馬政50ヶ年計画
【軍隊と馬】
古来より軍隊と馬は切っても切り離せない関係である。
騎兵はその機動力を生かして偵察や伝令に戦場を駆け巡り、時に側面を撃つ迂回機動戦、時に敵戦線後方を脅かす浸透遊撃戦、特に最終局面に行われる騎馬突撃の勇ましさは戦場の華と謳われた。
また、その背に乗せる駄馬、牽引する輓馬は補給物資を輸送し兵站を支えた。
近代戦においてもその重要性は変わらない。否、一部においてはより増したともいえる。
銃火器の発達に伴い、騎兵による突撃こそ行われなくなったが、兵器・物資・食料等その消耗・浪費はかつての戦いの比ではなく、莫大な物資を戦場の末端まで輸送する手段として馬は軍にとって必要不可欠な存在である。
(鉄道は陸上輸送の基幹を成すが、路線の延長は容易ではなく別途末端への輸送手段が必要である。なお自動車は未成熟な分野であり、全てを置き換えるまではいかない)
帝国軍においても当然の如く軍用馬の重要性は認識されていたが、帝国国産馬は西洋馬と比べ気質・馬格・膂力・調教技術等々ありとあらゆる面で劣っているという問題があった。
これでは近代戦を行い得ないと危惧した陸軍上層部は軍務省・農務省を始め各所に対して馬質改良政策の実施を訴えた。
その運動が身を結び、馬事調査委員会が設立され2年間の調査の末に企画されたのが全四期・延50年にもわたる馬質改善計画、いわゆる馬政50ヶ年計画である。
【馬政院】
長期にわたる計画全体を統括する行政組織として馬政院が設置された。(後に軍務省軍需局馬政課・農務省畜産局馬産課に分課された)
馬政院(馬事政策の統括)
・総務部(他の部署に属さない事務)
・・会計課(部署内の予算管理)
・・庶務課(部署内の諸雑務)
・馬政部(馬事政策の管理)
・・馬籍課(馬籍の管理)
・・振興課(馬事産業振興)
・・外馬課(海外馬輸入の渉外・手続き)
・・調査課(馬政計画進捗状況の調査)
・馬産部(馬事政策の実施監督)
・・牧場課(各公営牧場の管理監督)
・・調馬課(調教技術の伝習監督)
・・繁殖課(繁殖技術の伝習監督)
・・研究課(馬事研究の調査監督)
地方馬政部(各地方に設置)
・馬産研究所(馬種改良、馬産技術の研究)
・種牡牧場(種牡馬の繁殖)
・種馬所(民間繁殖牝馬との交配)
・馬産教習所(馬産技術の教育機関)
【計画概要】
全体計画
・期間は50年とする。
・海外優良種牡馬を輸入し、国産馬と交配、国産馬の馬格を向上させる。
・海外の馬産技術を導入し、国内の馬産技術を向上させる。
・馬質の向上と安定を図り、地域・風土特性に適合した馬種を開発する。
・馬の繁殖・育成・調教技術の向上と普及を促進する。
・優良な種牡馬8000頭の確保する。
・保有馬頭数は国内200万馬を目標とする。
・馬事産業の振興を図り、広く民間に馬事思想を普及する。
・競馬の適切・適正な興業施行を図り、計画遂行の一助とする。
第一期計画(5年)
・馬籍法を施行し、国内馬事情の統計調査を実施する。
・馬産研究所を設置し、海外技術者を受け入れ技術の導入を図る。
・海外馬産地へ研修生を派遣し、先進技術を習得する。
・海外の優良種牡馬の輸入し、繁殖牝馬と交配させ馬質の向上と種牡馬の増産を図る。
第二期計画(10年)
・種付管理法を施行し、優良な種牡馬の選定と登録管理を実施し、交配時の血統の調整を行う。
・種牡馬牧場を設置し、国産種牡馬の繁殖を実施する。
・種馬所を設置し、民間馬の馬質を向上する。
・馬産教習所を設置し、民間馬産技術の向上を図る。
・馬匹共進組合の事業を奨励し、国民の馬事思想の普及・優良馬の育成改良を後援する。
第三期計画(25年)
・第二期の事業を継続し、広く普及させる。
・適正馬種を開発し、民間への普及を奨励する。
・競馬法を施行し、適正な競馬興行を実施する。
・馬匹教練会の開催を奨励し、民間馬主への馬匹育成・調教技術の普及を図る。
・馬産研究の一環として驢馬並びに騾馬の研究を行う
第四期計画(10年)
・戦時に軍用馬としての使役を鑑み、馬の適当比率を維持調整する。
・驢馬並びに騾馬の品種改良を行い、広く繁殖・育成を奨励する。
・戦時農耕馬減少による農業生産量減少を抑制するために、農耕における牛馬混用を奨励する。
【馬政三法】
馬政計画を推進するにあたり公布施行された代表的な3つの法律は馬政三法と称された。
・馬籍法
馬の登録管理を行い、馬政計画の進捗状況(国内頭数・馬格の変化)を把握する法律である。
各市町村役場の兵事課に馬籍掛が設置され、その管轄内における馬匹を登録管理する。
通常、馬の出産は春から夏にかけて行われ、出産後その年内に役所の馬籍掛に新馬申請を行う。
馬籍が設けられると登録済証が発行され、この登録済証は売買や所有者証明に必要となる。
記載内容
管理地・登録番号・馬名・両親馬(馬名・番号)・性別(牡、牝、せん馬)・毛色・特徴・馬種(国産種・アラブ種・ペルシュロン種等)・種類(軽種・中間種・重種・小型種・驢馬・騾馬)・体格・産地・飼養地・生年月日・用役(輓馬、駄馬、乗用)・所有者氏名住所・管理者氏名住所・履歴
