シチューオンライス・フォー・ユー
家具や壁にベッドに布団、更にはカーペットにカーテン、そしてハート形のクッションまでもが白で統一されたワンルーム。そんな部屋の主である彼女の家に初めて招かれたその日、私は部屋の中央に鎮座する直径1メートル程の白い丸テーブルを前に、胡坐をかいて座っていた。
「お待たせぇ。では召・し・上・が・れ♪ なんてね。フフっ」
そう言って彼女はテーブルの上、私の目の前へと、直径30センチ弱の白い皿を置いた。そして「よいしょ」と可愛く呟きながら、私の向かいに座った。
彼女の目の前にも私の目の前にあるのと同じ皿が置かれていた。その互いの皿の上には白いご飯が盛られ、その御飯の上には白いドロっとした何かがかけられていた。私は自分の目の前の皿をジーッと見つめてた。
「温かい内に食べてね♪」
「あの……」
「何?」
「御飯の上に乗ってる白い物は……何?」
「ん? クリームシチューだよ? シチューオンライス食べた事無いの? あ、ひょっとして君の家ではシチューライスって言うのかな? それともクリームシチューライスとかホワイトシチューライス?」
優しい笑顔を交えて彼女が口にしたその料理名を、私は初めて聞いた。私はグルメでも無ければ食にそれほど興味がある訳でも無い。それ故に知らないだけなのかもしれない。だが問題はそこではない。仮にそれがビーフシチューであれば『ライスと一緒に食べるなんてちょっと変わってるね。ハヤシライスみたいな感じかな。ハハハ』と、笑顔で答える事も出来ただろう。だが今目の前にあるのはそれでなく、白い皿に白いライス、そしてその上からアイボリー色と言えるかもしれない白いシチュー、いわゆるクリームシチューがかけてある物である。せめてシチューとライスを別々の皿に分けてくれさえすれば、それぞれが身近な食べ物である事からも問題ないレベル、つまりは看過出来る話であるはずなのに、それを1つにしてしまった事で後戻り不可能な未知の料理と言える物が目の前に出現していた。
「いや……いやいやいやいや……ご飯の上にクリームシチューって……」
彼女とは付き合い始めてまだ2週間余り。そんな彼女が初めて作ってくれた料理にクレームを付けるなんて男としてはどうなんだろうかと思っていた所、思わずそんな言葉が口からポロリと零れた。「やばい!」と思って直ぐに彼女の顔を伺うと、彼女は私が何を言っているのか分からないといった様子で口をポカーンと半開きに、無言のまま私を見つめていた。
「えっと……ひょっとしてお米の産地でも気にしているの? とりあえず銘柄米では無いけど国産だよ?」
「いや、米の産地の話じゃなくてさ……」
通常ご飯は茶碗によそう物であるが、カレーライスを筆頭に皿に盛られたご飯というのは存外良く見る光景であるからして違和感は全く感じず、それは日常の光景と言って差し支えないだろう。だがその上にクリームシチューをかけた段階で、それは非日常且つ未知となった。だが彼女にとってはそれが日常なのかも知れない。故に私の言葉が全く伝わらなかったのだろう。
「まあ、とりあえず食べてみてよ、美味しいからさ」
「いや、そりゃ個々には美味しいはずだから味に問題は無いとは思うけどさ……」
「何を戸惑っているのか知らないけどさ、お腹に入っちゃえば同じでしょ?」
私は何気なく発した彼女のその言葉に驚愕した。
『食事は目で以って楽しみ、香りを楽しみ、そして舌で以って味わう。故に白一色はありえない。君の料理は白いスーツに白いシャツ、そして白いネクタイをしているようなものだ。それでも腹の中に入れば同じだというのならば、前菜とメインとデザート、そして飲み物を混ぜた物を君は喜んで食べるというのかい? 特に日本では器にも拘っているし食べ方や順番にすら拘っている。おにぎりを箸で食べるのと手で持って食べるのとじゃ違うよね? サンドイッチをナイフとフォークで食べるのと手で持って食べるのでは違うよね? それでもお腹に入れば同じだというの?』
本当はそう言いたかった。だがここは何も言わずテーブルの上に置かれたスプーンを手に、目の前のシチューオンライスなる料理へとスプーンを突っ込み、適量掬うとそのまま口の中へと放り込んだ。
モグモグモグ……
味の感想だけで言えば当然不味くは無く、香りも普通にクリームシチュー。とはいえそれは最初から分かっていた事である。故に私は作り笑いを絶やさぬようにしながら全てを平らげ、笑顔で以って「ご馳走様。美味しかったよ」と彼女に伝えたが、本音で言えば言いたい事はある。決して不味い訳ではない。あくまでも気持ちの問題だ。
食事に於いて気持はとても大事な物だろう。その気持ちを押し殺して「美味しかったよ」と伝えたのだ。それは食事を作ってくれた事に対する感謝、食材に対する感謝である。白いスーツに白いシャツと白いネクタイという例え話も彼女からすれば「裸じゃないから良いじゃん」と言うのかも知れない。若しかしたらおにぎりも箸で食べているのかもしれない。サンドイッチもナイフとフォークで食べる人なのかも知れない。彼女はそういう価値観の持ち主なのかも知れない。そういう家庭で育ったのかも知れない。
『人の価値観は受け入れずとも否定して良いものではない』
私は小さい頃からそう親に教わってきていた。その言葉は今でも正しいと思っている。故に今もそれを実践する。彼女のその価値観を否定しない、受け入れずとも否定はしない。そんなモヤモヤ感を秘めつつも楽しい時間はアっという間に過ぎ去ってゆく。
私の家と彼女の家はバス1本で行けるという便利な地理にある。とはいえ互いにほぼ終点手前が最寄のバス停であり、距離でいえばそれなりの距離であり、徒歩で行こうとすれば数時間は掛かる距離である。そしてその最終バスの時刻が間近に迫っていた。
「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「あれ、もうそんな時間? じゃあバス停まで送るよ」
「いや、もう遅いし外も暗いから良いよ」
「じゃあ玄関の外までね」
そう言って彼女は先に外へと出ると、玄関扉が閉まらない様に背中で扉を抑え、私が出るのを待ってくれていた。
「それじゃあ暗いから気を付けてね」
「うん、ありがと」
彼女は小さく手を振りながらに「ばいば~い」と私を見送ってくれた。私も小さく手を振りつつ「ばいばい」と応えると、2階建てのその建物の外階段を降りていった。
1階に降りた正面には6台程が止められそうな未舗装の駐車場があった。その駐車場の先には敷地に面する公道が繋がっていた。私が駐車場を通ってその道へ向かって歩いていると視線を感じた。振り向くと、建物の2階の彼女の部屋の前では未だ彼女が家の中に入らず、私に向かって手を振ってくれている姿があった。
『あんなに可愛い女の子が「シチューオンライス」なる食べ物を何の疑問も持たずに食べるんだよなぁ……』
今となっては「あれは夢だったのではないか」とすら思える。とりあえず私も彼女に向かって2回程大きく手を振ると、正面に向き直り、その場を後にバス停へと向かった。
バス停へと向かうその道程。両端に畑が広がるその道沿いには200メートル程の間隔で街灯が設置されていたが、それでも辺り一帯は暗くとても静かだった。夏であれば虫の声で五月蠅い程に騒がしいのかも知れないが、まだその季節には早い為に虫一匹おらず、人家も少ない事で人の気配も全く無く、シンと静まり返っていた。
