1話【ありふれた日常】1/5
詩張家に迎え入れられては早一年が経つ。
俺はあの波瀾万丈で危機一髪な過去と見違えるくらいに、平凡で落ち着いた毎日を過ごしている。朝になったら家を出て、学生の本分である学業に励み、それが済んだら家に帰り、くくると他愛も無い会話を済ませてゲームをする。土曜日と日曜日も、部屋でごろごした後に妹の部屋にお邪魔してゲーム。絶え間ない学生としての日々の中で、俺はほぼほぼこのサイクルを毎日こなしている。
くくるとの関係は良好だ。始めてあった時と比べたら、比較にならないくらい距離が縮まっている。俺の数少ない友人である、小春日和に、俺の妹のゲーム強さについて、勿論縛りプレイの事も踏まえて熱く語っときは、
「...へえ、仲いいね。てか、縛...うん。凄いねなんか。縛るって...うん。まあ兄妹はそれぞれだからね。私からは何も言わないよ!」
と、何故か時折言葉を濁していた。普通に勝負したのではそれこそゲームにならない妹の為に、難易度を上げる工作を人体に施した俺の行いに、果たしてどんな疑問を感じているのだろうか。俺には理解出来ない。
まあ、何はともあれ順調に何事も無い平穏な毎日を築き上げている俺だが、
「...」
「どうしたの?にい」
「...ん?ああいや、なんでもない」
くくるは下から俺を覗き込んで、怪訝そうに上目遣いをしていた。あれから随分と思い耽っていたらしい。進行途中だった筈の対戦は既にKO.の文字が表示されていて、結果は相変わらずの敗北だった。
俺は床に倒れ込むと、白い天井を見上げた。くくるは上から顔を覗かせる。
「...体に毒でも回った?」
「なんのだよ」
「...遅効性の毒薬を、昼間ににいが飲んだサイダーに混ぜ合わせてあったとしたら、まあそうなるのが妥当かなって」
「おいおいなんだよその火曜サスペンスに用いられそうな具体的で生々しい殺害方法は...計り知れないあり得ない確率の妥当で俺を打倒してくれるんじゃねえよ」
くくるは暫く考え込む様に手を口に当てる。恐らくあいつの中で俺の素晴らしい洒落の審議をしているのであろう。律儀な奴だ。
「...早いもんだな」
かれこれもう、一年が経つんだな...くくるは相変わらずの登校拒否で、俺は相変わらずの実りの無い凡才だけど。何も変わらずとも、時間は過ぎ去っていく。変わっていったとしても、それ相応に、時は刻んでいく。
「...ほら、次。準備してよ」
「あいあい」
くくるの言葉の火ぶたで俺は体をのそりと起こす。くくるの目隠しと手錠は既に解かれている。と言うのも、これでも練習にならないと踏んだのか、くくるは自主的に次の縛りを設けていた。「スタートアイテム縛り」と命名し、聞く所によると、初めに支給されるアイテムのみで俺を倒してくれようと言う試みらしい。
アイテムを購入出来なければキャラの成長にも著しく低下が見られ、俺のキャラとは時間を置く毎に差が縮まっていく。今回は、早期決戦が予想される。
くくるは下手糞な鼻歌をしながら、ステージに散りばめられた配置キャラを倒していく。一応経験値からスキルレベルに振る事も出来るし、俺のキャラの成長を阻害する事も出来る。そう考えれば妥当な手段ではあるが。
「お、おい。これ以上お前狩る必要ないだろ。俺に経験値くれよ」
「やだ」
「...なんていう独占欲だ」
折角手に入れても、キャラのスキルレベルには制限がある。それを越えてしまったらその経験値は後はもう宝の持ち腐れ。いくら経験値を重ねようが、捨ててしまおうがキャラの成長に何も影響していかない。ただただ経験値は数値にだけ刻まれていき、後はそいつのファッションの様に、着飾れていく。
これ以上。キャラの才能には、何一つ関与していかない。
「...なんか。もったいねえな」
「...経験値が?」
「...ああいや...」
俺はくくるを横目で見る。くくるは真顔で淡々とコントローラーを動かしている。
そう、勿体ない気がした。こうして時間を無駄に浪費して、こいつの計り知れない才能をこのまま無価にしていく事に意味があるのだろうか?本来なら誰よりも優秀で、誰よりも讃えられるべき筈のこいつが、こんな俺なんかと同じような「平凡」という湯船に浸かっていて、それでいいのだろうか。と。
俺は、くくるとこうして一緒にゲームをして。こいつの才能を図るかのように縛りを追加して。確かに毎日が楽しい。言ってしまえば、この平凡を一生のものにしたい。もう二度とあんな地獄の生活に戻りたくはない。
...だけど、こいつは。本当に...このままでいいのか?俺も...このままで、本当にいいのか?
