後輩の提案
「まぁ、大丈夫じゃないか。赤点は免れるだろ」
「そう。ありがとう」
多分俺も、八割は取れるだろ。
テスト三日前。奏の家で、そのやり取り共に参考書を閉じた。
平和だ。あの日から、何事もなく、この日まで来た。
「さて、少し早いが終わるか」
ぐっと伸びをして、血流が良くなるのを実感して。
その日も家まで送る。
「悪いね、毎日送ってもらっちゃって」
「昨日も聞いた。何なら一昨日も。ここ最近毎日聞いてる」
「感謝の言葉はね、何回言っても良いものだよ」
志保と歩く事に慣れてきている。今の距離感に慣れてきている自分がいた。
それは、良いことかもしれない。
どこか引っ掛かる部分もあるが、仲良くできることが、悪いことの筈がない。
「また、史郎にお世話になってさ」
「別に悪いことではない。教えることで、俺も復習できている。教えることも勉強だ、それを学べたのは、志保のおかげだ」
「そか」
それから会話は無い。
時折感じる視線と気配は結愛のものだとわかる。
テスト期間中、結愛は基本、たまに俺に絡みに来る以外は、一人で別行動していた。
だから多分、こうして志保が家に入ったのを見届けたら。
「せーんぱいっ」
ほら来た。
甘さたっぷりの声で腕にしがみついてきた。
「せんぱーい。私の家寄っていきませんか? 近いですよ」
「そりゃ、それだろ」
「はい」
志保の家の向かいのアパートを指さす。
結構綺麗な印象の建物。実際、中もじっくり見たわけじゃないが、快適そうだった。
「志保さんのお父さんのご厚意で、格安で貸してもらっています。家賃は組織持ちで」
「そうかい」
来た道を戻るべく歩き出す。
早く帰らないと。多分、奏が待っている。
「ねぇ、先輩」
そう思ったのに、足を止めさせられた。
振り返る。パーカーのフードの向こう、どんな感情を宿しているのか。
不思議な圧を感じる。足が地面に縫い付けられたように、動けない。
「……なんだよ」
「良いこと、教えてあげます。……恋の忘れ方です」
「なんだよ。お前にそんなことわかるのか?」
夜の闇の中で、街灯を避けて立つ彼女が、雲の隙間から漏れる月明かりに照らされて、にんまりと唇の端を吊り上げるのが見えた。
「新しい恋です」
「新しい……?」
「彼女を作るのですよ」
「それが簡単に出来たら世の男は血涙流さねぇよ」
ぴょんぴょんと、跳ねるように近づいてくる結愛はそのまま腕を体に回し、抱き着く形、というか抱き着いて来た。
この距離なら、この暗さでも、その顔が嫌でも見える。
楽し気に、からかうように。真っ直ぐに俺を見上げている。
「ねぇ、先輩。どうですか? 私を、彼女にしてみませんか?」
元カノの家の前で、そんなことを言われた。
「史郎君。起きて。テスト明けでも、学校はいつも通りあるよ」
「自主休学します」
「そんな制度はありません」
頭を振って起き上がる。
あれから大体一週間、テストが終わり、高校生、特に帰宅部にとってはようやく気が抜ける日々が戻ってきた。
部活やってる奴らはこれから大会とかあるだろう。文武両道というのも簡単ではない。
ぼんやりとした頭のまま階段を下りて、顔を洗い、リビングへ。
「お兄さん。おはようございます」
「あぁ、音葉ちゃん。おはよう。それといらっしゃい。花音ちゃんは?」
「今日は朝練です。かく言う私も、来週からそうなるのですが」
「へぇ。頑張ってね」
「はい」
「史郎君、ほら、席ついて。食べよ」
「はいよ」
しっかりと手を合わせた。
なるべく、考えないようにしていることから、目を逸らしたくて。
「ねぇ、先輩。どうですか? 私を、彼女にしませんか?」
あの夜。そう告げられた夜。
「んなこと、出来るわけないだろ」
俺はそう答えた。
「なんでですか? 私、先輩に尽くしますよ」
「そういうことじゃ」
「条件自体は良いとは思いますけど。乗らない理由、ありますか?」
