6.
商店街を抜けてすぐのところに、ちょっとした公園みたいな広場があって。
「うう、さっみい……」
「そりゃあ、冬に外でギター弾いてたらねぇ。私はこうなってからいつでも快適なんだけど」
四曲ほど演奏した後で、俺と響はそこに来ていた。
カップルが多かった記憶があるんだけど、さすがに冬の夜だ。誰もいない。
冷たいベンチに腰掛けて、ホットの缶コーヒーを十本の指を押しつけるみたいにして握る。
「かーちゃん、指、ぼろぼろだね」
「これでも練習だけはしてたからな。上手くなってただろ?」
「うーん?」
「それは本当に傷つく」
「冗談だよ。すごく上手くなってた。その証拠に、ギャラリーもいたじゃない」
そう。
誰も立ち止まってなんかくれないって思ってたけど、二曲目あたりから、高校生くらいの集団が最後まで演奏に付き合ってくれていて。
単に珍しいからなんだろうけど、その中の一人の女の子がえらく興奮して聴いてくれてたのは、たぶん一生忘れられないだろう。
「嬉しいな、ああいうのって」
「だね。私もなんだか嬉しかったよ」
ふんふーんと、俺の演奏した曲を口ずさみながら、やっぱり響はくるくる回る。
「座らないのか?」
「座りたいんだけどね、ほら」
とことこと響が歩いて来て、そろそろとベンチに腰を落としていく。
「おお、貫通してる」
「でしょー。不思議な事に地面とか家の床なら大丈夫なんだけどね。やっぱり偉大だよ、大地は」
胸から上をベンチから出して響が笑う。
シュールだ、シュールすぎて逆にリアクションできない。
「いやでも、幽霊か。初めて見たな」
「私もだよ。自分でもどうやったのかわかんないし」
「死んだのって一年以上前なんだよな? それからどうしてたんだ?」
「んーとね、お葬式が終わってからくらいかな? 自分が幽霊になってるって気づいたのは。最初はさすがにびっくりしたよー。誰も気づいてくれないし、鏡には映らなくなってるし」
指を折って数えながら、響がそう説明する。
「最初は家にいたんだけど、うちってお父さんいないでしょ? 一人で泣いてばかりのお母さんを見るのが辛くてね。寝るときは部屋に帰ってるんだけど、わりとふらふらしてたかな」
「一年ずっとか? ひとりぼっちで?」
「たまーに見えてるっぽい人に出会ったり、たまーにたまーに話しかけてくれる人がいたりはしたんだけどね」
「霊感がどうこうってさっき言ってたやつか?」
「たまーに話しかけてくれる人がいるって言ったでしょ? 霊感どうのっていうのは全部その子の受け売りなんだ。うちの後輩にはいろんな人材がいるんだねぇ」
なんでもない世間話みたいにけらけらと笑うけど、どんな気持ちなんだろう。
気づいたら自分は死んでいて、誰にも気づいてもらえなくなって。
自分の大切な人が悲しんでるのを、見ているしかできないなんて。
「ごめんな、全然気づいてやれなくて」
「連絡するなって言ってたのは私なんだし、気づけるはずないじゃない」
「それでも、ごめんな」
「ううん、今日こうやって会えたし、話もできたんだし。許してあげる」
「やっぱり怒ってるんじゃねえか」
「そう見える?」
ふふん、と響が笑う。
うーん、かなわない。
強いなぁ、響は。
「俺もさ、帰ってきてたらよかったんだよな。意地なんか張らないでさ」
「あ、やっぱりうまくいってなかったんだ」
「わかってた?」
「なんだかかーちゃん、最初不機嫌だったしねぇ」
「そしたら、お前とももっと話ができたのに」
「……そうだね、それはちょっと残念だったかも」
「まあ、これからその分は償うから」
って。
これからどうなるんだ、響。
「なあ」
「なに?」
「お前、いつまでその、幽霊なんだ?」
「うーん、その子が言うには、やっぱり未練とかが残ってたらこうなりやすいらしいけどね。未練って言っても、自分でもいっぱいあるからわかんないなぁ。服ももっと欲しいしー、ケーキ食べたいしー、マンガ読みたいしー、旅行したいしー」
真面目な顔で、さっきとは逆の手で指折り数える。
「それにまあ、一番の未練はたぶんまだまだ、下手したらずっと叶わないしね」
「なんなんだ? それ」
「秘密!」
べーっと、響が舌を出す。なんだよもう。
「だから当分このままかな。幽霊って言っても空を飛べたりはできないからさ、かーちゃんと同じ新幹線に乗って、東京に行ってみようかなって。あ、飛行機かな? お金ないから青春十八きっぷかな?」