こうして一日がまた消化されていく。きっとこれからもずっと、こうして才能というものが、埋もれ、忘れ去られ、そして消えていくのだろう。時間という、遠方の彼方にへと流され、そして最後は、誰かの思い出と共に失われていく。
「くくる...」
「...なに?」
「ゲーム好きか?」
「...好き。大好き」
「...そうか」
ピアノも、ゲームも、同じくらいにこいつにとっては大切なものであり、大好きなものなのだ。
「...変わりたいか?」
「...」
「...それとも、このままがいいのか?」
「...にいが居れば良い」
「...そっか」
俺がいればいい。俺も同じもんだと言ってやりたかった。だけど、何故かその時は言ってはいけない気がした。
「...にいは?」
「...え?」
「このままでいいの?」
「...」
「ずっと...こうやって。私とゲームしているだけで...いいの?」
「...」
「このままでいいのか?」その言葉を自分の中で思い描くのと、他人から言われるのではその言葉は全く別の意味になる。
凡才がいくら未来を見据えた所で、きっとそれは一生叶わない、幸福を願う人生設計の筈が、いずれは永遠の後悔にへと変わり果ててしまう事だろう。
逆に、天才が未来を見据えた所で、きっとそれはすぐに届いてしまう。後悔も苦労も何も得る事は無く、ただただむなしく、「結果」という冠だけを被るだけになる。
未来って、なんだろうな。
「...お前、何か欲しいものとかあるか?」
あくまで画面から目を離さずに、俺はくくるにそう聞きだす。くくるのキャラは変わらず気持ち悪いくらい効率的に配置キャラを倒して経験値に変えている。俺が配置キャラに手を出す隙は無い。
「...欲しいものは全部持っている。だけど、それはあくまで自分の中で完結すれば。の話」
そう小さく嘆いたくくるの横顔は、何処か寂しげで、あの日、出会いたての頃のくくるを彷彿とさせていた。
「自分の中で完結すれば...か」
つまりそれは、他人との関係を断ち切ればという意味だ。自分の物語に誰かはいらない。自分の人生に、誰かの影響も、誰かの思いも、誰の力だって関与していかない。そんな寂しい事を易々と受け入れられていれば、こいつもこんな寂しい顔なんてしなかっただろう。
あいつはいつだって孤独で、いつだって「友達」という誰かを欲していたに違いない。例え家に籠ったとしても、それは変わらず同じの筈だ。そうでなければ、「あくまで私の中での話...」なんてせめてもの相手に対する詫びの言葉を、言う筈が無いのだから。兄として、そういう妹の本心を探り、聞き入れてやる事くらいはしてやらなければいけない。
それは「凡人」であっても、「天才」であっても。
見て見ぬふりだけは、どちらも等しく平等な罪であることには変わりないのだから。
「俺は正直言って、今の生活が好きだ。まあ昔のあの地獄から比べてしまえば、どれをとった所で俺にとっては天国である事には変わりないんだろうけど。それでも、俺には今の生活がお似合いだと思う」
「...にいは、きっと自分が思っている以上にもっと凄い。にいの想像している以上には」
「はは...腑に落ちないお褒めの言葉だな」
「...私の本当に欲しいものは、もうきっと手に入れられないものばかりなんだと思う。だけど、そんなの私じゃなくても、誰もが平等に思う筈の普通な願いだから、わがまま言わない」
「まあ、俺も欲しいものは沢山あるしな」
「...何?」
才能。と言おうとしたその口を紡いだ。
「...俺も...きっと手の届かない所にあるな。それは」
「私にそれはある?」
「...」
くくるの事だ。本当は分かっていて、こうして聞くのは不道理だと言う事は重々に承知している筈だ。この件は俺にとってはかなりナイーブな内容である事も、分かって聞いているのだろう。
それでも俺に聞くという事は、きっとこいつも今のこの生活に何かしらの違和感を感じているに違いない。あいつの中で、何かを変えたいと切に願っているに違いない。
「...お前には...あるな」
「じゃあ、私の欲しいものは、にいには手に入れられる?」
「...お前の欲しい物って...なんだよ」
「...ばかにぶちん。分かってる癖に」
この一年間で、それが分からないのはもはやばかにぶちんでは済まされない。糞白状野郎と言い直されても文句は言われないレベルだ。分かっている。こいつがずっと欲しかったもの。それは俺みたいに時間を共にして、感情を分かち合って、馬鹿をし合える様な、そんな「友達」だ。
「...俺だったら......」
俺だったら、手に入れられる。そして、こいつには無理な事。そんな事象がこの世に起こると言うのは天地が逆転してもあり得ない事だとばかり思っていた。
「俺だったら、きっと手に入れられる」
「...そっか」
じゃあ、どうする?
