日常の外側へ。
奏はあっさりと了承した。冬の海というのも面白そうとのことだ。
思えば、海に遊びに行くなんて体験はしたことが無い。 塩っ辛い水で何をするのだという話だ。塩素の匂いがする水の方が良いのでは、なんて思う。
それでも、夏になれば砂浜を埋め尽くす人、他人、ヒト。
何が人々を海に引き寄せるというのだろうか。
冬の海でその魅力を実感できるかはわからないが、まぁ良い。
今日は終業式の日。明日出発だ。
職員室に行った奏を待っている間、スマホで調べ物。
旅行の行程を、スマホで検索した電車の時刻表や、宿までの地図を確認しながら練り直していく。
素直に、楽しみになって来た。奏に行先を提案する時は、結構緊張した。
人が少なそうな時期だし、良いかもと。
シーズンオフの観光地にはシーズンオフなりの魅力があるとか何とか。
「九重君。おつかれ」
「あぁ。霧島」
「随分楽しそうではないか」
「まぁ、な」
俺の中ではいまだに監視対象の彼は、不敵に笑う。
部活に行くのだろう、ジャージ姿の彼は、目の前の奏の席に座る。
寒気が走る。それは、俺の中で危険だと警報を鳴らしてくる。
忘れるな。こいつは、志保を攫う計画を指示し、奏を拘束し、俺に銃を向けた。
「そう警戒しないでくれよ。今の君に。すっかり牙が抜けてしまった君に、興味を失った」
「……は?」
「それを報告しに来た。僕をもう、警戒する必要はない、という話だ」
……信じるのか。俺は、その言葉を。
「信じられないのはわかるとも」
「あぁ」
「現に、僕にはまだ監視の目がついているようだ。撒こうにも撒けないから、どうにも居心地の悪い日々だ」
誰がついているのか知らないが、報告が無いということは、これと言って目立った動きが無いということだろう。
「俺に言ったところで、監視を外す理由にはならない」
一度は人を殺すことに片手をかけた。その事実は、消えない。
「そうかい。まぁ良いや。何かするわけでも無い」
警戒を外すための嘘だとしても露骨過ぎる。
わざわざアピールしても、逆効果だろう。狙いはなんだ。
「……駄目か。駄目だね。今の君に、憎しみもイラつきも抱けない。本当に変わってしまったな、君は。
あのかっこつけた笑みの下に隠した、必死さはどこに行ったのやら。届くかもわからないものに、必死になって手を伸ばす君はどこに行ったのやら僕は、それが絶望に変わるのがみたかったのにさ。それが僕なりの復讐だったのにさ」
「霧島、一人じゃないって、結構良いものだぞ」
「はっ。そうかい。煽れば見られると思ったが、本当に駄目だね。楽しみが一つ消えたよ」
ため息を零し、席を立つ。
「九重君。こう言っておこう。おめでとう。君はもう、前のようには戦えない」
「どういう意味だ」
「その機会が来なければわからないし、来ない方が良いのは普通に生きる人にとっては当然のこと。来たら、多分、そうだね、嫌でも実感するんじゃないかな」
戦う時が来れば……。
そんな時が来て欲しくない。そう思うのは当然だ。
もう、怖い思いをしなくても、良いように。
「ただいまー」
「おう」
霧島が立ち去ってすぐ、奏が戻って来た。
「久遠さんもお疲れ。それじゃ」
「う、うん」
霧島を見送り、二人きりの教室。
「待っててくれてありがと。志保さん達は?」
「迎えが来るからもう行ったよ」
「そっか」
奏との日常を望めば、俺はもう、戦わなくても良いところに。なんて。
最低でもあと二年、俺は志保を守るつもりだ。
でもその先。
大学、就職。
「……なんて、考え過ぎか」
「なにが?」
「なんでもない」
コートを着てマフラーを巻いて。不思議そうな眼を向けてくる奏に笑いかける。
「……史郎君って、そんな風に笑えるんだね」
「むっ、どういう意味だよ」
「ふふっ。良いと思うよ、とても。ほら、早く行こ。ご飯何にしよっかなー」
明日が楽しみになるのは。今が楽しいから。
明日が楽しみになるのは、大切な人との日々だから。
明日が楽しみになるのは、希望があるから。
「史郎君、ちゃんと旅行の準備できてる?」
「あぁ。奏は?」
「問題無いよ。旅行に行きたいって言ったら、お母さん、帰って来るって」
「そっか。それなら、良かった」
小さな吐息。それがため息だと気づけたのは、付き合いが長いから。奏は、自分が大丈夫だと見せるために、本当のため息は隠すんだ。
「奏。あー、親には、甘えるものじゃないか?」
「それ、史郎君が言う? 棚上げだよ、棚上げ」
「……俺に、親はいないよ」
歩き出そうとした奏が足を止め、振り返る。
「……なんだよ」
「うーん。寂しいのかなと思ったけど、そうでもなさそうだね」
優しい手が、頭の上で動く。頭を撫でられる。
「奏がいたから、別に寂しくない」
「……そか」
改めて、帰路に着く。
もう殆ど沈んでしまった夕陽に照らされる。
夕陽と夜空のコントラストに目を奪われた。
「この季節の空、好きだな」
奏の呟きに、俺は頷くことで答えた。
奏と見る景色は、いつだって、綺麗だ。世界が少しだけ、優しく見える。
明日から始まるちょっとしたある種の逃避行に、心が喜んでいる。
「おっす」
「おはよ」
朝食は一緒に食べたけど、なんとなく挨拶した。
旅行鞄を肩に担いだ俺と、トランクケースをガラガラ引きずっている奏。
「史郎君も駅まで乗せていくから、荷物はトランクにお願いねー」
「あっ、えっと、ありがとう、ございます」
奏のお母さんだ。
車のキーを指で回して、クイっと親指で赤い軽自動車を指す。
「いやー。奏が旅行に行きたいって言った時は驚いたよー。よろしくね、史郎君」
駅までの短い距離。久々に会った奏のお母さんは、相変わらず、少しだけ、程よく賑やかな人だ。
適度に気まずい沈黙にならないようにしてくれる。
「俺がお世話になることの方が多いと思います」
「あっはっはっ。いざって時は、史郎君の方が頼りになると思うよー。何となく」
「そんな時、来ない方が良いですよ」
ロータリーで下ろしてもらい、車を見送って駅へ。切符を購入して、ホームで電車を待つ。
「なんか、ドキドキするね」
「わかる」
長い付き合いだが、こうやって二人きりで遠出したことなんて無かった。
お互い、別のことで忙しかったから。
帰る場所が近くて、一緒にいられたけど。それでも。どこか遠くにいる時の方が多くて。
俺と奏が決定的に近づいたのは、あの夏の日。奏を助け出した時、かもしれない。
電車が入って来た。俺達を日常から連れ出してくれる一本だ。