「やめろ。幽霊と一緒の飛行機とか生きて帰れる気がしない」
「もー、かーちゃんひどいよ!」
けどまあ、そういうことなら。
不思議な感じはするけど、まだ響といっしょにいられるのかな。
「でも……うん、そうだね。今度はいつになるかわからないし、かーちゃん」
「ん?」
「あのときの曲、弾いてよ。私もね、いっぱい練習したんだ」
「あのときって、学祭の?」
「うん。かーちゃんが帰ってきたら、また一緒に歌えるようにって。いいでしょ?」
「まあ、償うって言っちゃったしな」
「うんうん、素直でよろしい」
缶コーヒーをベンチにおいて、ギターを取り出す。
「……これが一番の未練で、終わったらいきなり消えたりしないよな?」
「確約はできないけど大丈夫。あー、かーちゃん、私がいなくなったら寂しいんだ」
「うるさい。ほら、行くぞ」
高校時代に初めて作った、今考えると幼稚な幼稚な、馬鹿みたいなメロディ。
「弾き慣れてるね」
「まあ、思い入れはあるしな」
昔と同じように、地面を蹴ってリズムを取る。
それを見た響が、すうっと息を吸って。
「羽ばたこうよ、すぐに 君はそう言った――」
透き通るような声を出す。
ぴんと張り詰めた冬の空気を割るような。
澄み切った、響の声。
俺にしか聞こえないのがもったいないくらいの、俺が惚れ込んだ歌声。
その歌声が、俺のギターのメロディに乗って、空間を満たす。
あっという間に曲が終わって。
「……どう?」
「なんで俺より上手いんだよ、お前」
「才能だよ、才能」
「はいはい」
そのまま二曲目になだれ込む。
「ららららら 夢を描くよ――」
悔しいけど、叶わないな、これは。
曲を弾き終えて、ギターを弾く手を止める。
これで終わるのはもったいないな。何か響が歌えそうな曲って……
「かーちゃん、三曲目」
「ん?」
「あのとき歌えなかった三曲目さ、歌おうよ」
「歌おうってお前、そもそもあれ」
「まあまあ、曲は弾けるでしょ?」
「そりゃまあ」
「だったら、大丈夫だよ」
「書いてたのか? 歌詞」
「死ぬつもりがなかったのは本当だけど、もしこの曲が未完になったら死んでも死にきれないと思ってね。病院で書いてたんだ」
あとはまあ、暇だったし。
そんな風に、響が笑う。
馬鹿だ。
そんな風に笑うなんて、ほんと馬鹿だな、お前は。
けど、もっと馬鹿なのは、やっぱり俺だ。
「どんな歌詞かは聴いてからのお楽しみで――きゃっ」
立ち上がって、響の前に立って。
ぎゅうっと響を抱きしめる。
抱きしめるけど。
「馬鹿。こんな風になってまで、そんな風に笑うなよ」
俺の腕は響を抱き留めることが出来なくて、そのまま空を切ってしまう。
だから、せめてもって、腕でわっかを作って、逃がさないように響を囲んで。
「か、かーちゃん!?」
「けど、やっぱり馬鹿なのは俺だよな。辛かったら辛いって、お前に言って、帰ってくればよかったんだよ」
そうしたら、響だって俺に。
「だからお前、俺に辛いって言えなかったんだろ?」
心配をかけたくないって言うのは、心配をかけられないの裏返し。
頼れる人間じゃなくたっていい。
ただ。
ただ、俺がもっと、弱いところを見せられる人間だったら。
響だってもっと俺を頼ってくれたかもしれないのに。
「響は俺の、大切な人なのに。ごめん、本当にごめんな」
「かーちゃん……」
近くにいるのに、触れられない。
そんな風になってしまったのは、俺のせいで。
「違うよ」
響も俺の背中に、そっと腕を回してくれる。
「かーちゃんが謝る必要なんてないんだから」
やっぱり感触はない。息づかいも感じない。
こんなに近くにいて、声も聞こえるのに。
そこに響がいる、実感が感じられない。
「私はね、かーちゃんが好きだったから。夢を追いかけて、飛び出して行っちゃった、無鉄砲な馬鹿が好きだっただけなんだから。だから、なにも気にしなくていいんだよ。私の事なんて気にしないで、好きなことをして欲しい。それが、私の望んだことなんだから」
「そんなこと出来るか、馬鹿」
「もう、かーちゃん、さっきから馬鹿っていってばっかりだよ……」
泣くな。
泣くな、俺。
こんなところで泣いて、響に余計な心配なんてかけられないだろ。
ぐっと目をつぶって、涙を押し戻す。
そうだ。
まだ響と一緒にいられる時間はあるんだ。だからこれから、ゆっくり償っていけば。
決心して、目を開ける。
「……響?」
「あー、やっぱり未練、叶っちゃうとだめなんだね」
