夜道、二人。
街灯に照らされた道。
高校生になって歩くのは二回目。
春休み、俺はこうして志保の隣を並んで歩くことができるとは、思っていなかった。
二度と来ない時間だと、思っていた。
「史郎」
「ん?」
「ありがとね」
「あぁ。まぁ、折角志望校は入れて、早速躓かれたら、後味悪いからな」
「やはは。うん、後味、か」
「なんだよ」
私が史郎と出会ったのは、中学二年生の秋、図書室で。
図書室での出会い方なんて、限られている。
彼のことは知っていた。彼と話しているのは、学年トップの成績を誇る、見た目からまんま委員長の彼女。
久々に、一月ぶりに高校で会った彼女の変わりようはびっくりしたけど。見事な高校デビュー。本人に言ったら怒られそうだけど。
当時の私は誰とも話さないような生活を送っていた。
理由。それは中学一年の私はミスをしたから。そのツケを払っていた。
迂闊にも友達を家に呼んでしまった。今住んでいる普通の一軒家じゃない方。
某大企業の社長のご令嬢様としての家に。
この話は置いておこう。迂闊だった私はここで殺してしまおう。
さて、図書室に彼がよく来ているのも知っていた。
中学一年の頃から、昼休み。ずっと入り浸っていたのは知っている。
多分、彼も私を知っていたと思う。
どこか、仲間意識を持っていた。校舎の隅にひっそりとあるこの部屋に、自分の居場所を見出している。そんな彼に。
違いがあるとすれば、私はずっと一人で。
彼には久遠奏ちゃんがいることだろう。
ほんの偶然。そんな私たちを結びつけたのは、ありがちな偶然。
一冊の本を同時に触れてしまったこと。
「あっ」
「どうぞ。これ読んだことあるから、読み返したくなっただけ」
「そ、そうなんだ」
彼の優しい声。久しぶりに家族以外と会話した私は、少しだけ声が裏返った。
「それじゃ。それ、おすすめ。とても面白いよ」
その時はそれだけ。
本を手に取る。別に読みたいなと思ったわけじゃない。
でも私は見逃してない。困った顔、少しがっかりした顔。
読みたい本が無かった時の、本の虫の顔。
それだけで、この本を読む優先順位は、跳ね上がるというものだ。
「あ、あの」
次の日、図書室で、読み終わった私は、その面白さからテンションが上がって、本棚の間をうろつく彼に声をかけた。
「ん? あぁ、読み終わったんだ」
腕の中に抱えている本を一瞥して、彼はぼんやりとした目で私を見る。
「何?」
「どうだった?」
「えっ、あっ」
人と会話するのが久しぶり過ぎて、言葉に詰まる。
「とても、面白かった」
そんな捻りがない、芸もない感想。彼は満足気に頷く。
「だろ? 俺のお気に入りの一冊。人に薦めるならまずはこれだな」
今薦めてもらえたら、文章がスッと入ってくるとか、伏線の回収のテンポが良いとか、色々語れるのだけど。
「えっと、あー、これ、読んでみて!」
私はポケットから一冊の文庫本を取り出す。
「お礼。私も、これ、薦める」
「あぁ、ありがとう」
それが、私と史郎の交流の始まり。
それから私たちは昼休み、放課後を一緒に過ごすようになり、休日を一緒に過ごすようになり。一緒にいるのが当たり前になった
でも、私は知らないことが沢山ある。彼について知らないことが、たくさんある。
彼の今までを知らない。彼の誕生日も知らない。彼の家も知らない。
きっと、久遠ちゃんの方が私なんかより史郎を知っている。九重史郎を、知っている。
自分の父親が作ったものが何をしでかしたのかを知って、逃げてしまった私よりも、知っている。
「ここまでで良いよ」
唐突に、志保は俺の目の前に、道を塞ぐように立った。
「いや、むしろここまで来て最後まで送らない方が気持ち悪いのだが」
角を曲がってすぐ、そこに志保の家はある。ここで別れるのも納得だが、来た道を戻るだけの身としては、最後まで見届けておきたい。
「ん。そう? 嫌じゃない?」
「何を心配してるんだ、お前」
わけがわからん。
何も考えていないようで、余計なことを考えるな。志保は。
十秒にも満たない沈黙は、塀の向こうの家の団欒の声で埋められる。
街灯の下の志保は、静かに微笑んでいる。
