新婚旅行の効果
アントニアはその後、用意された食事も、茶も何もまともに味わうことができなかった。
まるで全身に鉛を流し込まれたかのような感覚を味わいながら、強張った表情でカマラたちが心配する声を聞いていた。
こんなにも自分の感情がかき乱されたのは子供のころ、修道院に追いやられた時以来かもしれない。
いや、もしかしたらもっと、ずっと、深い感情がアントニアの中で渦巻いているのかとさえ思えた。
「アントニア、具合が悪いのか?」
寝室に入るなり、スーリヤが案じるように声をかけた。
アントニアははっとその顔を見つめていた。
仮面をつけた白い顔は相変わらず無表情であり、彼が自分の悪評にも悪意にもまるで動じていないのかと思うとアントニアはたまらなくなってしまった。
「私、とても……自分が嫌な人間だと思い知りました」
嗚咽をこぼすようにアントニアが告げた言葉にスーリヤは僅かに眉をよせて、アントニアの肩に手を置いた。
そして、何を聞くでもなく、ただアントニアの背中を抱きしめた。
「アントニア、お前は何も苦しまなくていい。 俺がいる。 すべて任せるがいい」
何を、と聞くこともせずにただスーリヤは背中を撫でてくれていた。
しかし、アントニアはその腕に抱かれながらも、人生で初めて自分の胸を埋め尽くした黒い感情と向き合っていた。
その感情は怒りだ。
アントニアは今まで自分を愛してくれない両親にも、双子の妹であるアンネローゼにも怒りなど抱いたことはなかった。
けれど、今日、サイーダがスーリヤを侮辱したことに対して、自分では抱えきれないほどの怒りを感じていた。
その怒りは叫んだり、暴力をふるうことで解消されるような突発的に噴き上げるものではなく、腹の内に淀んで溜まり、ふつふつと煮え続ける溶岩のような黒い感情だった。
アントニアはゆっくりと目を伏せてから、一度息をつき、スーリヤを見上げていた。
鋭い目つきをしていても優しい黄色い瞳を見つめると、アントニアは自分がひどく嫌な人間に思えて悲しい気持ちで微笑んだ。
スーリヤのように全てを優しく受け止められる人に自分はなれない。
愛しているこの人を傷つけるものを素直に受け流せるほどアントニアは自分が善人ではないことを感じて、ゆっくりと彼の手に触れた。
「私は……スーリヤ殿下のようになれればよかったのですが」
「俺は今のアントニアが良い」
短く告げられた言葉は紛れもなくスーリヤの本心であったが、今のアントニアにはそれを受け入れることは難しかった。
自分の心が怒りで満たされる冷たい感覚はそう簡単に消えそうではなかった。
けれど、そんなアントニアの内心を察せずにいるスーリヤは無表情のままただ抱きしめていた。
「不安ならば、今夜は抱いてねよう」
唐突にスーリヤからかけられた言葉にアントニアはかっと赤くなった。
スーリヤの声色は相変わらず淡々としていたが、その一言はアントニアから黒い思いを忘れさせるには十分すぎるものであった。
結婚して以来、スーリヤは実際にアントニアをかなり熱烈に愛してくれている。
愛情を注がれることを望んでいたアントニアにはかなり嬉しかったとはいえ、率直な愛情表現の数々は修道院で育ったアントニアには強すぎる刺激だった。
「あ、あの、私……その、まだ、こちらの、夫婦関係には慣れてなくて……」
「構わない。 俺に任せればいい」
口籠るようにするアントニアの体を軽々と抱きあげてスーリヤはアントニアを寝台へと寝かせた。
宮殿の寝台ほど大きなものではないとはいえ、船室の限られたスペースに奥には大きすぎるほどの寝台でスーリヤとアントニアは並んで横たわっていた。
スーリヤは初夜以来、仮面をとることはなくなっていたがそれでもアントニアはその下にある綺麗な赤い瞳を思い出し、そして美しい顔立ちを思い出して息を呑んでいた。
スーリヤは言葉の通りにアントニアの体を抱きしめると、ただ静かに寄り添って眠った。
アントニアは身を強張らせていたが、スーリヤが寝息を漏らすのを見るとアントニアもまた微笑みを浮かべて目を伏せた。
自分の中にある恐ろしい感情がスーリヤによってあっさりと解きほぐされてしまったのを我ながら現金だとは思っていたが、アントニアはスーリヤの胸板に頬を寄せた。
スーリヤはその静かな心音を聞いているうちに、自分も意識が和らいでいくのを感じ、しずかに眠りに落ちていった。
翌朝、目が覚めたアントニアは眠っているスーリヤを見つめ驚いた。
王子の宮にいた頃はスーリヤは早朝に起きて狩りに出かけていたのだ。
まだ目覚めていないスーリヤをみながらアントニアはほお、と小さく息を零した。
カーテン越しに差し込む朝日がスーリヤの白い髪を輝かせている姿は美しく、普段は鋭い視線が伏せられて柔らかい印象になっているのもアントニアの胸をときめかせていた。
アントニアはまだ自分を抱きしめているスーリヤの腕にそっと手を添えて、軽く撫でてみた。
ほっそりとした印象を受けるスーリヤだが、やはり男性なのだと実感する。
狩りをして生活をしていた、ということや使用人たちが武芸にもたけていると言っていた通り、その腕はしっかりとした筋肉がついていて、普段は砂漠の強い日差しを避けるため長袖で目立たないその逞しい腕にアントニアは微笑みを浮かべながら触れていた。
しかし、不意に腕が動くとアントニアの体は強く抱きしめられていた。
寝ぼけているのかとアントニアが顔を向けると、そこにはしっかりと目を開いたスーリヤの顔があり、アントニアは声にならない悲鳴をあげた。
「おはよう、アントニア」
「す、スーリヤ殿下、いつお目覚めに……」
「アントニアが俺の腕に触れていたくらいからだ」
アントニアは顔から湯気が立つかと思った。
自分が触れているのに気付いて起きていたのだ。
旅の支度などで疲れていたであろうスーリヤを起こしてしまった申し訳なさや、自分が許しもなく気安く触れていた恥じらいなどもあったが、何よりも愛しく思っている相手にしっかりと抱きしめられている事実に顔から火が出そうだった。
だが、スーリヤは珍しく傍目にもそうと分かるほどの笑顔を浮かべていた。
スーリヤが笑うなど、アントニアは嫁いで以来初めて見る姿だった。
「俺は寝ていた方がよかったか?」
アントニアが真っ赤になり硬直しているのを見て、スーリヤが問うのをアントニアは急いで首を左右に振って否定した。
「起きている方が、もっと素敵です」
混乱と羞恥でゆだった頭は淑女らしい控えめさをアントニアからすっ飛ばしており、その言葉を聞いたスーリヤはますます嬉しそうにするとアントニアの体を強く抱きしめていた。
結局、この日、普段早起きなスーリヤとアントニアが共に中々寝室から出てこなかったため、新婚旅行の効果が早速出た、とカマラとシーリンが談話室で大はしゃぎするのを不機嫌そうな顔でサイーダは見る羽目になったのであった。