彼女の家から歩いて10分程。5メートル幅のアスファルトが敷かれた道路。車道と歩道の区別の無いその道の端っこに、バス停留所らしき板は立っていた。そこには「地面に座らないのであれば直立不動で待っていろ」と言わんばかりに、バス停以外の構造物が何1つ無かった。バスが時刻表通りに来るのであれば数分後に到着するはずであろう事から、私は大人しく立ったままに星空を眺めめつつ、それの到着を待つ事とした。
闇夜の空をぼーっと眺めていると、遠くの方にチラリと光が見えた。徐々に近づくそれの正面上部が赤く照らされていた事で、それが最終バスである事が遠目にも分かった。というか、人気のない闇夜の中、行き先が赤く照らされたバスの姿というのは、何処か別世界へと連れていかれるのではと思ってしまう程に、シュールな光景だった。
乗り込んだバスには目深に帽子を被った運転手以外に誰も乗っておらず、表情も無く口も一切開かないその運転手の雰囲気に、先に見た最終バスの姿が瞬間的にリンクし、それは私に恐怖感を抱かせると共にほんの少し背筋に汗をかかせた。だが直ぐに、そんな事で恐怖した自分がおかしくなり思わず笑いそうになった。だが私は笑いを堪える。私と運転手の2人しかその場にいない状況で私が笑ったとすれば、それは運転手を嗤ったようにも取られかねない。それで運転手が不快になったら本当に何処に連れていかれるか分かった物ではない。故に私は必死に笑いを堪えつつ車内を奥へと進み、出口付近の座席へと腰掛けた。そんな私の影の努力を知らないであろう運転手は、私が座るのを待ってくれていたのか、座った瞬間にバスを発車させた。
『私は死んでしまうのでないだろうか』
自分の顔が映り込む車窓を何の気なしに見ていた所、ふとそんな根拠の無い発想が頭を過った。それは行き先が赤く表示されているバスに乗ったからなのか、それとも雰囲気のある運転手がいた所為なのか、それともあんな見知らぬ料理を口にしたからなのか、はたまたそれら3つが頭の中で組み合わさったが故なのか。
『あれ? このバスの行先は何処だったかな……』
普段は乗る事の無いバス。先のバス停から乗車すれば、自宅付近にあるバス停まで行けるという簡単な事前情報だけを頼りにバスに乗り込んだ。故にそれほど気にもしていなかったし、行き先が赤く照らされていた事に気を取られ、行き先が何処かというのも見ていなかった。事前情報からすれば、あのバス停は1系統のバスしか走っていない。なので行き先を見る必要も無いはずなのだが、果てして赤く表示されていた行先は何処だったのだろうかと気になった。ひょっとして人には読めない字で以って「地獄行き」とか「あの世行き」なんて書いてあったのではないかと、そんなバカな事すらも考え始めていた。
バスの乗客は私一人だけ。車内にはエンジン音と次のバス停を知らせる録音された女性の声が定期的に聞こえるだけ。そんな状況も手伝って、私を不安にさせていただけなのかもしれない。
そもそもの発端はと言えば、あの「シチューオンライス」なる食べ物に他ならない。彼女とは楽しい会話も沢山したはずなのに、それら全てを忘れる程に、あの食べ物は衝撃的だった。今も頭から離れないあの料理は、結果「死」すらも私に感じさせている。それ程にあの料理は強烈だった。そんな私の不安をよそに、バスは乗る人も降りる人も居ないが為に次々と停留所を通過しながら進んでゆく。とはいえ何かあろうはずも無く、バスは時刻表通りに、自宅最寄りのバス停へと無事に到着した。
彼女の家の最寄バス停付近とは打って変わって、そのバス停付近は街灯やファミリーレストラン等の店の明かりが煌めき、人の気配も多く感じられる場所だった。その光景は先の事が嘘だったと思える程に、まるで別世界へ来たと思わせる程であった。というか、私はここに住んでいる訳であり、無事に帰還したといった方が正解だろうか。
私の家はバス停から歩いて10分程の場所にあった。その道程には50メートル間隔で街灯が立ち、ボツリボツリと空地があるもののほぼ住宅街という地域であり、遅い時間であっても歩く人がそれなりに見受けられた。
彼女の住まいは最新設備の付いた新築ワンルームマンションだが、私の方は風呂とトイレは付いてはいるが築30年という物件であり、立地と安さ優先で選んだ6畳一間の1Kという住まいだった。帰宅した私は部屋に入るなり服を脱ぎ、風呂場へと直行した。何がある訳でも無かったが、何かを洗い流したかった。
風呂と言ってもガス代節約とバスタブを洗うのが面倒と言った理由で以って湯船に浸かる事はほぼなく、専らシャワーのみである。シャワーだけであればひたすら頭と体を洗うだけなので10分もあれば終了する。
風呂から上がるとバスタオルで頭と体をバッサバッサと拭き上げる。あらかた拭き終えた所でバスタオルを首にかけ冷蔵庫へと向かい、中から缶ビールを1本取り出し、部屋の端の万年床の上に胡坐をかき、グビッとビールを喉奥へと流し込む。
「ふぅぅぅぅぅぅぅぅ」
少し長めのため息1つ。ふと頭を過る。やはりあれば夢だったのではないかと、あんな食べ物があるはずがないと、悪い夢を見たのかもと、若しくは自分の勘違いであったのではないかと、シチューでは無くカレーだったのではないかと。そんな悪い夢を見て疲れていたのか、缶ビール1本を飲み干しただけで酔いが回り始めた。
「まさかあの食べ物は片仮名のシチューではなく、『死中怨来主』とかいう名の毒だったとか……それが今になって効いてきたなんて事は……無いな。うん、無い。味は普通にシチューだったしな。さて寝よ寝よ」
私は急ぎパジャマに着替えると、髪が半乾きのままに布団の中へと潜り込み、睡魔に身を委ねた。
翌朝、カーテンを閉めずに寝てしまった事で窓からの朝日で無理やり起こされた。2度寝してもよかったが、寝坊の可能性も否定できないが為に少し早いが起きようと、布団の上でムクリと身を起こした。
「……あ」
ほんの数秒間の事ではあったが、布団の上でボーッとしている自分に気付いた。やはり寝足りないのか頭がすっきりしない。その原因もアノ料理なのではないかと思わず疑ってしまったが、そんな自分のあまりの馬鹿さ加減に呆れてしまう。とりあえずは体に鞭打ち起き上がり、朝のルーチンワークを済ませる。そしていつもの時間になった所で、サラリーマンである私は家を後に、会社へと向かった。
アノ料理の後遺症等は何も無いままに、無事に午前中の仕事を終えた私は同僚3人を連れ立って、行きつけの定食屋へと昼食を食べに向かった。
「――――って感じで白い食べ物が出て来てさ、まあ折角作ってくれた訳だし、とりあえずは全部食ったけどさ……まあ、味は悪くないから食べれるけどさ……」
定食屋のカレーライスに舌鼓を打ちながら、私は先日の事を同僚に話した。
「いやいや、カレーライスじゃねぇんだからよ、白いご飯の上に白いシチューってありえないだろ? お前さ、その女と別れた方がいいんじゃないのか? 他にも変な癖ありそうじゃね? 自分の身は自分で守らないと誰も守ってくれないぞ?」
「ホワイトオンホワイトって歯磨き粉じゃねぇんだからさ。ここの店のメニュー見てみろよ。カレーライスはあるけどシチューライスなんて無いだろ? お前の彼女はどこの生まれだよ。ハハハ」
とりあえずは「シチューオンライス」なる料理が世間一般に通じる料理では無い事に一安心した。ひょっとしたらアノ白い料理はカレーライス的な定番料理なのかと、単に私が知らないだけなのかなと正直ドキドキしていた。
しかし自分の彼女の容姿等についてアレコレ言われている訳ではないし、そもそも私が言いだした話でもあり、且つ私の意見に賛同してくれている訳なので何とも言えないが、自分の彼女がある意味ボロクソに言われるのは、正直良い気分では無い……。まあ、私の所為だけど……。