「んな、恋は条件とか、損得とか……」
「そんな夢見がちなこと言う人、まだいるのですね。正直、先輩のことは理解しかねます。
というのは前もお話ししましたか。もう少し具体性を付け足しますね。例えば奏さん。あの人とか、先輩にとっては最高の物件といえますよ」
「物件なんて……」
「気持ちがどうとか、確かに大切ですよ。誠意も、礼儀も。でもですね、先輩。私、この間の件で思いました。先輩、このままでは駄目だって」
「な、何が駄目だって、言うんだよ」
「わかりませんか? このままだと先輩、高校三年間、志保さんに縛られっぱなしになりますよ。過去の恋に、縛られますよ。それは良いことですか?」
結愛の言うことはきっと正しい。
多分、上手に生きるという面で見るなら、結愛の言う通りにするべきだろう。
「でも、正しいだけだ」
「そうですかね?」
「正しいだけで。弱いんだ。逃げなんだ」
甘えなんだ。
逃げたってきっと、いつか追い付かれる。
答えを出さなきゃ行けない時が来る。
だから俺は。その答えを出さなきゃいけない相手が、近くにいるうちに。
「なら、どうして志保さんのこと、好きになったのですか?」
「それは……」
考える。好きになったから、なんて答えはきっと許さない。見た目が綺麗だから、趣味が合ったから。性格が可愛いから。
「一緒に楽しい時間を、過ごしていたら、いつの間にか」
「綺麗な理由ですね。まあ、良いですよ。そこまで本気で言ったわけじゃありませんし」
「おい」
「冗談、ということで良いですよ?」
そう言って締めくくり、結愛は塀の上に飛び移り、そのままアパートの二階へ、扉の向こうに消えた。
「それに、俺には無理だっての。もう」
染みついているんだ、振られるイメージが。
駅前。志保と文学少女スタイルの結愛が見え、帰りたい衝動に駆られた。
今会うのは気まずいトップ2である。
テスト期間も会ってはいたが、それでも、あの夜の出来事が頭にちらつく。
「どうかした? 史郎君」
「うぅむ」
足を止めて数歩を下がる。
奏は不思議そうに俺を眺めた。
「今度は、何があったの?」
「今度は、って。俺が定期的に何かあるみたいな言い方をするとは」
「違うの?」
「……違わないが」
「うーん。何だろ。うーん。今まででも見たことない反応だなぁ。ちょっとわからないや。いや、逆にわからないからこそ、史郎君が今まで体験したのを見たことないこと」
奏がブツブツと呟き、腕を組んで悩み。
「あぁ、告白されたのか。多分、萩野さんに」
「おい」
何正解にたどり着いてんだよ。
怖いよ、奏さん。
「少し違うな。正確には、お付き合いを申し込まれた。だけ」
「ふぅん? 何が違うの?」
「過去の恋を忘れるには、新しい恋が一番効くんだと」
「うーん? つまり、身代わりを申し出てきたと。それで良いの?」
「勿論断ったぞ、俺」
「そか。そこ、勿論なんだ」
「おかしいか?」
「うん」
「そ、そうか」
自分が間違っているのでは? なんて思うが。
改めた方が良いのでは、なんて思うが。
「おかしいかもしれないけど、間違ってはいないと思う」
俺のそんな言い訳じみた主張に奏は小さく頷く。
「そうかもね。それはわからないよ、私にも。誰にも」
改札を抜ける。既に二人の姿は視界に無い。
「でもまぁ、真面目過ぎるかな、史郎君は。もう少し気楽に生きれば良いのに」
「これは気楽に考えて良い。案件なのか?」
「学生同士の恋愛は気楽で良いと思うけど」
「奏がそんな風に言うとはな」
「おかしい?」
「らしくない」
即答すると、奏は眼をスッと細める。
「私、そこまでもう、真面目ちゃんじゃないよ」
後ろ髪を弄る。考え込んでいるのか、少し不機嫌なのか、判断に困る。
「高校生にもなって、相変わらず委員長してる奴に言われてもなぁ」
「それは関係なくない? 史郎君もしてるし」
「お前に押し付けられたのだが」
