仕事の終わり。
日付もそろそろ変わる頃。
志保は、社長さんに休むように言われ、この場にはいない。思ったより素直だった。
風呂入ってベッドに潜り込めばすぐに眠ってしまうだろう。
出された紅茶を一口飲んで、喉が渇いていたことに気づいた。そういえば腹も減ったな。
俺も結構気を張っていたみたいだ。
茶葉はわからないが、多分、高いんだろうなと思える。付き合っていた頃に、志保が紅茶は香りを楽しむんだよとか言っていた。
「本名を名乗りなさい、二人とも」
「九重史郎です」
「萩野結愛です」
室長に促され、俺達は名乗る。
社長さんは一つ頷いて。そして、話をまとめようとしているのか、目を閉じた。
それからしばらく、息を吐く音に顔を上げた。
「惚れ薬です」
社長さんが、ぽつりと、そう切り出した。
「完璧な、惚れ薬です。飲んで、最初に見た相手を好きになる。そういう薬です。それはもう、その人のことしか考えられなくなる。そんな恋愛感情を呼び起こさせるほどの効果。志保を攫った狙いは、恐らくそれです」
「惚れ薬……そんなもの、何に使うと言うのですか? それこそ、法を犯してまで欲しくなるとは思えませんが。いえ、あったらなと思ったことは勿論ありますけど」
「結愛にしては察しが悪いな。別に誰かと良い関係になるために使うわけじゃないだろ。べた惚れさせて、例えばライバル企業のお偉いさんにそれ使って、機密情報を持って来させることができる」
「九重君の言う通りです。私の部下が、効果の実験のついでとして、同業他社の幹部にそれを使い、新製品の情報を聞き出したとして、問題になりました」
室長が腕を組んで唸る。
「製品化は?」
「するわけないじゃないですか。しかし、部下がそれを使ったことにより、噂が広まったらしく、レシピを買いたいという人がかなり現れまして。過激な手段をちらつかせる人も。なので、娘だけでもと、すいません。事情も伝えず。まさか、本当に」
「いえ、今回は我々の落ち度でもす。今後は、二人体制を取らせていただきます。彼女よりも戦闘面に秀でた彼もいますので、安全性は増すはずです」
「ありがとう、ございます」
「……もしかして、志穂に護衛を付ける件を伝えなかったのって」
「はい。確信は持てなかったので。無闇に怖がらせるものではないと考えたからです」
少し前、結愛が吐いた嘘は、実質、嘘ではなかったのか。
「しかし、驚いたよ、九重君。志保から話は聞いていたが、元カレの君と、まさかこういう形で会うとは」
「んぐっ」
思わぬ方向からの会心の一撃。くっ、油断したか。
「お、俺は、あ、あなたが俺のことを知っていることに、お、驚きましたよ」
「先輩、声が震えています。元カノのお父さんに会うのが気まずいのはわかりますが、落ち着いてください」
結愛からの冷静な追い打ち。心臓にダイレクトアタック。
「志保は、会うたび楽しそうに、君のこと話してくれたからね」
「俺は、何もしてませんよ。何も、できていませんよ」
むしろ最後には、辛い顔をさせてしまった。何もどころか……ゼロどころか、マイナスかもしれない。
本来なら、合わせる顔が無いんだ。
社長さんの顔は真剣だった。
向き直る。何言われても文句は言えない。そんな開き直りに近い気持ちで向き合う。
「何もできていないなら、あんな楽しそうに話はしませんよ」
「そう、ですかね」
「そうだとも。だから、今後とも、志保と、仲良くしてやってください。正直、脅迫が届き始めてから、志保の人間関係にも、口出した方が良いのではと迷っていましたが、
私の迷いを、志保は見透かしていたのでしょう。情けない。
でも君なら……娘を、よろしく頼みます」
そう言って、社長さんは頭を下げた。
室長の手が、ポンと肩に置かれ、結愛が背中を軽く叩いた。
「……はい!」
「あ、あと、勉強の方も、お世話になっているようで」
「あ、あはは」
「今回のテスト、はい。赤点が無かったことに、安心していますよ」
「そうですか」
……うん。
そうか、楽しそうに、か。
そっか。
ちゃんと、楽しかったんだ。
「室長。何さらっと俺を組織の人間として話しちゃってるんだよ」
「まぁ、良いじゃないか。結愛のしたことは立派な命令違反だが、むしろ都合が良い」
「チッ」
「君は相変わらずだな。そんなに私のことが嫌いかね?」
「嫌いじゃない。大嫌いだ。自分の親共々」
「はははっ、君のご両親は健在だよ」
結構な組織のピンチを経験しておいて、いつもの調子を崩さないのが憎たらしい。
「……父さん、帰って良いの?」
「あぁ。良いとも。結愛、お疲れさん」
「そうかい。じゃあ、結愛。帰るぞ」
「えっ?」
「良いから、付いて来い」
ちらりと後ろを見ると、親し気に手を振っている室長が見えたが、無視する。
結愛の父親。萩野修也、現特務分室室長。俺の元上司。
秘匿組織。裏警察。創立メンバーの中でも中心になった四人のうちの一人。
ちなみに残り三人のうち一人は結愛の母親で、残り二人は俺の親だ。
「おかえりなさい」
一旦着替えてから行こう。そう思って家に入ると、奏が中にいた。
「妹たち起こしたらあれだから、こっちで待ってた」
「そっか。悪いな。こんな時間まで」
時計を見ると、もう日付なんかとっくに変わっていて。草木もぐっすり眠る時間だった。
「良いよ。待ってるって言ったの、私だし。萩野さんもお疲れ様」
「は、はい」
テーブルに置かれているのはコーヒー。
いつも通りに見えるが、少しだけ目がトロンとしていた。
規則正しい生活を送る奏にとって、この時間まで起きていることは、そこそこ辛いものがあるだろう。
「あー。ありがとな」
「急にどうしたの? さっ、夕飯にしよう。こうなると思って、三人分用意してあるんだから。あとは揚げるだけだから、ちょっと待ってて」
キッチンに立つ奏。
所在なさげに、困ったように視線を彷徨わせる結愛の頭に手を置く。
「今日は泊まっていけ」
「い、良いのですか?」
「あぁ。無理矢理連れて来たようなものだし。あー、腹減ったー」
「……はいはい」
奏の声がワントーン下がった気がするが、まぁ良いだろう。
一番風呂は結愛に譲り、キッチンへ。
「おっ、唐揚げか」
「この時間に重いかな?」
「いや、食べる」
しかも揚げたて。
ならば俺がすることは一つ。
明太子を取り出す。身をほぐしてマヨネーズを絡める。それだけ。明太子マヨの完璧だ。
あとはチーズも欲しいなぁ。
「史郎君。カロリーって知ってる?」
「知らん。食事制限、何それ? 人生で食事できる回数は限られているのに、何で制限するの?」
皿に盛られた唐揚げに粉チーズと黒コショウをかけて置く。
「また無駄に美味しそうなのを」
「奏は少し肉を付けた方が良いよ」
「付くのは脂だよ、これ」
「あの、その、お風呂、上がりました」
「おう。じゃあ、飯にしようや」