「いや、お前らはそう言うけどさ、ホワイトシチュー? クリームシチュー? それって日本人が開発した物なんだろ? でさ、大手から市販されてるクリームシチューのルウはさ、ご飯と合うように味が調整されてるって聞いた事あるけどな。であれば、その食べ方は間違いとは言えないだろ? むしろ正しいと言えるんじゃないの? 俺さ、ご飯にシチューをかけて食べてるシーンをテレビコマーシャルで見た記憶あるぜ? まあ、俺はそんな風に食べた事も無いし、自らの意志で以ってご飯にかけて食べるかどうかは別の話だけどさ」
同僚2人は私と同意見であったが、1人はソレを正しいと言った。いや、今後食べるかは分からないと言っている以上は「受け入れずとも否定せず」といった所だろうか。とはいえ私を入れた4人の中で3人が否定している訳であり、やはりあの料理は否決されたと言って良いだろう。
「そんな食べ方を本当に宣伝してんのかよ? 俺はそんなコマーシャル見た事無いけどな。だいたい白に白だぞ? メーカーがそれを推奨してたら流石に色のセンスを疑われるだろ?」
「今でもそのコマーシャルが流れているかまでは知らないけどな。でも見た事があるのは本当だぜ?」
「ふ~ん。つうかさ、そもそもクリームシチューを食べる機会があまり無かったっていうかさ、食べた記憶があまりないんだけどなぁ」
「どちらにしても、白に白は無いよなぁ。テーブルも皿も照明も白かったら見えねぇだろう?」
「そんな訳あるかっ! ギャハハハ」
「いや、色だけで言うならさ、トロロ御飯なんて白に白じゃねぇの?」
「……」
私を含めた否定派3人、多数派だった私達は呆気なく論破され絶句した。確かにトロロ御飯であれば白米、若しくは麦飯の上にアイボリー色のトロロをかけた物であり、色合いで言えばほぼ「シチューオンライス」と同じである。いや、シチューオンライスは肉や野菜の具材がある分、それらの色がある。だがトロロ御飯は具材が何も無い分、色は単色と言っていい程に無い。そのトロロ御飯は受け入れられるのに、何故かシチューオンライスは受け入れられない……
「いや、その……シチューっていう洋風の物が合わないんだよ……な?」
「え? あ、ああ、そうそう……そうだよな……」
我ら多数派の敗北が確定した。
「単に食わず嫌い、若しくは食べ慣れていないってだけじゃないの?」
とどめの一言も頂いた。
「個々には美味しいとは思う物だからな、食わず嫌いと言うのは、ちょっと違うかもしれないけどさ……」
それが精一杯の反撃。
同僚らと話をしていて気付いた事がある。御飯の上に何かをかける食べ物、いわゆる丼物は置いておくとして、他に洋風な物では何があるだろうかと考えてみた。真っ先に思いつくのはカレーライス、そしてハヤシライスといった所だろうか。カレーライスは国民食と言っていい程に溶け込み受け入れられているから今更何を言う必要もないだろう。ハヤシライスについては日常に溶け込んでいると迄は言えないが、まあアリだろう。であれば、シチューが御飯の上にかけられていたとしても、その形態だけを見れば何らおかしな物では無いと言える。では何が問題なのかと言えば、やはり「白に白」という色の問題が考えられるが、そこに出てくるのが「トロロ御飯」である。それが受け入れられている事からも「白に白」がありえない色の組み合わせで無い事は既に証明されている。ならば何が問題なのかと考えるに、シチューに対する固定概念があるのではないかと推測出来る。「シチュー」という西洋の名前の食べ物は、それ単体で器に入りそのままで食す、若しくはパンをソレに浸けて食すという固定概念が出来ているのではないだろうか。実際、私はビーフシチューを含めそのような概念を持っている。ソレを御飯の上にかける、御飯と一緒に食べようというのだ。それは拒否反応を示して当然なのではないかと。仮に御飯の上にかけられているのが食べ慣れているビーフシチューだったとしても、当然違和感を覚える。味については想像力が働かないから何とも言えないが、違和感は覚える。であれば単に慣れの問題であると、まずはそう結論付けて良いだろう。
ビーフシチューを御飯にかけた話の中で「拒絶」で無く「違和感」と言ったのには理由がある。その姿を想像するに、それはハヤシライスと同様の姿に見えたが故、それ程に拒否反応が無かったのである。そう、いくら「トロロ御飯」があるといっても、やはり見慣れぬ白白には抵抗感が拭えないのだ。トロロ御飯の「白白」が受け入れられているのだから色について問題は無いはずだとは、やはり乱暴な結論と言える。と言う事で一旦「トロロ御飯」の事は忘れて色の問題で受け入れられないのだと仮定した場合、ならばどうすれば良いのかを考えてみる。単純に白いクリームシチューを「カレーの色」に着色し、それを御飯の上にかけたとしたらどうだろうか? 恐らく見た目には問題は無い。が、「カレーと思って一口食べたらカレーじゃねぇじゃん!」とキレられる問題が起きるであろう事は火を見るよりも明らかである。故にその配色は却下である。それはハヤシライスの色でも同じであろう。
存外食べ物の色と言うのは幅が狭いようだ。いや、食に関して人は保守的と言ったほうがいいのだろうか。食べ物の色としては余り見る事の無いジーンズの様な青色は食欲を無くすと言う。ピンク色等もフルーツの何かであれば受け入れられるが、ご飯という意味では受け入れがたい色である。東欧ではそのような色のシチューらしき物あるらしいが、やはり食べ慣れぬ色であると言えるだろう。
ではシチューの白色はそのままに、御飯の色を変えてみるのはどうだろう? その場合は無難に黄色のサフランライス、若しくは炊き込み御飯等でよく見るような薄茶色とかだろうか。その上に白いシチューをかけたとすればどうだろう? ……う~ん、何か色合いが微妙な気がする。薄茶色であればクリームコロッケの様な色を連想させるから違和感は無くなるだろうかと思ったが、想像している分には余り美味しそうには感じない。それは単に私の想像力の問題だろうか……。
時間は刻々と過ぎ去り、定食屋に於いて開催されていた「シチューオンライスは有りや否や」の議論は我々「否定派」の敗北を以って終了していた。その後は沈んだ気分の中でモクモクと食事を口に運び、皆の食事が終わると誰となく席を立ち、揃って会社へと戻り仕事に就いた。
終業時刻を迎え、私は一人帰宅した。帰宅すると直ぐに部屋のパソコンの前に座り調査を開始した。調査内容は勿論、「白い食べ物」についてである。
調べていると「牛乳ラーメン」なる物を見つけた。パソコンの画面を通じて見るそれは、スープは白く麺は多少黄色が入っている感じだろうか。「おいおい……」と、最初は眉をひそめたが、見た目だけで言えば豚骨ラーメンと似ているようにも見えた。考えてみれば豚骨ラーメンもアイボリー色のスープにアイボリー色の麺という気もする。トロロ御飯同様に「白に白」というのは「無くは無い」という事が更に証明された事になる。とはいえ豚骨ラーメンは紅ショウガや青ネギが乗ってたりもするから色合いで言えば違うとも言える。
まあ、トロロ御飯が出てきた段階で「白白」を否定する論理は脆くも崩れ去っていた訳ではあるし、恐らくは気分の問題だけなのだろう。それこそ「見慣れぬ物」「食べ慣れぬ物」という感情的な理由で以って拒否しているだけなのだろう。
そう結論付けたものの、やはり「シチューオンライス」に対してのモヤモヤ感が払拭出来ない。そう思って尚も調べていると、一体本質が何なのか分からなくなってきた。
そもそも「食」とは人が生きていく為に必要な物である。それで言えば「味」は二の次と言っていいのかも知れず、味が二の次となれば見た目は論外、全く関係無いと言っていい。
