34話:2018年米国旅行2
中には36時間前まで牛の体内の存在したフレッシュなミルクで作った「チーズカード」があった。日本では聞き慣れないが、チーズカードはフレッシュチーズの一種で、各種チーズの熟成前の状態で売られているもので、できたての新鮮なものでなければたべられない、チーズ専門点だからこそ楽しめるメニューだと書いてあると、百合が言うと、母と百合が1つずつ注文して、食べていた。
しかし、ミルクが苦手な、父は、臭いがきついと、嫌がっていた。それを見て、奥さんと子供達は、これだから、おじんは嫌だと、大笑いしていた。その他にピロシキの専門点もあって、これは旨そうだったので、今日の夕飯として、いくつも買った。その店の看板に、なにやら、書いてあった。それを読んだ、百合が、ここのオーナーのエストニア人が、開店直前に資金不足で小麦粉、バターを買えなくなった。
その時、お店の前に、そっと1000ドルを置いてカンパしてくれた人物がいたそうです。一体誰だろうと、エストニア人のオーナーが疑問に思っていたところ、その6年後に、実は、同じマーケット内にあるロシアのベーカリーショップの女性オーナである事がわかった。これを知った、エストニア人オーナーがライバルになるかも知れない店が困っている時に助けてくれるなんてと、泣きながらお礼を言ったそうだ。
これがパイクプレイス・マーケットで話題となって、ここは、パイクプレイス・マーケットは、このように、お互いが助け合って成り立っている。確かに、ここ、パイクプレイスマーケットは、アメリカ人よりも外国人の方が圧倒的に多い。エストニア、ロシア、韓国、日本、スイス、カナダ、日本。そして、パイクプレイスマーケットの歴史について、店の老人に聞いてみた。
それによると。シアトル市民のソウル「魂」と呼ばれて愛されるパイク・プレイス・マーケット。その礎を築いたのは、日系移民。20世紀初頭、仲買人の価格操作などに苦しんでいたシアトル周辺の農家が集まって、産物を持ち寄ったのが始まり。初回は8軒の農家しか参加しなかった。それに対し買い物に来た市民は1万人。数分ですべて売り切れ、需要があると分かった。
その翌週は75軒の農家が出店し徐々に市場は拡大した。農家の大半は日系移民で全盛期には3分の2を占めていた。第二次世界大戦中の人種差別で日系人が強制収容所に送られると、マーケットは閉鎖の危機に陥った。戦後は人口の郊外流出も影響して周辺はさびれ、1971年に取り壊し計画が持ち上がったが、これに市民が強く反対して保存が決まった、という経緯がある。
マーケットの入り口には、初期の日系農民の貢献をたたえる壁画が飾られている。地元のアーティスト、アキ・ソガベさんの作品だ。タコマ富士の愛称があるレーニア山や、それを見ながら畑を耕したであろう日系移民たちの姿が描かれている。シアトルのパイクプレイス、マーケットを訪れる時、パイク・プレイス・マーケットの基礎を築いた日系農民の功績をたたえる「切り絵風の壁画」を見て欲しい。
ホテルに帰ると17時で、暗くなり、部屋で風呂に入って、一休みして、ホット珈琲とパイクプレイス・マーケットで買ってきたピロシキを食べて、夕食にした。その後、両親は、お湯を入れたホット・ウイスキーを飲んで、買ってきた、鮭の肴をたべながら飲んで、今日の旅行の話をして盛り上がり、子供達もアメリカの広さと千m時中の日系人が差別されていた歴史について話していた。その後22時前には眠りについた。