俺は、こいつに何をしてあげられる?
「なあ...くくる」
俺が...
「...お前の助けになれないか...?」
気がついたら、俺はそう呟いていた。
「...にい」
「...あ!!い、いや!ち、違うんだよ!」
慌てて取り繕おうとする。俺なんかが何を言ってるんだろうなあ!とか、俺がお前に出来る事なんて何も出来ないのになあ!とか。何処までが本気で何処までが冗談だったのか。俺にも分からなかった。だけどくくるは、ずっと、俺の顔を見ていた。黙って、俺の慌てた取り繕いを見ていた。
「...ほんとに」
「...え?」
予想していなかった言葉がくくるの口から漏れる。
「本当に...私の助けになってくれるの?」
くくるのキャラは、ぴたりと静止し動かない。くくるはコントローラーを支え、ただ俺の顔を見続けていた。頬を赤く染めて、今にも泣き出しそうなその儚げな表情は、俺に何かを伝えているみたいだった。
全てを可能にしてしまう才能は、他者の助けを求めない。そんな勝手付けた定義は何処から生まれたものなのか。くくるはいつだって、どんな時だって、俺が必要ないなんて言葉を口に出した事は無かった。普通の人と変わらずゲームを楽しんで、普通の人と同じくらい誰かと一緒に遊びたがっている。助けを求めないのではなく、助けを求めたくても求められない。勝手にくくるを天の人として祭り上げて、くくるの才能にひれ伏されて勝手に傷ついて距離を置いて。だからくくるはいつも一人でいるしかないんじゃないのか。
誰かが、「才能の壁」という檻から出してくれる日を、待ち続けていたんじゃないのか?
くくるは、俺が発する次の言葉に期待している。現状を脱する具体案を。前に進む為の後押しを。
「くくる...!!」
「...うん」
これは他の誰かじゃない。俺が、俺だけに課せられた試練だ。俺にしか出来ない。俺じゃなくちゃ駄目なんだ...。
「あのな...!俺は...!」
だから...俺は...俺はお前を...。
「.......まだ。どうすればいいのか、分からない」
「...」
くくるはゆっくりと目を伏せる。そ。と小さく呟いてそのまま動かなかった。
太陽も落ち込み始め、ぶ厚いガラスには夕焼けに反射して見える俺達の姿があった。間接的に見て改めて分かる俺の背中の小ささ。情けない兄の姿。妹が心の内では苦しんでいる事なんて、初めて会ったあの日のあの頃から分かっていた事なのに。
だけど前に踏み出せない。脱する為の具体案が無い。俺がくくるにしたい事の筈なのに。そんなちっぽけな悩みは、いつも俺にも当て嵌まってしまう。そんな俺がくくるにしてあげられる事ってなんだ...。俺は一体こいつに何をしてやれると言うんだ。
「...ごめん」
「...いいよ。にい」
くくるは目を閉じると、そっと俺の胸元に頭を寄せる。小さい頭。そしてとてもきめ細かな繊細な髪だ。晴れの日の青空の様に、白くと透明に透き通ったその髪にそっと手を乗せ、優しく撫でる。
「...ずっと一人だったから。にいが一緒にいてくれるだけで。私はそれで幸せ」
「...っ」
棚に陳列された幾つものゲーム達。綺麗に並べられ、埃一つ被っていないのを見ると、きっとくくるは毎日そのゲーム達を綺麗にしてやっているんだろう。その隅に置かれた二つのゲームコントローラーも同様に。くくるが俺に紹介してくれるゲームは、いつも決まって四人プレイまで可能な大人数のファミリーゲームばかりだ。対戦ゲームも、格闘ゲームも。誰かがいなければ成り立たないような。そんな、心の叫びだ。