遥か昔でいえば「火」を知らずに全てを生で食べていただろう。後に「火」という物を知り、焼いた肉や魚を食べて美味しいという事を知ったのだろう。それらは人類の進化と言える物。「食」という事の本質で言えば体に必要な栄養を摂取する事こそが本質である。見た目や味に拘るのはただの贅沢と言える話なのかも知れない。それに慣れきった現代に生きる私達が愚かな存在と言えるだけなのかもしれない。
とはいえ、現代のこの国に限って言えば味や見た目に拘れる状況で暮らしているのも事実であり、美味しい物を食べたいという欲求を満たしてくれる状況にあるのもまた事実。「美味しさ」に拘った物を一度でも口にした経験があるとするならば、「火」すらも知らぬ時代の「食」の原点に立ち返るというのは不可能に近いだろうし、それを試せば体を壊す危険すらもあるだろう。刺身やユッケ等があるだろうとか、生野菜があるだろうとか言う者がいるかもしれないが、それらを醤油やドレッシング等が全く無い状態で食べ続ける事を想像すれば、それは相当な覚悟を要する話だと理解出来るであろう。そう考えると、現代の食事情は何と素晴らしいのかと痛感する。
と、思わず「食」の原点にまで遡ってしまった。そう、白に白。ホワイトオンホワイト。そういった料理が正しいのか否か。いや、トロロ御飯が存在し受け入れられている以上、色に関する問題は既に結論が出ている。だとしても「シチューオンライス」なる食べ物を拒否する者が、私を含めて存在するのもまた事実であり、それはきっと無視していい数では無いはずだ。例え現代の食事情に有難味を感じていたとしても、否、感じているからこそ拘りたいのだ。
「食べたい物を食べれば良いでしょ」と、そんな事を言う者がいるかもしれない。それがお店であるならば自分が注文しなければいいだけの話であるから理解は出来る。だが、私のようにカノ女に、それも初めて家に招いて貰った上で、そして初めての手料理として出された食事に対して「食べたくないから要らない」と、そう口に出来るというのだろうか? して良いというのだろうか? 既婚者の男が自分の奥さんの手料理としてソレを出されて「要らない」と言えるのだろうか? そんな言葉を口にしたとして、彼女や奥さんは「食べたい物を食べるのが一番だからいいよ」と笑顔で以って受け入れ、他の食事を用意してくれるというのだろうか? そんな保障があるのならば、私だって心を鬼にそんな言葉を口にしたさ!
……ふぅぅぅぅ。さてさて、随分と長々と書いてしまったな。とりあえず私は自身に起きた事をこの手紙に記している訳ではあるが、そんな長い手紙を読んでいる君にとって「シチューオンライス」なる食べ物は日常的だろうか? だとしたら、残念だが私と君とでは良い友人にはなれそうも無い。
とりあえずこの手紙を書いた後も、私は暫くの間、生きている事だろう。暫くと言うか、まあ未だ20代だし、恐らく5,60年程は生きている事だろう。そしてその間に「シチューオンライスは有りや否や」の論争に終止符が打たれる事は、きっと無いだろう。きっとこれは人の深層心理をもくすぐるような、それ程にセンシティブな話なのだ。
私は未来の論争の役に立てばという思いで、この手紙を書いている。私が決して見る事の出来ない遠い未来、そこにいる君達がこの話に終止符を打ってくれる事を願い書いている。
そんな未来では「シチューオンライス」なる食べ物がどのように扱われているか、そんな事を考えていると思わず頬が緩んでしまうよ。もしかしたら完全に駆逐され、その様な食べ物など存在しないなんて、そんな未来もあったりするのかな、なんてね。
2020年8月1日 伊豆半 島人
◇
40枚近い便箋には、そんな事が書き綴られていた。凡そ150年程前に書かれたそれは経年劣化も激しく、元々は白かったであろう紙は茶色く変色し、文字も所々判別が出来ない程に傷んでいた。
手紙の中に書かれている「シチューオンライスは有りや否や」なる論争は、その手紙が書かれた後も数十年に渡って続けられていたが、とある文が投稿された事により、一旦は終結したかに見えた。
『食の好みは時として争いの種となる。それは時に愛する人とも争う可能性があるという事だ。従って、食に関しては暗黙の了解を以って、自分が受け入れられない物を食べる人を極力見ないようにし、食べる人は極力見せない様にして食べるという努力こそが一番の解決策であり、平和を維持できる。例え家族であったとしても、常に一緒のテーブルを囲む必要は無いのだ』
あえて議論しない事で擬似的にでも解決をと、争いその物を起こさない様にと、「沈黙は美徳」であるといった趣旨の、そんな文が投稿された。誰が書いたのかは不明のそんな文が投稿された後、論争は結論が出ないままに賛成派反対派どちらともなく、終わりを迎えていた。
そして誰もが「シチューオンライス」の存在すらも気にしなくなっていた21世紀末である2099年頃に、その手紙は発見された。発見したのは手紙を書いた者の曾孫に当たる者。それは何かの本の中に隠すようにして挟んであったという。その隠し方からも、手紙を書いた者はそれが何かの引き金になってしまう可能性を懸念していたのではと想像してしまうが、流石にそれは勘ぐりすぎだろうか。
曾孫は「シチューオンライス」を知らなかったという。食べる事が嫌いと言う訳では無かったが食に対する興味が全く無く、そこそこ美味しければ何でも良いという価値観の持ち主でもあり、その時代には「シチューオンライスは有りや否や」の論争は意識的に探さねば見つからない程に痕跡が消えていたこともあり、それ故に一般の人が目にする機会も無く、曾孫は周囲の人たち同様に名前すらも聞いた事がなかったという。
曾孫はその手紙の内容に感動を覚えたという。1つの食べ物の事でこれ程に熱く語れる曾祖父に感動したという。それと同時に、その手紙の内容に面白さを感じたという。いや、食に対して興味が沸いたと言えようか。そしてその手紙をそのまま、インターネット上に公開した。
公開した当初は何らの反応も無かった。曾孫は有名人でも何でも無く、元々ネットに何かを投稿するような事もしていなかったが故に特に注目される存在でも無く、それを投稿したとて誰が見るでも無かった。
いや、人知れず見ていた者がいた。投稿された直後から、見ていた者達が存在した。
傍目には終結していた「シチューオンライスは有りや否や」の議論は、実は極一部の人しか存在を知らない議論討論専門のサイトで以って、とある2つの集団により人知れず続けられていた。
一方の集団は日に一度はシチューオンライスを食べると豪語するヘビーイーター集団、通称「シチューラ・イーター」。そしてもう一方の集団は「シチューは単品で食べるべきだ!」と強硬に主張する反対派集団「シチュー・イズ・シングルアイテムズ」、通称「シチューシグズ」である。
そのサイトでの戦いはアンダーグラウンドでの戦いとも言え、一般人の多くはそんなサイトで何が議論されているかも知らない。知っている者も少なからずいたが、それらの者達は「シチューオンライスをネタに激しいディベートを楽しむ変わった集団」といった程度の認識しか持っていなかった。
『トロロ御飯があったか……であれば白白の問題は解決だな』
『確かにトロロ御飯は白白だ。それはそれで良い。それでも俺はシチューオンライスを食べないし、シチューオンライスなる料理は認めない』
『白に白は日常だ!』
『いや異常だ!』
『だから色についてはトロロ御飯があるだろ! 故にそれは解決した!』
『色彩を蔑にするようなそんな食べ物は看過出来ない!』
『そうだそうだ! それを許すなら料理人への侮辱だ!』