3歳を超えた後は適時体格検査を受け、『体格』欄に検査年月と体高・体重を記載する。
売買による所有者変更や去勢によるせん馬などの変更があれば都度変更申請し、各欄及び履歴欄に記載する。
飼養地変更により管理地を変更する場合は、変更先の役所に申請をすることにより管理地変更が可能である。
病傷高齢により馬を処分した際は獣医の検査を受け、確認書を書いて貰い、役所に届け出ることにより馬籍の抹消が可能である。
なお、馬籍に関する申請は手数料無料であるが、申請義務違反には罰金刑が付いている。
・種付管理法
優良馬の繁殖には血統を調整する必要がある。
両親馬の血統が近縁の場合、仔に虚弱や身体異常は発生する可能性が高く、如何に優れた種牡馬と繁殖牝馬であっても近縁同士での交配は避けるべきであった。
また、交配の要となる種牡馬には優良馬質の牡馬を当てるべきであり、牡馬であれば何でも良いと言う訳ではない。
そこで、種牡馬登録制度の導入と交配計画時における血統確認を義務付けたのが種付管理法である。
種牡馬として用いる牡馬は種牡馬審査会においてその馬格・気質が審査され、合格すると種牡馬として登録される。
種馬所での交配は種牡登録馬しか行えず、また、繁殖牝馬の血統を確認し近縁でないことを確認した上で無ければ種付出来ないとした。
・競馬法
帝国において賭博を業として行うことは違法(個人間かつ少額ならば黙認される)とされているが、唯一の例外が競馬で、その開催から運営、勝馬投票券の設定・販売・払い戻しなどを定めた法律である。
競馬はその競争心・射幸心を煽ることにより騎手の馬術向上、競走馬の馬質向上、国民の馬事思想の普及、さらに興行収入を得ることが出来、馬質・馬産向上を図る上で有効な手段とされた。
常設の国営や県営の競馬場では競走馬登録された馬と騎乗資格を有する騎手しか出場は許されない。
しかし、申請すれば市町村や各区自治会によっても開催する事は可能で各機関・部署は積極的な協力が奨励されている。
その際は運営方針として設定することにより、騎手は腕自慢の民間人や在郷軍人、馬は在地の農耕馬や運搬馬などでも参加可能となる。
競技内容としては、軍事目的に適しているとして長距離(3000m以上)、障害、輓曳、野外自由路(周回では無く、野外において自由に経路を設定する)が推奨されている。
【軍用馬調達における問題点】
軍部においては、平時でも陸軍兵器本部補充部や各部隊独自に軍用馬の調達が行われるが、その数は限られたものである。
しかし、戦時体制に移行すると各部隊の兵器や行李・段列・輜重・乗用として膨大な頭数の馬が必要となり、市町村と連隊区司令部主導による大々的な軍用馬購買会が催され、平時の1.5倍〜3倍もの価格で取引が行われる。
その結果、多くの農耕馬が軍用に転用され、耕作能力が不足し農業生産量の減少が危惧され、この点を問題視した農務省は馬政計画の変更を申し入れた。
馬政計画では農耕用として馬耕を推奨していたが、これを牛馬混用を推奨とし、農耕馬の減少を農耕牛の増強で補う計画である。
牛は馬と比べて
・足が遅く、時間あたりの耕作効率に劣るが足腰が強く傾斜地・泥濘地に適する。
・糞を肥料と考えた時に冷寒地では発酵が進みにくい。
・周年繁殖が可能であり繁殖効率に優れ、やや廉価。
・大量の水が必要で食事時間も長いが、飼料量は少ない。
などの違いがあったが、馬政計画が順調に進んでおり、牛も食用・革用として活用出来、他の耕作獣の存在により軍用馬調達が容易(馬を手放し易くなる)になると想定されることから了承された。
旧来からの馬耕地域では慣れない牛耕に難渋したが、牛耕教習会の実施や牛糞の発酵促進法の開発・伝習により徐々に浸透しつつある。
【馬改良における問題点】
国策により国産馬の馬格向上を狙い海外馬種との交配が進められているが、馬格向上に伴い経済コストの問題が発露された。
熟語に牛飲馬食とあるように元々馬はよく食べる、ましてや『大きい馬は食べる量も多い』のである。
確かに馬格の良い馬は力も強く、より速く広範囲を耕すことが出来る。
これは広大な農地を有する大規模農家ならば利点であるが、中小規模の農家には割鶏牛刀となり、飼料代ばかりが嵩み経営を圧迫する事態が発生した。
この点を重く見た農務省は農業組合を介して、複数農家で耕作馬を共有する制度を整え、推進している。
また、休耕期には物資や人員の輸送などの利用用途の拡大により飼育コストの削減に努めている。
さらには軍務省と協議し、驢馬の活用を強く訴えた。
西洋では驢馬は一般的であり、馬と同様に多くみられるが、帝国国内においてはその存在意義が国内在来馬と被るため、広まっていなかった。
確かに驢馬は馴致が難しく性格に難があり、足が遅いとはいえ、粗食・頑健で力が強い。
また、馬と交配させた騾馬は輸送使役獣として最適ともいわれることから、軍事兵站を憂う軍部の目的とも合致し、小規模農家における驢馬の育成を奨励することになったのである。
これにより、大規模農家は改良馬の飼育、中規模農家は驢馬の飼育と改良馬の共有、小規模農家は驢馬の飼育により、総合的な馬政計画を推進することになったのである。