イェニラへの旅
馬車での旅路は淀みなく進んだ。
開けた安全な街道を進み、時折宿に泊まることもあったが話相手となる人はいなかった。
何しろアントニアには侍女の一人もつけてもらえなかったのだ。
修道院での暮らしが長かっただけに朝の支度や着替えなどは自分一人ですることができたが、流石に話相手を求めて男性の御者や下僕に声をかけにいくわけにもいかず、アントニアは静かに刺繍をして時間を潰すより他になかった。
刺繍は修道院で習った。 レース編み、簡単な裁縫、絵画、その辺りは全て修道院ですべての娘が教えられることだ。
貴族や富裕な商人が寄付した絹糸や高価な顔料で神の教えを形にすることで修道院は寄付した者たちに徳をつませる。
そして出来上がったものを売ったお金は修道院の収入となり、そこで暮らす修道女や娘たちの生活に還元されるのだ。
決して豊かな暮らしができるようなものではないが、そうしてある程度の自活ができる状態だからこそアントニアがいた修道院は貴族たちに対してもある程度の地位を保ち続けることができた。
といっても、異国に嫁ぐアントニアにはもう関係のないことだ。
刺繍はただの趣味、特に売る予定もないが時間をつぶすには丁度いい。
それに、もし夫となる人が刺繍を気に入ってくれればありがたい。 そんな風に考えてアントニアは真っ白な布に馬の刺繍を施していた。
「イェニラは名馬の産地ですものね……」
西方の神聖スパンダリ帝国の馬の次に素晴らしい名馬はイェニラ王国にある、そんな風に言われているほどのイェニラの名馬……さらにはイェニラの男は皆、騎馬の名手だとも本に書かれていた。
それならば馬の図柄はきっと好まれるだろう、そう思ってアントニアは名前も顔もしらない夫となる相手のための刺繍を施していた。
夫となるのはどんな人だろうか、そうアントニアは考えてみた。
シッテンヘルム伯爵家はそれなりに古い家柄であり、裕福ではないとはいっても娘の結納金を渋ることができるような家格ではない。 両親が溺愛するアンネローゼの結納金をまかなえるほどの貢物を寄越したということを考えれば相当裕福な人物だろう。
もしかしたら六十を越えたおじいさんの後妻かもしれない。 そう思ってアントニアは少し笑ってしまった。
修道院で教えられた物語の中には七十をこえたやもめの元へ嫁いだ乙女の話が合ったのだ。 彼女も幼いうちに教会で育てられ、結婚のために教会を離れたがその後幸福にも家族に恵まれていった。
「おじいさんでもいいわ、私を欲しいと言ってくれたんだもの」
家族にも必要とされず、ただ取引の品物のように送り出される自分を花嫁として求めてくれる人がいるならそれがどんな人でもきっと親切にして、その人に好かれるようにしよう。
そんな風に考えてアントニアは刺繍を続けていた。
馬車での旅が十日ほど経過した後、馬車は港町についていた。
潮風が強く、金色の長い髪がなぶられるのを嫌ってアントニアは一つにまとめて結い上げていたが、そこで唐突にここまでついてきたもののうち、一番上の使用人から告げられた。
「ここから先の海路はイェニラの者が付き添う決まりです。 我々はここからシッテンヘルム伯爵領に戻ります」
感情のこもらない能面のような表情だった。 背も高く、年齢こそアントニアと近かったけれど親しみを覚えているようには見えない従僕を見ながら、アントニアは静かに頷いた。
「分かりました。 皆、ここまでご苦労でした。 家族には問題なく、アントニアは嫁いだとお伝えください」
「……かしこまりました」
従僕は一瞬、意外そうな表情でアントニアを見つめてから礼儀正しく頭を下げるとアントニアを見送った。
アントニアは見上げるほどに大きな船を見つめ、喉を震わせた。
絵物語にも見たことが無いほど立派な船だ。 大きな帆にイェニラ王国の紋章を掲げ、何百人もの人が働いている豪華な船。
これほどの船を婚姻のために用意したということにもアントニアは驚きを隠せずにいた。
イェニラ王国から来たという侍女たちは皆、はっきりとした大きな黒い目をしており、柔らかな微笑を浮かべてアントニアを迎え入れてくれた。
けれど、侍女たちはアントニアをイェニラの装束へと着替えさせると顔を寄せて囁き合っていた。
「可哀そうにねえ、まだ若くてあんなに可愛らしいのに……」
「悪魔憑きに嫁がされるだなんて、奴隷になるより酷い話だわ」
侍女たちは皆、アントニアがイェニラの言葉を理解しているなど思いもしなかった。
彼女らは心底憐れむようにアントニアを見つめ、せめてこの船から降りて悪魔の元へ嫁ぐまでは親切にしてあげましょうと囁き合っていた。
しかし、イェニラの言葉を理解していたアントニアは自分の血の気が引いていくのを感じた。
(悪魔憑き……? それは、一体どういうこと)
疑問は胸の内に沸き上がり続けていた。 けれど、それを問うことがアントニアにはできなかった。
幼い頃から自分の疑問に答えてくれたのは修道院のシスターたちだけで、他の誰もアントニアの言葉に耳を傾けてくれることはなかったのだ。
心臓がひりひりとしている。 喉が急に渇いたように張り付いて声も呼吸もまともに出なくなっていた。
悪魔のような人、というのならアントニアにも多少は想像ができた。
残忍で、冷酷で、人を人とも思わぬような人。 そんな相手に嫁ぐのも嫌ではあるが、悪魔のような人ならば人なのだからもしかしたら温かい心が眠っているだけかもしれない。
けれど、悪魔憑きとなれば全く違う。
悪魔が魂に入り込んだ人では、それはもうアントニアには想像もつかないほど恐ろしく、獰猛な獣のような人間かもしれない。
アントニアは着物の下で冷たい汗を浮かべながら、自分の部屋へと通されていった。