『ご飯があるんだから和食扱い。トロロ御飯と同じように扱ってやれよ』
『ご飯があるから何だ! シチューは洋食だ! だから白白は無い!』
『どんな理由だよそれ。つうかそう考えるとそれって和洋折衷なんだな』
『器の焼きや色彩にも拘るこの国に於いては洋食と言えども色彩は大事だ!』
『ただの家庭料理だ! そこまでこだわる必要は無い! 本質は味だ!』
『ならば一生、流動食で過ごして下さい』
集団の面々はその手紙が起爆剤になったのか、議論をヒートアップさせてゆく。アンダーグラウンドとも言えるそのサイトが熱を帯び始める。その熱はやがて一般の人々へも伝播し始め、手紙とそのサイトが脚光を浴び始める。
『こんなサイトがあったの?』
『この手紙は何なの? そこまで食に拘る?』
『食は生物の基本です。不要なら今すぐこの世から消えてください』
『昔からそんな議論が続いていたの?』
『本当にそんな白白した食べ物があるの?』
『昔の人は本当にそんなの食べてたの? いや、今も食べる人がいるって事?』
『シチューオンラインって何?』
『オンラインじゃなくてオンライスな。食べ物の話だよ』
『えっ? シチューオンライスを知らない人がいるの? 食べた事無い人いるの? 南極に暮らしてたの?』
『普通に美味しいと思うけどね』
『普通に合わないと思うけどね』
『君の普通は皆の中では異常です』
『皆の普通は僕の中では異常です』
『存在は知っているけど、俺は絶対に食べないね』
『存在も知らないし食べないし』
『一口位は食べてみたいなぁ。でも美味しくない時に棄てるのも勿体ないしなぁ』
『あえてそれを食べようとする人の気持ちが分かりません』
『御飯にシチューをかけるって何だよ! そこはパスタだろ! 俺はパスタにかけて食べてるぜ!』
『パスタって何だよ! パンを浸けて食べるのが普通だろ! イタリアに謝れ!』
2週間程は日本国内だけの議論であったが、その様子は徐々に世界へも拡散していった。ただフランスにはシチューオンライス同様のメニューが存在した。日本同様に白いライスで食べる白白した料理。故にフランス人は何故そんな議論があるのかが理解できなかったという。が、それ以外の国ではそれなりの反応があった。
『マジかよ! 日本には白いシチューがあるのか!』
『そのシチューをライスにかけて一緒に食べるらしいぜ!』
『My God!』
『神秘過ぎるぜジャパン!』
『何故シチューをライスにかける必要があるのか、誰か俺に教えてくれ!』
『肉をパンに挟んで食べるアメリカ人には教えない』
加熱し始めた「シチューオンライスは有りや否や」の議論は国境を越えた。とはいえ、所詮は個人の嗜好の問題であると片付けられ、真剣に聞く者はほぼおらずにコメディとして扱われていた。
「自分の好きなように食べればいいんじゃない? 人の好みに口を出す必要はないでしょ?」
手紙を読んだ上でのそれが、海外を含めた一般人の大勢であった。と同時に、皆はその議論も直ぐに終わるだろうと思っていた。実際には100年以上前から続いていた議論ではあったが、自分達がそれに飽きて来ていた事もあり、勝手にそう思い込んでいたとも言える。確かに手紙の公開から1か月程度はネットは勿論、マスコミも参加した事で熱さを極めたが、3週目辺りをピークに急激に下火へと向かって行った。急激に燃えた分、冷えるのも早かったといった所だろうか。だがそんな中で、人知れず新たな勢力が芽生え始めていた事を、誰も知らなかった。
『確かに腹の中に入れば一緒だな。反論の余地も無い』
『確かに食の本質は栄養の摂取だ。これに反論できる者等いないだろ』
『食の本質は快楽ではない。故に効率化こそが最優先、と言う事だな』
そんな「腹の中に入れば一緒である」という同じベクトルの集団が自然と出来あがっていた。最初はネット上だけの集まりであったが、それは静かに熱を帯び始め、誰彼無しに「オフ会を開こう」となり、早速とあるカラオケ店へと参集した。
「では生きる為以外の栄養摂取は全てに於いて無駄という事ですか?」
「それは乱暴すぎでしょう。多くの人は食事を快楽の1つとしている。それは見方によっては正しくないのかもしれないが、相当程度許容されるべきでしょう」
「その許容されるべき存在には肥満と言われる人達も入るのですか?」
「ああ、それはどう考えてもカロリーの過剰摂取ですしねぇ」
「物流リソースも無駄に消費していると言えますね」
「カロリーも物流もそうだけど、長期的に見れば医療リソースへの負担を強いる可能性もあるからね。であれば、無駄である事は確かだな」
「食べた分のカロリーを運動で消費しようという人達についてはどう思う?」
「どういう人達の事?」
「食と健康に気を遣う人達の事でしょ? 一見すると健康的に思えるけどね」
「食を快楽とするのは悪いとは言わないが、美味しい物を食べたいが為に運動してカロリーを消費するというのは、見方によっては本末転倒ではないかな?」
「確かに見方によりますね。食は生物にとって必須且つ本能とも言えますが、現代に於いては快楽の1つである事も否定できませんしね。かといって今更原始時代の食事に戻れもしませんよ、ははは」
「ですね、それに運動しなければ肥満になる可能性もある訳ですし。肥満になれば将来的には医療リソースに負担をかける存在になる可能性があるわけですし。であれば、十二分に許容されるべき存在と言えるのでないでしょうかね」
「とりあえず今回の我々の集まりに於いては、そういった肥満や食べたいが為に運動するという人達の事は、念頭に置かないでおきましょう」
「そうですね、それは次代に任せるとしましょう」
「では皆さん、その方向で進めるという事で宜しいでしょうか?」
「異議無し」
「『腹の中に入れば一緒である』を理念とする、で良いですか?」
「異議無し」
「『食の本質は栄養の摂取であり、効率化こそが最優先』を理念とする、で良いですか?」
「異議無し」
「では皆さん、私達で時代を変えましょう!」
意識を1つにした彼らはここに組織を作った。といっても何処かの公的機関に対し何か申請等をした訳ではない。皆それなりに真剣に考えてはいたが、それでもボランティア的なサークル活動といった気持ちに近かったと言えよう。
サークル活動をするにあたってはサークル名も決めた。後に結社として認識されるその名は「腹中皆同システムズ」。そしてその日が1つの時代の起点となり、その日は未来に於いて「ホワイトロック」と呼ばれる日となった。
彼らが目指す事は2つ。1つ目は「物流の高効率化」である。物流をエネルギーという視点で見れば、人の労力を含め物を移動させるのには大変なリソースを消費している。その中には無駄が多いと考えた。野菜や果物の形を保持したままに、1個1個を形が崩れないようにして運ぶなんて非効率だと。空間を保持し隙間を生むような積載方法で運ぶのは非効率であると。
そしてもう1つは「栄養摂取の高効率化」である。栄養の摂取は腸によって行なわれている訳だが、その腸内での栄養吸収を助ける為に、胃によって食物を溶かすという前段階がある。更にその前段階として口内での咀嚼という行程が存在する。だが現代人は余り咀嚼をしないままに食物を飲み込んでしまう。結果その食物は胃の中で十分に溶かされぬままに腸へと送り込まれる。溶かされていない状態の食物は腸内で十分に栄養として吸収されないまま、体外へと排出される。それはカロリーベースでの無駄、ひいては物流リソースの無駄遣いに繋がっていると考えた。
そこで彼らは考えた。
