたままになっているのを見て察した。
恐らくは、自分が物心つく前に彼女は何か事故で片手が不自由になってしまい、屋敷での仕事を辞したのだろう。
それでも女性はまるで孫にでもあったかのように慈愛に満ちた青い目を細めていた。
「ハインツ坊ちゃんのお嬢さんがまさかイェニラの王妃様になるなんて夢にもみていませんでした」
「王子妃だな」
あくまでも自分は王子だとしながら、スーリヤは老婆に再度椅子をすすめ、自分とアントニアもまた椅子へと腰を下ろした。
「シッテンヘルム伯爵について伺いたいのだが、あの方はどういった方だ?」
スーリヤはアントニアの身に起きたことは一切説明しないまま老婆に尋ねた。
彼女はシッテンヘルム伯爵の乳母という非常に親密な間柄にあった女性だ。 もしもアントニアが虐げられていた事実を知れば、本当のことを語らずにシッテンヘルム伯爵の肩をもつ懸念があった。
そこでスーリヤはただ、自分の義理の父がどのような人であるかのみを訪ねた。
「はい、シッテンヘルム伯爵さま……前の伯爵さまはギルベルトと仰い、非常に厳格な方でした。 まだ戦争が終わって三十年とたっておりませんでしたから、強い後継者を育て、強固な家を残すというのがギルベルト様の望みでございました。 そして奥様もまた伯爵様のいうことを素直に受け入れ、お二人は後継者となる男子を望まれました」
アントニアが生まれるよりもさらに昔。
今となっては歴史の教科書で習うような戦争を実際に体験した人たちの考えにアントニアは息を飲んでいた。
シッテンヘルム伯爵家は元来騎士の家系。 馬にまたがり、武器を携え、鎧をまとい戦場へと向かうのだ。
その中で跡継ぎとなるべき男子にはどれほどの期待がかけられたことだろう。
「そして、お二人は双子の息子を設けられました。 後継者となったのは兄ヨハン様。 そして弟のハインツ様はヨハン様とはまったく違う扱いの中でお育ちになりました」
「双子、ですか?」
アントニアは思わず老婆の言葉に目を丸くした。
父もまた双子であったのだ……しかし、アントニアの記憶にあるシッテンヘルム伯爵家の肖像画に兄弟の姿はなかった。
肖像画の中で微笑みながら両親に抱かれている小さな子供、それをアントニアは父ハインツであると思い込んでいた。
けれど――あれは、父ではなかった。
「はい、ギルベルト様は後継者以外に教育を与える余裕はないとして、ハインツ様は六歳まで文字も読めない状態で屋根裏部屋でお育ちになったのです。 ご家族でのお食事の場にも呼ばれることはなく、ただお一人で過ごしておられました」
老婆が語る父の幼少期の姿はそのままアントニアに重なった。
部屋こそアントニアは与えられていたが、家族団らんの場に呼ばれたことはなかった。
体面のために連れ出される時も、いつもアンネローゼのお古のドレスを着せられ、邪魔にならないよう黙っていることを強制された。
父もその苦しみの中で育っていたのだ。
「ハインツ様は人の何倍も努力して、勉強も教養も狩りも全て人並み以上にこなされました。 けれど、ご両親はそんなハインツ様が努力するほど、継承権の争奪が生まれかねないとしてハインツ様を人から遠ざけました。 精神病がある、悪い病気をもらって子が残せない……当時、そんな噂がハインツ様にはつきまとっていました」
努力すればするほど両親の愛情は父から遠のいていった。
それはどれほど悲しかっただろう。
アントニアは自分自身の孤独を父の孤独と重ね震えていた。
そして、老婆もまた涙を皺深い目元へと浮かべると、ハンカチを取り出してその目元を拭いていた。
乳母として父を赤ん坊の頃から知る彼女は、実際にすぐそばでハインツが家族から迫害されるのを見ていたのだ。
