穏やかな時間
カリムの手配は実に手早かった。
父であるスレイマン三世に報告するや、スレイマン三世は宮の窮状を自ら確認しにいき、そのあまりにもひどい荒れ果てように絶句していた。
元は一流の建築家に頼み設計された建物、当代一番と言われた石工職人に頼んだ彫像、さながら天国がこの地にあると言われた庭園が根こそぎ形無しになっているのだ。
おまけに第一王子が狩りで自給自足し、更には異国からはるばる迎えた花嫁が掃除までしてスーリヤの世話を焼こうとしてくれてたと知った時はスレイマン三世も流石に涙が出そうになった。
横領をした役人の調査は即刻行わせるとし、特別予算を割いて宮の修繕とこれまでスーリヤを支えてきた宮人たちの労をねぎらった。
そして、王子夫妻とスーリヤ王子の宮人たちは一時的に宮殿の一角に住まうこととなったのだ。
「本当に、見事な宮殿ですね。 どこも素晴らしく美しくて、私まるで絵物語や素晴らしい織物の中に迷い込んだようです」
天井一面に金を使った図柄が描き込まれ、ラピスラズリがはめ込まれた壁画に職人の女たちが五年をかけて編み上げたという絨毯、それらが全て揃えられた宮殿の部屋は圧巻というより他になく、アントニアは驚いた表情を浮かべていた。
「そうでしょう、お妃様。 この宮殿はイェニラで最も……いいえ、地上で最も美しい場所なんですよ」
そう答えたのは船旅の間、何かとアントニアを気遣ってくれていたシーリンだった。
シーリンはスーリヤの恐ろしい噂に怯えながらも異国から訪れた花嫁があまりにも心配で自ら志願してスーリヤの宮人に加わってくれたのだ。
「それにしても……どうして、アントニア様はそんなに部屋の端におられるのです」
「す、すみません、あの、素晴らしくって、一度全体的に見たくなってしまいました」
部屋に入るなりつとつとと部屋の端っこにいき、天井から床までを見て感動の声を上げていたアントニアは頬を赤らめながら絨毯の上にあるクッションへと寄りかかった。
そのクッションもまた丁寧な刺繍が施されていて金糸銀糸が美しい模様を描き、ほんの少し角度が変わるだけで宝石のようにきらきらと輝く素晴らしいできのものでアントニアは逆に居心地が悪い暗いに感じていた。
シーリンら新しい宮人が増えてくれたことと宮殿での暮らしになったことで、アントニアはいよいよ婚礼の儀に向けての準備に専念ができた。
準備、といってもさしたるものではなく、決められた時間の沐浴、食事の節制、そして体に香油を塗り込み、イェニラの神々へと祈るというものだ。
イスで生まれたアントニアにすれば全く異教の神であり、当初抵抗は感じられたのだが、この国の教えを聞くうちに形は違えども教えの内容は近しいものだと分かりその抵抗はずっと薄らいだ。
アントニアは元々信仰心が強くて修道院に入ったわけではない。 結納金がない、という両親の命令で一方的に修道院に入れられたのだ。
けれど、それでも修道院の生活を気に入っていたのは純粋に周囲の人たちが信頼をおける人で、仲の良い友人に恵まれてのことだった。
そして教えの内容がほとんど変わらないのであればイェニラの神を信仰してもイスの神を信仰してもそこに大きな違いがあるようにはアントニアは感じなかった。
信心が浅い、とは思ったものの寧ろ、アントニアはスーリヤ王子の花嫁となるのが自分でよかったとも安堵した。
修道院には中には心底、イスの神に心酔しており、他の宗教はすべて邪教とまで言い切る令嬢もいたので、そういった彼女らがイェニラに嫁いだら苦労したことだろうと思った。
アントニアが唯一不満だったのは、イェニラの教えのため婚礼の儀までスーリヤ王子とまったく会えないことだ。
この国で一番、自分のことを歓迎してくれた人と会えないのは心細かったが、シーリンやカマラがなにくれとなく世話を焼いてくれる手前、不満など言えるはずも無かった。
そして、その孤独を埋めるかのようにアントニアはまた針を握っていた。
「本当に、アントニア様は刺繍がお好きですねえ」
「シーリン、あなたも刺繍くらいできないとよい殿方にめぐりあえませんよ」
どうやらイスでは淑女の教養の一部に過ぎない刺繍はイェニラでは寧ろ女子の必修らしく、それが苦手なシーリンはどこかうらやむようにアントニアの手元を見ていた。
「まあ、綺麗ですね! これは花ですか? でもなんの花でしょう」
「これはアリオナの花です。 イスではアリオナで作ったブーケをもつ花嫁は幸せになれると言われてたんですよ」
「それじゃあアントニア様にはちょうどよろしいですねえ」
カマラは笑いながら、アントニアの花嫁衣裳にさらに刺繍を加えていた。
もともと緻密な刺繍が施された黒い衣装だったが、そこにさらにカマラの刺繍が加わっっていくことでこれはアントニアのためだけの花嫁衣裳になる。
元々、イェニラでは花嫁の母や祖母が娘が生まれた時に布を買い、それに刺繍を加えて娘だけの着物にするという習慣があるらしい。
アントニアは自分のことをそんなにも大切にしてくれるカマラの愛情にどれほど感謝し、何を返せばいいのか分からなかった。
「私も刺繍が上手ければいいんですけど、私じゃあ雑巾縫いしかできませんで」
そう言いながらシーリンが手にしていた木綿のハンカチは確かになんとも形容しがたい、多分海に生きるタイプの生命体だろうな、というデザインになってしまった虎の刺繍がされていた。
花嫁となる、ということがこんなにも嬉しいことだとアントニアは想像さえしなかった。
イスにいた頃は相手が六十のおじいさんかもしれない、とさえ思っていたのに、スーリヤ王子は親切で愛していない結婚相手にも不自由をかけまいとしてくれる人格者だった。
それに、スーリヤ王子は確かに無表情で無口ではあるけれど、恐ろしい噂とは真逆に太陽のように温かな人だった。
もしも、あの整った表情に笑顔を浮かべてくれたなら、きっともっと素敵なのだろうと思いながら、アントニアは穏やかな表情でアリオナの花の刺繍をしていた。
この刺繍はシーリンにあげようと決めている。 彼女はスーリヤ王子を恐れていたのに自分のためにその恐怖を乗り越えてまで来てくれた人だ。 どれだけ感謝しているか伝えるのに、刺繍一枚しか送れないのが申し訳ないほどだ。
アントニアが穏やかな時間を過ごしている頃、宮中では大きな動きが起きていた。