「野菜や果物、そして穀物、更には魚貝類といった食物の全てを、収穫したその場で液体化する。不規則な形の野菜等を液体化する事で、隙間の無い状態で物流網へと流す事が出来る。これにより物流リソースの高効率化が図れる。更には液体化、流動食化する事で噛む必要もなくなり、腸による吸収効率が飛躍的に高まる事が予想される。料理の際に捨てられる皮等に栄養が含まれているというのなら、それも含めて液体化する事で、栄養比率を高める事も出来る」
彼らは効率化を最優先として考えた結果、「全てを液体化、流動食にする」という答えを導いた。流動食その物は医療や介護といった現場、及び幼児向けに多種多様な味の物が既に存在していたが、これを日常食にと、全てのあらゆる食材を収穫した直後に液体化しようと考えたのである。
物流と栄養摂取という面から見れば、それは答えとも言える考え方でもあり、道具を用意する手間さえ何とかすれば、何らの反論が出来る物でもなかった。
家庭やお店で野菜や果物、そして魚介類とそれらを料理する際、若しくは食べ終わった際には少なからず廃棄する部分が出る。と言う事は、ゴミとなる部分も一緒に運んでいるという事でもある。野菜等の形状については物流を考え、大きさが揃っている物のみが市場へと流通しているのが現状である。とはいえ、工業部品のように効率よく箱等に納まる訳でも無く、潰れない様に傷つかないようにと気を付け緩衝材や空間を確保しつつ運んでいる。物によってはダンボール箱にバルク品の様にして入れる物もあるが、1個1個を個別にして運ぶような物もある。それは物流リソースの無駄遣いであると考えた。そしてそれらは討論議論サイトで以って「腹中皆同システムズ」の統一意見として公開されていた。いや、ある種の宣言といった方が正解であろうか。
『何食べても良いじゃん。個人の自由でしょ?』
『人の食事にいちいち口出すな!」
『何でもかんでも液体化なんてありえねぇだろ』
『何なら倍の送料を払ってやるよ』
『だったら俺は10倍払ってやるよ!』
『あなた方を擁護するような法律は何処にもありません』
サイトにはそういった反論……いや、単なる意見が並んだ。そして「腹中皆同システムズ」のメンバーは反撃する。
「物流や栄養摂取が非効率である事は明白である。その非効率は時に自然破壊に繋がる。その非効率が人間の欲望を満たすが為だけの物であるというのなら、それは傲慢以外の何ものでもなく、密漁や密猟といった行為と何ら変わる物では無く、資源の搾取といってもいい」
「あなた方は金があれば何をしても良いと考えているのか? 資本主義世界が故に金を持っているものこそが勝者であり、故に何をしてもいいと考えているのか? 故に資源の事など知った事では無いというのか? 故に自然がどうなろうと興味は無いと? あなた方の中には『モラル』という言葉は存在しないのか? それとも知らないのか?」
「個人の勝手で人類の共有資産といえる自然を意図的に破壊しようするならば、あなたの行動はテロである。個人の欲望を満たす事を目的としたテロである」
「あなた達の中では『法治国家』は『モラル不要国家』と同義なのか?」
メンバーらは意図的に「自然」「モラル」という言葉を用いた。存外「自然」という言葉を出されると反論するのが難しくなる事が多い。その言葉で責められた側は沈黙するか、そんな根拠は無いと言い張るか、または「ならば自然を破壊しているというデータを示せ」と開き直るか。当然「ならば自然を破壊していないデータを示せ」となる訳でもあるので、平行線をたどる事が多い。そういった自然を保護しながらに上手に経済とリンク出来れば良いが、存外「自然」とは厄介な物である。
同様に「モラル」という言葉も難しい。多くの国は法治国家であるが、それは法に定められていなければ何をしても良いという解釈も出来る。世の中には一挙手一投足を法で定めておけと言わんばかりに行動する者もいない訳ではない。それは一般人だけでなく首長や政治家にも言える事である。そう考えると、モラルとは何だろうかとつい考えてしまう。
その議論はネットの中、誰もが閲覧できる公開の場で以って行われていた。実際に議論に参加する人は少なく、何も言わずに黙って見ていた人が大半であった。その見ていた大半の人達は「まさかそんな流動食が主流になる時代が来る訳が無い」と、そうたかをくくっていた。
人は歴史という名の過去を勉強する。それは過去に何があったのか、どうしてそれが起こったのか、どうすればそれが起こらないように出来るのか、どうすれば繰り返さないかを学ぶ為である。
だが人は忘れる。いや、自分に直接被害が掛からなければ真剣に考えないというだけなのかもしれない。
150年程の昔、とある民主主義国家に於いて国家の行く末を左右する程の国民投票が実施された。その内容が内容だけに、多くの国民は「負ける事は無いだろう」とたかをくくり、無関心な者、選挙に行かない者が多数いた。だがその「まさか」が起こった。焦った多くの国民は「その選挙は無効だ」と騒ぎ始め、選挙のやり直しを求めたがあっさりと却下された。人々はそういった歴史も学んでいるにも拘わらず、そういった間違いを繰り返す。
そう、人々は自分の目の前に危機が迫らない限り、危機に対して鈍感であるのだ。自分が経験した事の無い危機に対しては鈍感なのだ。経験したとしても、喉元過ぎれば熱さを忘れてしまうのだ。
そして今まさにその「まさか」の出来事が静かに現実になろうとしていた。「腹中皆同システムズ」のメンバーが提唱した「物流と栄養摂取の高効率化」は、次第に世界へと伝播していく。特に自然保護を訴える団体は強く反応を示し、各種団体は声高に叫び始める。
「物流と栄養摂取の効率化を進めろ」
まずは欧州の国々が反応し始め、やがては米国が反応し始めた。日本では政府行政含め皆が無視していた状況ではあったが、欧米が声高に取り組み始めた事で日本政府も同調せざるをえなくなった。そして日本同様に世界は、その同調圧力に押され始める。
そんな中、「腹中皆同システムズ」は世界の後押しを受けるようにして、次第に勢力を伸ばしてゆく。とはいえ政党化して選挙に訴えるという訳ではなく、あくまでも提唱のみである。だがその言葉の重みは政府並みの重さであった。
「自然に反する物を出すな、自然を汚す物を出すな、自然と一体化して生きよう」
そう声高に叫ぶ。それは単なる声であったが、やがては政府行政により法や条例と言う形を得て、国民市民へと浸透し始める。浸透していくのと比例して、形を保ったままの果物や野菜を含むあらゆる食物の物流が減り始め、それに反比例して液体のそれらが流通を始める。
枚、個、本、玉、株、房、把、束、節、尾、切れ、丁と、それらはかつて野菜や果物、そして魚等の食物を数える際に用いられていた言葉。
ご飯100ml、イワシ150ml、牛肉100ml、ニンジン50ml、キャベツ70ml。それが今の数え方。だがこれには良い面もあった。かつては物により呼び名が異なっていた数え方。それは国語のテスト等にも出ていた。当然間違えれば減点となる訳であるが、1つに共通化された事で、その呼び名を口にする者はいなくなり、当然テストにも出なくなる。考えてみればアルファベットという26文字と0から9の数字を覚えれば良いだけの英語圏と、膨大な数の文字その物を覚える必要のある漢字圏とでは勉強その物の量が異なる。日本の場合には更にひらがなとカタカナも覚えないといけない。過去の日本は「生産性が低い」と言われていたと聞いた事があるが、そういった事も「生産性の低さ」という物の1つの要因だったのでないかと、ふと思う。まあ、既に存在しない言葉について考えを巡らせても、詮無きことではあるな。