どれほど当時、彼女の心が張り裂けそうだったことだろう。
「しかし、今のシッテンヘルム伯爵はハインツなのだろう。 何故、両親が推したヨハンが後継者にならなかったのだ」
スーリヤはそれが気にかかった。
イェニラのような軍事国家であれば兄弟殺しにより継承権を奪う、ということは何も珍しい話ではなかったが、イスでは兄弟殺しは禁忌だ。
それを聞いた乳母の女性は涙をふき取ると震える声で話した。
「丁度、二十年ほどまえです……大雨の中、シッテンヘルム伯爵領からベルの都に向かう途中、ヨハン様の乗った馬車の車軸が折れ、崖から転落する事故が起きたのです。 このイスの峻険な土地で馬の脚はくじかれ、大雨で車輪がぬかるみにはまって、どうしようもない事故だったのです。 けれど、奥様はハインツ様が馬車に細工をしたに違いないと酷く取り乱されました」
「そんな……!」
アントニアは父の事をよく知らない。 けれど、少なくともアントニアは父から殺されはしなかった。
どれだけ他者を疎んでいても最後の一線だけは越えなかった父が実の兄を殺すなど信じられる話ではなかった。
「ええ、もちろん事故でございます。 実際、シッテンヘルム伯爵家の馬車は古くなっておりましたし、水を含んだ車軸が折れたせいだと警察も言いました。 けれど、奥様は頑なにハインツ様を責めました。 そして、ハインツ様が伯爵家を継がれると共にギルベルト様と奥様は隠遁されたのです」
まるで、自分達の家族ではない男に伯爵家をくれてやった、そんな祖父母の態度にアントニアは打ちのめされていた。
父はアントニアに自分がされたことをそのまま返したのだ。
妹であるアンネローゼは父の代替品で、姉であるアントニアは伯父の代替品。
それぞれ立場を入れ替えて父の人生を追体験させられてきたのだ。
だから、馬車でイェニラに送られたのもアントニアだった。
アントニアは項垂れたまま話を聞いていた。
老婆はアントニアが自分の父の辛い境遇を思って悲しんでいるのだろうと思い、また涙を零していた。
「ハインツ様は伯爵家を継がれ、今も立派に領地を治めておられます。 けれど、幼い日に受けた仕打ちがどれほど酷いものだったかと思うと、私は今でも痛ましく思うのです」
戦争からまだ間もない時期だったこと、シッテンヘルム伯爵家が裕福な家庭ではなかったこと、そして父が男子として生まれたこと……それら全てが本人の努力では覆すことなどできない。
そして、アントニアが双子の姉として生まれたこともまた同じだ。
父のやり直しの人生の為にアントニアが迫害されてきたのだ。
スーリヤはやはりシッテンヘルム伯爵への怒りを感じてはいたが、ただ静かに話を聞き終えた。
老婆の話を聞き終わるころには外は夕焼けに染まっており、スーリヤは使用人に言いつけて彼女を無事に帰らせるとアントニアへと視線を向けた。
アントニアは身を強張らせたまま、静かに顔を上げた。
「スーリヤ殿下、私は……父を嫌うことも、愛することもできません」
「ああ、そうだろう」
アントニアが付けられた傷はあまりにも深く、まだ血を流している。
けれど、父もまた同じ傷を抱えていて、そしてその傷はまだ癒えていないのだ。
父が悪意をもってアントニアを遠ざけたのか、ただ無意識にやり直しを願った結果なのかは分からないが、アントニアは父を憎みきれなかった。
それは彼女の優柔不断であり、柔和な美徳でもあった。
「父と、もう一度だけ話してもいいでしょうか」
「手配しよう」
アントニアは真っ直ぐにスーリヤを見つめていた。
もしかしたら、生涯で最後に交わす親子の会話になるかもしれない。
そんな予感を覚えるアントニアの手をスーリヤの手が優しく包み込んでいた。