「……嘘だろ?」
響が。
真っ赤に目を腫らした響の輪郭が。
「一番の未練ってね、かーちゃんに好きって言うことと、かーちゃんに抱きしめてもらいたいなーってことと、どっちかだと思ってたんだ。ダブルで叶えちゃったら、そりゃまあ、こうなるよね」
ぼやけて、薄くなっていく。
「響!」
慌てて腕に力を込めるけど、やっぱり響を抱きしめることはできない。
「まあ、これが健全な状態なんじゃないかな。やっぱり幽霊っておかしいし」
「なんで笑ってられるんだよ! 消えてるんだぞ! お前!」
「うん、だからさ。かーちゃん、弾いてよ」
「そんな場合か!」
「そんな場合だよ!」
響の笑顔、大きな目の端に、涙がたまっていって。
「最後なんだよ? かーちゃんと一緒に歌える、最後のチャンスなんだよ! 大好きな、私の大好きなかーちゃんの、大好きな演奏が聴ける、演奏してもらえる最後のチャンスなんだから!」
ぽつり、とこぼれた。
「だから、ね?」
そう言って、俺から離れる。
「……この曲、全然練習してないから、めちゃくちゃ失敗するからな?」
嘘だ。
いつか響と一緒に歌えるようにって、ずっとずっと練習してた。
けど、それを言ったら本当に最後みたいで。だから。
「うん。間違えたら笑ってあげるから」
そんな、響の軽口が聞きたくて、そう言ってしまう。
さっきまでと同じように、足でリズムを取って、前奏を奏でて。
響の入るタイミングを待つ。
さっきまでと同じように、響もすう、と息を吸って。
「春が来たらね 種を植えよう」
俺の知らない歌詞を、俺のメロディに乗せて。
「夏が来てもね 摘み取らないで」
遠くに遠くに届けるように。
「秋が来たらね 枯れちゃうけれど」
自分の生きた証みたいに。
「冬が過ぎたら 花は咲くから」
歌う。
「最初の季節は一輪だけでも きれいな花にならなくてもね」
高校時代、響はこの歌をラブソングにするって言ってたけど。
「大丈夫 心配しないで」
ラブソングなんかじゃない。
「素敵な花が 花畑がね」
応援歌だ。
「僕にはちゃんと 見えているから」
これは俺への、応援歌だ。
「……どう、かな?」
「馬鹿。一回聞いただけじゃ歌詞、覚え切れねえよ」
だから、消えるな。
消えるな、響。
「あ、それはね、大丈夫。私の部屋に高校のアルバムがあるんだけど、そこに焦げ茶色のくまさんつきの封筒が挟んであるんだよ。そこに全部書いてるから」
こんなやつ、と。
後ろが透けて見えるようになった手で、出会ったときと同じジェスチャーをする。
「全然探し物じゃないだろ、それ」
「あはは、かーちゃんと一緒にいられる口実が欲しくてさ、探し物とか、適当言っちゃった。けどほら、生きた意味とかを探してたのは本当だからね」
「最初から気づいてたからいい、許す」
「あー、ばかにして」
喋ってる間も、響はどんどん、空気に溶け込むみたいに。
「……そろそろ、お別れ、かな」
ぼやけて、薄くなっていく。
「平気、か?」
「んー、不思議と怖いとかはないんだよね。だから、大丈夫」
へへへ、と笑顔を作る、響。
「行くな」
その笑顔が、もう見れない。
涙でにじんで、ぼやけて。
「そんなこと言わないでよ」
「行くな。行くなよ、響」
「そんな事言われても、無理だよ」
「無理でもなんでもいい! そばにいてくれよ!」
「かーちゃん……」
崩れるみたいに、響が膝をついて。
「……やだ、消えたくない、やだ、やだよ」
「ケーキ食いたいんだろ? マンガ読みたいんだろ? 未練いっぱいあるんだろ? だから消えるなよ、俺のそばにいてくれよ!」
「やだ、やだよ! かーちゃんのそばにいたいよ!」
「いていい! いくらでもいていいから! 一緒にいてくれ!」
「かーちゃん! 大好き、大好きだから! だから、かーちゃんは絶対にやりたいこと、やってね! いっしょにいたいけど、こっちにきちゃだめだよ!」
「馬鹿! お前がこっちに来い! 一年もいたんだろ!? これからもずっとでいいだろ!」
「離れたくないよ! やだよ! かーちゃん!」
「響!」
手を伸ばす。
抱きしめるみたいに、響の首元に腕を回して。
伸ばした手に、ふわっとした暖かさが乗ってくる。
もう目の前に響はいない。
けど、俺の手の中には。
くるくるずっと踊ってた、真っ赤な響のマフラーが。
「響……」
ぎゅう、とそれを抱きしめる。
そこには確かに、温もりが。
響がいた感触が、そこにはあった。