米を含め野菜や魚は液体化し流動食となり、冷凍食品と呼ばれたそれらも流動食にした物が凍らせてある。そんな訳で、家庭で作る料理も大幅に変わった。
切る煮る焼く蒸す炒める。そういった方法はほぼ不要となった。温める混ぜるの2つの作業以外はほぼ不要となり、包丁が無い家庭が都心を中心にポツポツと現れ始めた。
揚げ物や炒め物といった惣菜等を販売していた商店。そういった店も原材料が液体等の流動食しか手に入らないが為に、ほぼ全ての商品が流動食になった。だが固形の物もあった。それはちくわ等の練り物である。元々は購入した魚を店でスリ身にして加工し販売していたが、魚も流動食の物しか手に入らず、それを加工して販売しているという形になっている。それ以外で固形の食物を販売している店と言えばパン屋、及び煎餅屋位であろうか。元々原材料が粉末や液体を冷凍した物だったので原材料には事欠かず、製造には特に問題は無かった。但しそれらの店はあくまでも対面販売のみ。作ったそれを宅配等で運ぶとなれば、それはそれで本末転倒である為に出来ないと言う事だ。
そう、出来ないのだ。法により流動食、または粉末化された物以外の物流システムを使用した移動は違法とされている。どうしても運びたいとなれば物流システムを使わない方法となる。つまりは個人で以って自家用車や自転車等で運ぶという事を想像するが、食物の移動は徒歩のみでしか許されないとされた。しかも近距離間のみしかダメだとされた。個人が車で運ぶのはエネルギーの無駄とされ、自転車等で運ぶにしてもその分のカロリーを消費するのだろうという事で駄目、そして歩くにしてもカロリー消費が顕著な距離は駄目だと、無駄なカロリー消費は資源の無駄であるという論理だ。
とりあえずそんな社会になって3年が過ぎた頃、世界ではどれほどに効果があったかのという発表がなされた。結果から言えば目を見張る程の効果があったという。
物流に於いては60%程の効率化が図れたという事だった。カロリーベースで言えば今迄は2台のトラックに満載して運んでいた量が、1台のトラックで余裕を持って運べるようになったという事だ。そして栄養の摂取に於いても当然効率は上がった。点滴で送る程に上がった訳ではないが、液体化により栄養素の摂取効率は飛躍的に上がった。裏を返せば、今迄は余り咀嚼せずに食べていた人が多くいたという事なのだろう。
とはいえ反発はある。例え味が同じだとしても見た目が異なると、食感が無いだろうと。それに対して「腹中皆同システムズ」のメンバーや流動食推進派は反論する。
「お腹の中に入れば一緒である。栄養も変わらない。否、むしろ栄養の摂取効率が高くなっている。勿論、味も変わらない、むしろ収穫直後に流動食として液体化しているので新鮮さがより封じ込められている。故に味は同等かそれ以上である。何よりも廃棄がほぼ無くなると共に物流の効率化に大きく貢献している。それは常に推進しなければならない省資源化に対する1つのアプローチであり答えだ。人の食欲という快楽を完全否定するつもりは無いが、全てを肯定するつもりも無い。それともその食感とやらは公害をまき散らし地球を破滅に向かわせてでも叶えるべき欲望であるとでも言うつもりなのか?」
論理で戦えば反対派に反論の余地が無いのは誰の目にも明らかであった。それでも反対派は叫ぶ。
「見た目は大事だ!」
「食感は大事だ!」
「全てがスープ状の物は飽きた!」
「練り物しか形あるものが無い。おかげで家では毎日おでんばかりだ!」
虚しく響くその声に対し、流動食推進派は呆れるようにして口を開く。
「見た目や食感は想像力で補え。味は何ら変わらないのだ、むしろ味で言えば流動食の方が収穫直後に加工してある分、新鮮であり美味しいとも言える。形があったとしてもお腹に入ってしまえば同じだ。本質で言えば流動食こそが正解だ」
反対派も推進派の言う事は理解は出来る。だとしても……
「それでも形ある物が食べたい! 食感が欲しい! 見た目に拘りたい!」
そう叫ばずにはいられなかった。そしてそう思う人は少なくない。例えそれが正しいとしても「正しい事と選択する事は異なるのだ」と声を大にして言いたい人は多かった。だが論理で戦えば当然勝てるはずも無く、故にただただ感情を口にする。
実際には練り物やパン以外の固形の食物が何処にも存在しない訳ではない。当然生産者である農家や漁師らは、野菜や魚を当初の形で扱っている訳である。そしてそれは特権とも言えるが、農家や漁師らは自分達で作った物を自分達で食べている。自分の畑で取れた物をその場で食している。釣ったばかりの魚をその場で卸して食べている。単にその畑から移動、漁港から移動される際に液体化、流動食化をしなければならないだけである。同様に自宅の庭、若しくは付近に畑を借りて栽培している場合、それが個人消費の場合に限っては形を保ったままの野菜等を食べる事が可能である。
稀に流動食化せず形を保ったままに野菜等を流通させようとする者もいるが、見つかれば密輸同様の法令により罰せられる。その量によっては懲役が科される時すらもある重い罪である。
そして流動食化が法制化されてから50年程が経過した2172年の現在、世界は相変わらずエコと省エネを合言葉に果てしない効率化を目指している。
都心に住む私は固形の食材を此処数年見ていない。私が住むマンションベランダにてトマトの栽培を試みた事もあるが、やはり都市部に於いては存外野菜を育てるのはハードルが高く、万が一にもそれを日々の食事として出そうとすればそれなりの知識と多種多様なリソースを要する事になる。私はそれに耐えられずに諦めたという過去がある。室内で以って工業品のようにして栽培を試みる者も稀にいるようだが、それはそれで相当な電力を消費し、それが世間にばれれば「腹中皆同システムズ」を始めとした世間からの容赦ない口撃に晒された。
そもそも私は「ホワイトロック」以降に生まれた世代でもあり流動食が当たり前の世代である。それ故かそれ程に固形の物を食べたいという欲求は持っていない。私同様に「ホワイトロック」以降に生まれた者達は私同様に思う者達が多いらしい。それを欲するのは実家が農家や漁師、若しくは庭で栽培しよく食べていたという過去を持っている者達である。だがそんな農業や漁業も完全なる工業化が目前でもあり、そうなればそういった仕事に従事している者達やその家族であったとしても、それを口にする機会は滅多になくなる事だろう。固形の物を口にした者がいなくなれば、それを欲する者もいなくなるのであろう。結局は慣れの問題であり、それを知らなければそれを欲する者もいなくなるというのは、自然な道理というものであろう。
その流動食化に多大なる貢献をした「腹中皆同システムズ」は結社という形態で今も存在してるわけだが、結成当初は10人程度だった人数も今や世界中にメンバーを抱え、その数は100万人を超える規模であり、選挙に於いても無視出来ない数となっていた。
『見た目は関係無い。美味しければいい』
「腹中皆同システムズ」が出来る直前までそんな軽口を叩いていた人の大半は既に高齢になっていた。その後に「腹中皆同システムズ」が出来た訳ではあるが、その際にはそれらの言葉が言質として取られ、更にはエコを盾に物流問題にすり替えられ、結果全てが流動食になった。それらの者達は「もっとよく考えてから口にすればよかった」と、「もっと食を本気で考えれば良かった」と、今更ながらに後悔の言葉を口にした。
時既に遅く、動き続ける時計の針は加速すれども戻る事は決して無い。元に戻すと言う事は非効率を追う事であり、今更そんな後戻りを世界は許しはしない。
