特に何もない夏の日。
夕方の駅前、ちょっとした買い物の帰り。すれ違いざまに放たれた拳を辛うじて躱した。
「久しぶりだな。史郎少年」
「……班目さん」
キャップ帽を目深に被った、ショートヘアの女性。見た目は二十代前半といったところだが、実年齢はわからない。
「少し腕は落ちているが、許容範囲だな」
「明らかにプロの動きしてましたから。少し警戒していただけです」
「ははっ。その気づきも含めてだ」
話している間にも、俺達の間では拳や足のやり取り。
周りから見ればただ会話している二人だろうが、こちらは一切気を抜けない。
鳩尾を狙った右拳、班目さんはその手首を掴んで止める。
「……合格ラインは越えているな。安心したよ。いや、朝倉のところのお嬢様の件からも、そこまで心配はいらないと思っていたが、一応自分の目で確かめたくてね」
「お気遣い、感謝します」
「ははっ」
頭を下げる。
こんなところで、組織時代の先輩に会うことになるとは思うが、会いに来たというなら納得だ。今の俺の実力が気がかりというのも、理解できる理由だ。
「まぁ、頑張れ」
「はい」
班目さんはそのまま振り返り、歩き出す。俺も帰ろう。
「あ、そうそう。最後にもう一つだけ」
「はい」
「結愛お嬢は、大丈夫かい?」
「……? 大丈夫ですよ。立派に仕事をしています」
「あんたも甘いね。うちの基本。任務達成率百パーセント。忘れないように」
それだけ言い残して、班目さんは人混みの中に紛れて消えた。
目が覚めて、俺はまず、頭を抱えた。最近毎朝そうしてる。
『史郎君のこと、好きなんだよね……大好きなんだよね』
奏の顔と、言葉を思い出して。温度を思い出して。
どうしたら良いかわからなくなって。
幸せなんだけど、でも、それは味わって良いものかわからなくて。
噛みしめても良いものなのかわからなくて。
「史郎君、何を悶えているの?」
ゴロンと転がり横を見ると、奏が制服姿でベッドの横にしゃがんでいた。
「起きたなら早く朝ご飯食べよ」
「あ、あぁ」
奏は平然としている。
告白した恥ずかしさとか、気まずさとか、全く感じさせない。
「ダセェ……」
意識するなという方が無理だとは思うが、それでもそれを表に出さない程度の努力をしなければ。
リビングに行くと既に朝食は用意されていて、奏は席に着いていた。
しっかり手を合わせる。
パンとジャム。ベーコンエッグに野菜スープ。体に良さそうなラインナップだ。
「夏休みの勉強合宿、部屋割り決めるの、先生が手伝って欲しいって」
「マジか。面倒だな」
あの先生、変なところで丸投げしてくるな。奏が優秀だからって……。
いや、志保と結愛を同じ部屋に置く権利を手に入れたと考えれば良いか。
それから、身支度を整えて。
「あっ、史郎君、寝癖」
「お、おい」
「良いから、動かないで」
ポケットから取り出した櫛を俺に向け、にっこりと微笑んで。
後髪が櫛で梳かれる。
正面から見上げてくる奏は、肩越しに、俺の後ろの姿見を見ていた。
近い。とても。
一瞬目が合った。逸らしたのは俺だ。
「ふふっ」
からかうように笑って。さらに丁寧に髪を整えていく。
息がかかる。奏の体温が近い。
奏の可愛らしさを感じる整った顔。楽し気な目。目を逸らしたところで、それから逃れ切れはしなくて。
かと言って、眼を閉じたら、視覚以外で感じる奏が強調されて。
爽やかな甘い匂い。時々触れる、温かく柔らかい感触。聞こえる息遣い。
「ん、んぐ」
「よし」
そろそろ限界、というところで、奏は俺を解放した。