くくるの意図を知りながらも何も出来ない自分が、心から悔しくて。本当に情けなかった。
俺は何時間ぶりに防音部屋から出る。明らかに違う、外の空気。
「...俺じゃ...何も出来ない」
けれど、俺は確かに何かをしたかった。「何も出来ない」その言葉の「何」の部分を解き明かしたかった。
何かをし、何かで埋め合わせて、何かで納得する。何かをすればきっと何かは変わる。何かで起きる事は、もしかしたらいつも何かによって引き起こされている。何かがきっと、何かを変えてくれる。
だけど、その何かが分からない。その何かを知りたい。俺はあいつと出会ってからそう考え続け、今でもその答えは出ていない。
全てがはっきりとしない。俺がどうしたいのかも。あいつがこれからどうなるべきなのかも。
「...だけど」
ー才能が、無能を救い出した。それなら、無能は、才能の救いになれるのか?
くくるに真実を暴かれたあの日、俺はこいつに絶望に追い込まれた訳でもなければ、才能に失望した訳でもない。俺は確かに、くくるに救われた。ずっと一人で抱え込んで生きていく筈だった過去の暗闇に、くくるは強引に光を当てた。それが、あの日の俺にとってはどれほど救いになったか。
「...変わりたい」
俺の心の中で沸々と沸き出した疑問。ここに来なければ、くくると出会わなければ考えもしなかった。いわば不必要な証明。己が無能と自覚する事を恐れ、問題から避けて生きてきた。そんな俺のが初めて思い立った、自分に対する疑問。自分への問いかけ。
「俺じゃなくちゃ...駄目な事...。あいつの為に、してあげられること」
俺は自分の部屋の扉を開ける。古く閉ざされていたノートパソコンを開くと、かたかたとキーボードを叩き始めた。液晶はヒビ入り、所々が欠けている。だけどそんな事は気にしていられなかった。俺は無我夢中に。そしてこれ以上ないくらいに真剣に、必死でキーボードを叩いた。
俺は止まっていた時間を、もう一度動かそうとしている。
「...俺には、これしか...これしかない」
俺が唯一、頭角を見せようとした、過去の栄光。そして過去の汚点。俺が終わらせてしまった、あの時の瞬間。俺はきっと恨まれている。あの人に。あの人達に。きっと。
もう間に合わないなんて分かっている。だけど、俺には、
「...あ、あの!」
繋いだ通話の画面には、懐かしいアイコンが映される。
もう二度と聞く事が無いと思っていた声が、スピーカーから聞こえだす。もう二度と、聞く事はないだろうと思っていたあの人の声が。
「...お。お前...なんで」
当然、その人は狼狽を声で如実に表していた。俺は机に手を乗せ、叫んだ。
「...変わりたいんです!」
他に言うべき事があるなんて分かっていた。失礼を過ぎた無礼だって事も。だけどそれに勝る俺の思いが、とめどなく溢れてくる。
「俺...!このままじゃ...駄目なんです!だけど、どうすればいいかなんて分からないんです!分かる努力をしていないなんて、そんなの分かってます!...だけど踏み出すのが怖いんです!俺がしてきた事を考えれば、そんなの当然の報いだって事は重々承知しています。だけど...もう一度だけ...俺は...」
俺は叫んだ。自分勝手になろうが。例えそれが最悪の結論だとしても。それでも俺は、諦めたくなかった。
「...そっか」
その声は、優しく、俺の不安を打ち消す様な包容感に溢れていた。
「久しぶりだな。そらに」
「...はい」
「...待ち詫びたぞ」
「...はい」
これは、遠回ししてきた過去の自分へ再挑戦だ。