後悔し続ける日々を送る高齢者達は、野菜の食感を想像しながらに流動食をすする。野菜の食感が恋しいと、アワビやツブガイの食感が恋しいと、肉が舌の上でとろける感触が懐かしいと、中トロが懐かしいと、そう涙ながらに言い続け、やがて永遠の眠りへ就いていった。
軽口を叩かずともただただそれを黙って見ていた者達も高齢となり、当時声を上げなかった事を悔みながらに、涙を流しながらに、永遠の眠りへと就いた。
「お待たせしました」
黒いスーツを纏ったウェイターの手によりテーブルの上、私の前へそっと置かれたそれは、1枚の丸い真っ白なスープ皿。その皿の中には白いライススープが注がれ、そこにアイボリー色のシチュースープがライススープをキャンバスにして、「三保の松原から見た富士山」といった景観を描いていた。とはいえコントラストがほぼ無いそれは、至極薄い水墨画と言えなくもない。今やレストランでは当たり前のスープアート。といっても、それは機械によって描かれている。そして私が頼んだ料理の名は「シチューオンライス」。
『魚沼産コシヒカリ:150ml、クリームシチュー:ニンジン20ml、ジャガイモ40ml、玉葱50ml、豚肉50ml、バターミルク100ml、他調味料』
メニューにはそういった材料表記も併記してある。そう、当然材料は全て液体である。それをレストランに於いて独自の配合、及び企業秘密の液体を混ぜ合わせた後に、客に提供するというのが現代の常識である。
「では、ごゆっくり」
ウェイターは恭しく頭を下げるとスッとその場を後にした。それを見届けた私は銀色に輝くスプーンを手に、アートを崩さぬようにしてスプーンをそっと皿に沈ませ、2つのサラッとしたスープがスプーンの上で絶妙な量になるようにして静かに掬うと、そのまま口の中へと流し込んだ。
「……うん、美味しい!」
食感は全くないが、味は文句無しに美味しいソレ。過去のシチューオンライスではライスは柔らかい固形物であり、シチューもドロリとし、その中には固形の野菜類がコロコロ入っていたと聞く。だが現代に於いては全てが流動食か液体である為にそれを再現する事は難しく、私が昔のソレを口にするのは困難である。故に味の比較はできないが、まあ、味で言えば変わらない、若しくは時代が進んでいる分、現代の物の方が美味しい可能性が高いと言えるだろう。
あの手紙の中で「お中に入れば一緒でしょ」と言っていた女性が今のこの時代の食事情を知ったら、果たしてどう思うのだろうか。「お中に入れば一緒だから気にしない」と、笑顔で言うのだろうか。まあ、100年以上も前に生きた女性の話をしたとて無意味ではある。どちらにしても美味しい事が大切であろう。
しかしこのシチューオンライスは食べるのが難しい面がある。下手に食べれば全てが直ぐに混ざり合ってしまうのだ。混ざらない様にして食べるのは非常に困難であり、どうしてもと言うのなら別皿で頼むしかない。だがそれでは「シチューオンライス」とは言えない別メニューである。まあ、最後の方は絶対に混ざり合ってしまうし、それに「お中に入れば一緒でしょ」という考えが全盛である現代からすれば当然文句が出る物でもなく、私も特に気にしない。結局は遅いか早いかの違いだけである。次第に混ざり合うそれは「味変」と思えば良いだけの事であり、一番最後の一口は混ざり合って時間が経った分、マイルドな風味を醸し出しているとさえ言えよう。
食の本質は色や形を含めた見た目でなく、あくまでも舌が感じる味覚。いや、生物としては栄養にこそある。故に流動食が全盛となっている。
とはいえここはレストラン。目の前に出されたソレは盛り付けに拘る事がほぼ不可能な材料で以って提供されている。レストランが出来る事と言えば材料の配合とスープアート。スープアートといっても、それら全ては機械で行なわれており、レストランが賞賛される事でも無い。
今回私が注文したメニューはシチューオンライス。たまたま似たような色同士で良くは見えないが、メニューによっては10色程の材料が使われ、それを用いてのアートが1つの皿の上に広がる事も珍しくは無い。人がやっている事では無いのでレストランが賞賛される事でも無いが、その機械を開発した技術者達は賞賛されるべきであろう。
では現代に生きる料理人の本分はというと、2種類に分かれると言って良いだろう。1方の料理人はほぼ液体の材料しか使えない中、それらの膨大な組み合わせにより味を追求し、客に提供し続けている。もう1方の料理人はというと、都心から離れて田舎で以って店を出す者達である。それらの者達は店の傍に畑を持ち、その畑で以って自分達で野菜等を育て、その野菜等をそのまま使用した料理を提供している。
液体の材料で以って料理を提供する者、田舎で作物を育てつつ料理を提供する者と、料理人は今いる環境で以って出来る限りの拘りを以って、1つの皿を作りあげている。見た目や食感よりも効率が優先される時代ではあるが、それでも拘れる所は拘ろうとしている。それが料理人の矜持であると、こんな世界の中に於いても味を追求し日々研鑽を積む。食材がどうなろうとも研鑽を積む日々は決して終わらぬのだと、そう口にするが如く、料理人は腕を振るう。
だがその場もいずれは無くなる日が来るのかも知れない。全ての料理を機械が行なうという時代の足音が、近くまで忍び寄っている。それはひとえに効率化の為。いずれは料理人と呼ばれる存在がこの世から、消えてしまう日が来るのかも知れない。
考えてみれば料理とは不思議な物だ。音楽や絵画という作品は後世に渡って残るが、出来あがって直ぐに消費される「料理」とは、砂浜に城を作るが如く刹那的な芸術作品に思える。波や風により消えてゆく砂城が如く、人が食し始めた段階で破壊が始まり、完食した段階で痕跡無く消え失せる。準備に時間をかけ技巧を凝らしたそれが一瞬で壊れて消えてゆく。そこに行きつくのにどれだけの修行や勉強したのか知れない。
我々はそんな料理人、いや、料理を作ってくれる全ての人、そして食材に対して常に敬意と感謝を忘れてはならないのだ。当然それは日々の食事に於いても同様であり、一食一食を無駄にせず、作ってくれた人、そして食材に対して常に敬意と感謝を忘れてはならないのだ。
そう言えば未だ形ある物が商店に並んでいた時代、子供らは切り身となっている魚しか見た事がないとかで、それがそのまま海を泳いでいると思っていたなんて話があったとかなかったとか。であれば、現代の子供達の中には流動食ばかりを見ている事で、それらの元が何なのかを知らないなんて事も、あながち無くは無いのかもしれない。
さてさて、随分と長々と書いてしまったな。とりあえず私は自身に起きた事をこの手紙に記している訳ではあるが、そんな長い手紙を読んでいる君にとって「食」とはどんな物であろうか? 目の前に出された物を何も思わずただただ口にしているだけとかだろうか? だとしたら、残念だが私と君とでは良い友人にはなれそうも無いな。
私はここシチュースープ専門レストラン「ブランシュ・エ・ブラン」のオーナー。今日も料理人の作った料理は抜群に美味しかった。皆さまもお近くにお立ち寄りの際は、是非当店へお越し下さい。
2172年8月2日 伊豆半 島九郎
2020年08月16日 初版
さてさて、私はシチューオンライスなる物を知りませんでした。それを知った時には眉をしかめた記憶がありますが、人の好みは千差万別であるという事からも「白に白でも構わない。シチューオンライスはありなんだ」という、これは私への戒めを含めて書いた文章でもあります。まあ、戒めを含めて書いたのは事実ですが、だからといってソレを自らの意志で以って食べる、チャレンジしてみるという事は…………無いだろうなぁ。