「行くぞ」
「……ん。ありがと」
「急にしおらしいな」
「後味だよ。史郎」
「ん?」
「んー。でも違う。だからって、あー。わからない」
「? まぁ、ゆっくり話してみろ」
急に頭を抱えて、悩み始める。その姿を見るのは、決して初めてではない。
こういう時は、ゆっくり聞き出す。それだけだ。
「私、史郎と付き合うのは難しいとは思った」
「あ、あぁ」
うぐっと胃袋から何かが逆流しそうになったが堪える。
何を言うつもりなのだろう。
何を言われるのだろう。
心が構える。聞きたくないけど、聞かなきゃいけないと思ったから。
「折角、仲良くなれたから。初めて、上手にできたのに。
でも失敗しちゃったなぁ。事情、優先し過ぎた。結論を急ぎ過ぎた。もっと頑張ってみるべきだった。
だから失敗を取り戻そうとしたんだけど。終わらせたくない、って思ってしまったんだけど。
でもごめん。私、よくわかっていなかった。私、史郎に、嫌いって言ったような、ものだよね。なのに。距離感も狂っちゃって。やはは……」
「それ以上言うな」
自分が思っている以上に冷たい声が出た。
「それ以上、言うな」
言い直しても、声の温度は戻らない。
目を強く閉じて、落ち着こうとして、でも、上手くできない。
呼吸すら、下手くそになってしまった。
距離感が狂った。そうだ、志保の言葉はまさにその通りだ。俺達の今の状況を、端的に表している。
手を握ったり、腕に抱き着いたり、けれど、すぐに我に返ったように離れて。
志保も、まだ思い出から、抜け切れていない。
なのに、本来は二人で探すべきものを、一人で探させていた。
傷口を抉る思い出で終わらせない。そのための最善手は、きっと志保のやり方なんだ。
「あの、史郎。痛いよ」
「わ、悪い」
志保の細い体を、肩を抑えて塀に押し付けて。
俺は何をしているんだ。
冷静な自分が、冷たい視線を向けてくる。
潤んだ瞳が見上げてる。手の中に細く、頼りない体。でも、温かい。命の温もりが、確かにそこにある。
月が雲に隠れて、街灯だけが、俺達を照らした。
ここにいるのは俺達だけ。目の前の塀の向こうの家すら、遠い世界のものに感じた。
「史郎?」
「あ、あぁ。ごめん」
解放して、一歩、二歩、三歩。後ろに下がる。
「ごめん」
「ん。私も、ごめん」
示し合わせたわけでもないが、同時に歩き出した。
足音が、やけに大きく聞こえる。
また月が、雲から現れた。
立ち止まって、何か月ぶりだろう、志保の家を見上げる。明かりは点いていない。
「親は?」
「まだ帰ってないと思うよ。それじゃあ、また」
「あぁ。また、明日」
家の中に入っていく姿を見送って、見えなくなっても、眺めてた。すぐに明かりが灯る。
主が帰ってきた家が起動した。
「なぁ、結愛」
「はい。何でしょう」
電柱の影からスッと現れる結愛に向き直る。
「志保って、一人暮らしか?」
「ご明察です。しかし、先輩も豪快ですね、あんなところで壁ドンとは」
「あぁ」
ヒョイっと下から覗き込んでくる眼はからかうような表情だけど、気遣う感情を隠しきれていない。
「優しいな、結愛」
「急に褒めてどうしたのですか? 何も出ませんよ」
本当に優しい。
慕ってくれる。変わらずに。それが、どれだけありがたいことか。
「はぁ。先輩、私、よくわかりませんよ」
「何が?」
「なんで辛いのに一緒にいられるのですか?」
ポンと結愛の頭に手を乗せた。
俺たちはおかしいかもしれない。
終わらせようとした志保の言葉を、何も言い返せず結局受け入れた俺。
そんな俺達が、一緒にいる。
「結愛がわからないって思うのは、理解できる」
でもそれでも。
「志保の気持ちも、わかるんだ」
終わらせたくない。
矛盾なんてしていない。
恋人としての関係を解消することが、その人との関係を終わらせることに繋がる。そんな道理は無い。関係と関係を、反復横跳びして良い筈なんだ。
ただそれを、心が許さないだけで。
「俺が、どうしたいか」
そんなの、決まっている。
決まっているけど。
ただ、乗り越えられていないだけ。
俺が、弱いだけなんだ。