クラス親睦会を企画しない、行われても行かない二人が、委員長で良いのか、とは思うけど。
「真面目じゃなくても、良い子だよ、お前は」
「そう見える?」
「あぁ」
電車がホームに入ってきた。
「そっか、でもね、史郎君……私も、いつまでも良い子では、いられないんだよ」
「戦いは強い方が勝つんじゃない。有利な状況を積み重ねた方が勝つんだ」
それは何事でも、例え、テストでも。
どんな戦いも、細かい駆け引きがある。
その細かい駆け引きを積み重ねた先に、勝敗がある。
細かい駆け引き一個勝ったところで、最後に負けたら意味が無い。
「流石奏だな」
「史郎君も、結構良いところいるじゃん」
なんとなく探した姿は、俺の自称友人。学年二位に君臨した男。
見つからない。いや、見つけたところでどうするのだ、って話だが。
奏は、勉強が苦にならない。むしろ好きという時点で、テストという場で大きな勝利を、大きな有利を最初から稼いでいるんだ。
誇りとか、勝負とか、彼女自身はそういう次元にはいない。好きなことを好きなようにした結果だ。
だから多分、順位が落ちても、特になんとも思わないのでは、なんて思う。
「そういえばさ。先生から考えておいてと言われたものがあるんだけど」
「なんだ?」
「中間試験は終わったとけど、すぐに期末試験じゃん」
「あぁ」
「期末試験終わったら文化祭あるじゃん」
「らしいな」
「出し物、先に案だけでも決めておいてくれって」
「なるほどなぁ。文化祭かぁ」
「せーんぱいっ」
放課後、学校を出たところで腕に覚えのある重みに捕まる。
思ったより動揺は無かった。
「お前はそう言って、腕に抱き着かないと、昼間は登場できない制限でもあるのか?」
「? なんの話ですか?」
「なんでもない。それで、何の用だ?」
「やだなー、先輩。わかっている癖に」
校門の前でこの状態を見られたら面倒だ。さっさと歩く。結愛も腕を離して横に並ぶ。
「なんだよ。俺の答えは変わらない」
「強情ですねぇ」
「強情も何も、お前、俺のこと好きなの?」
「好きですよ」
「は?」
「えっ、何ですか、その反応」
「いや、好き? Like?」
「それはわかりかねます」
「それで付き合おうって、お前なぁ」
「そうですか? もう少し気楽に考えても良いと思いますけどねぇ。相変わらず、真面目ですねぇ」
「知らん」
今朝の奏の話を思い出してしまう。気楽に考えるか……。二人から、しかも俺が一番信頼している二人から言われると。
はぁ。
「志保は?」
「今日はお迎えがありましたので。一旦別行動です」
「迎え……あぁ」
付き合っているときも何回かあった日。
両親が迎えに来る日があると。
「親が休みか、何らかのパーティーか」
「結構有名な企業ですから。呼ばれますよね」
「何の企業なんだ?」
「製薬会社です」
「教えてくれるんだな」
「まぁ、先輩なら良いかと」
「そっか」
何というか。
いやまぁ。うん。
ありがたいけど。そこまで信頼されると、むず痒いものがある。
「やぁ、九重君。ん? あぁ、萩野さんか。フード被っててわからなかったよ」
後ろから聞こえた声に振り返ると、霧島だった。
「お前、部活は?」
「今日は休みだ」
「そうかい。お疲れ」
「うん。お疲れ」
一瞬、探るような視線を感じたのは、俺と結愛の関係を訝しんでだろう。
「お前のせいで誤解を受けたかもしれん」
「既成事実って奴ですね」
「へっ」
「ムカつきました」
蹴られそうになったので避けた。女子に蹴られて喜ぶ趣味は無い。
それからは適当に雑談して、駅で別れた。
「先輩、私、志保さんの護衛に戻りますけど、来ますか?」
「いや、なんで?」
「まぁ、そうですよね。ではでは」
駆けていく後ろ姿を見送る。
ったく、勘弁してくれよ。
人間の鼓動は一秒に一回だっただろうか、だとすれば、今のペースは明らかにおかしいよな。