限界の先で、俺はどうなっていたのか。それを知る由は無いが。奏は丁度良いタイミングで俺を解放したと言える。
「あの、さ。これ向き合ってやる意味あった?」
「気にしなーい」
クスクス笑って玄関の扉を開ける。
奏に続いて家を出る。
まだ朝なのに、元気に照らしてくる陽の光。
横を歩く奏も、少し顔をしかめた。
「日傘が欲しくなるね」
「奏に日傘か。似合いそうだな」
「史郎君は私を何だと思っているのさ?」
パチリと片目を瞑って、上目遣いを向けてくる。
心臓が跳ねる。
「んー……ふん!」
「えっ、ちょっといきなり電柱殴ってどうしたの?」
「精神統一」
「……そっか。ふふっ」
「なんだよ」
「べっつにー」
上機嫌にスキップを初めて。俺にさらに首を傾げさせた。
「ねぇ、史郎君」
「なんだ?」
小走りで俺に詰め寄り、少し背伸びして。
「大好き」
耳元で、囁かれた言葉は、耳を通りあっという間に脳に染みて、心を熱くする。
「……こんなところでやめろよ」
「照れてる」
「照れるわ」
「開き直っちゃって」
「お前誰だよ。本当に奏か?」
「うわ、酷い」
「俺の知ってる奏は何処に」
「春休みに三つ編みと一緒に切り落としました」
「そっか……」
朝から心臓を直接攻撃して、脳みそを溶かしてくる幼馴染と共に、夏休み前の数少ない学校生活を始めたのであった。
平和だ。
夏休み前、消化試合のような日程。
勉強合宿の説明とか、大掃除とか。
ロッカーに突っ込んである教科書を小分けにして家に持ち帰る作業も、終業式の日には終わる計算だ。
放課後、駅ビルのジェラード専門店で、それぞれ好きな味を購入。
いつもの如く、奏と結愛は、どの味にするか悩んでいた。
「やはは、よく久遠ちゃんのお許しが出たね。置き勉なんて」
俺の少し膨れた鞄を見ながら、志保は苦笑い。
「奏は真面目だが、無駄なことをそのまま受け入れるような人でもないよ」
鞄がはち切れるリスクを抱えながら、やたらと種類が多く、重い教科書を入れるなんて、とか言いそうだ。
「夏休みのご予定は? 史郎」
「考えてない」
「やはは」
「志保はどうなんだよ?」
「考えてない」
「だろうな。まぁ、まずは、勉強合宿だよなぁ」
夏休みが始まって一週間後、開始されるとのこと。
ホテルに軟禁されるのは三日間、スマホは取り上げられ、次に外に出られるのは最終日の夜。近くで祭りがおこなわれるから、そこでの自由行動が許されるのだ。
夏休みの意義について悩まされることになる日程。
会話は途切れ、数分後に食べる味を、今は目で楽しんでいる志保。
その横顔に、少しだけ視界が固定される。
綺麗だな。やっぱり。
見た目に惹かれたわけじゃないけど、魅力を感じなかったわけじゃないんだ。
いや、そうなると、見た目に惹かれたことにもなるのか。
はっきりと言えるのは、結局、志保といるのは、楽しい。だから、俺は今、こうして一緒にいる。
「史郎君、どうしたの? 朝倉さんの顔じっと見て」
その声に、一気に現実に引き戻される。
「えー、史郎。どうしたの?」
「……志保、融けてるぞ」
「えっ、わぁ」
慌てて崩れかけた部分を舌で舐めとり事なきを得る。
「志保の熱視線に耐えられなかったのだろうな」
「そんなに見てないよ」
「人間に向けたら穴でも開きそうなレベルだったぞ」
「酷いよ、史郎。私が食い意地張ってるみたいじゃん」
「えっ?」
「えっ? 朝倉さん?」
「えっ? 志保さん?」
ちょうど戻って来た結愛まで戸惑わせた志保は少しむくれたが、ジェラード一口で機嫌を直した。美味しいものは偉大である。




