姥捨て
途中で書くのを諦めた物ですが、また新しく構想を練って書き直したい題材です。ただ眠らせるのは忍びないし、できればいろんな方の意見やアドバイスや思想をいただければと思って投稿しました。
未完成ではじめの方しか書いていないので、嫌だと思われる方がいらっしゃるかもしれないです。
「かあさん、お山へ、いってくれ」
息子はそういってオレに頭を下げた。
髪すら痩せて乾いた頭の向こうで、四日前に同じことを呟いていた嫁も手をついて頭を下げている。
オレはワラを編んでいた手を止めて、腹の芯から起こる感情におののいた。
四日前に起こった感情は、烈火のように激しい怒りだった。オレは空き腹をなだめるために剥いだ木の皮を食んでいた。えずくほどの苦味を通り越してやってくるほんの微かな甘味を感じようと口端から垂れるヨダレすら気にせずに必死に奥歯を擦り合わせていた。
しっかりと座ることすらままならない赤子をおんぶ紐で背負った嫁は、そんなオレを横目に繕い物をしている。古着のボロとボロをついだ着物の穴をさらに継ぎ足しふさいで、また着なおすのだ。ちくちくと針をさし、ときどき赤子のために体を揺すっていた嫁がふとなんの拍子もなくこういった。
(まだあの人は森から帰っておらん。わたしはこうして針を刺していると、このボロしか見えんようになる。かあさま、この子のためだ、お山へ登ってくれ)
あのときのオレは何を言われたのかをわかる前に、気がつけば嫁の頬を張っていた。久しぶりに体が芯からカアッと熱くなっていて、目の前がチカチカと白んでいた。強く叩かれた嫁は赤子と共に横に倒れていて、赤子のぎゃーっという泣き声が響いているのに、嫁は崩れた脂っぽくよれた黒髪の陰から顔をあげない。
獣のように荒げた息が食い縛った歯の隙間から漏れ、肩が呼吸のたびに上下する。なんの反応もしない嫁にもただ泣き叫ぶ自分の孫にも頭が痺れるほどの苛立ちが沸き上がる。きつく握った拳を、その頭に叩きつけてやろうかと腕を振り上げたとき、嫁はふらりと体を起こして何事もなかったかのように赤子を揺らしてなだめはじめた。叩かれたのに血の色さえ透けない青白い顔色に、オレはシュンと静まり拳をほどくことしかできず、拍子に飲んでしまったらしい木の皮の代わりを探しに家を出た。
あのときについでいたボロを、息子が着ている。ワラのむしろから退いて、土やら何ならで黒く硬く節くれた両手の平を床の上につけて頭を下げている。その後ろで同じように頭を下げる嫁の背中も、息子の背中も、すっかり骨の形が透けるほどに痩せこけてしまって、ボロの着物にさえ着られているようだ。
オレはそんな土下座を受けながら、ただ震えていた。腹の奥からわきあがってくる、これは怒りではない。そうだ。これは全身を掻き毟りたくなるほどの羞恥だ。恥だ。
ぶるぶる体を震わせながら、オレは息子の背も嫁の背も越えたさらに向こうの唯一上等な兎の毛皮の上に寝転ぶ自分の孫の目と触れあった。ひたすらに無垢な黒い眼が、父と母の痩せた背を越えてオレを写している。乾いた白髪を散らばせ、皮と骨だけになったシワくれた老婆の姿だ。
「ああ」
ひび割れた唇から、ひそかにこぼすようにオレは頷いた。
「お山に、かえるよ」
村の冬は厳しい。
そもそもが実りの貧しい土地なのだ。そびえる険しい山のせいで日の登りは年中遅く、ときには山から被さってくる雲などのせいで昼なのに暮れかと思うほどに暗い日も多い。
固い土は耕しても作物の根を受け入れず、端を流れる川は岩場が多く流れが速い。背が高く尖った葉をしげらせる木ばかりが立つ森では狩りも難しく、採れる木の実やきのこの恵みもわずかだ。
貧しい土地で暮らす者たちは生活の様をそのまま表すように、みな痩せて背ばかりがひょろりと長く色白い。
秋ですら豊かとは言えないこの村の冬はいっそうむごかった。
吹き下ろしてくる風に乗って雪が降り始める頃には、すでに村のうちの一人は飢えと冷えで芯から凍って死んでいる。満足な食糧の貯蔵など出来ているはずもなく、その日その日の糧を僅かずつ削りながら水で増した汁をすすって生き、すきま風に凍らされて死なないようにと祈りながら、家族は身を寄せあってありったけの布とワラを被って眠る。
だからなのか。この土地には大きな宗教は根付かず、土地独特の習慣が尊ばれ厳しい自然そのものが畏れられていた。
村には齢五十をすぎる者はほとんどいない。学がなく、文字の読み書き数の足し引きができるものなどいない村で、正確な年齢なんて誰一人として覚えていないがそれでも村人は齢五十を前にだんだんと弱り始め、おおよそ五十の年を境にまるで萎むように老いていく。
そして老いたものたちは大概が、冬を目前にして自らの足で険しいお山に登る。お山へ向かった彼らが村に再び帰ることは許されず、村へ姿を見せたならばなけなしの鉄で作った狩り用の槍や弓矢で獣のように追い払われてあるいは殺される。「お山にかえる」「やまかえり」と村で呼ばれるこの習わしは、口減らしのために力のなくなった人間を切り捨てる、いわゆる「姥捨て」の習慣であった。
力老いた村人たちが自らお山へいくのは、そこにあの世があると強く信じているからだった。一枚の葉、一滴の水、一匹の野ネズミ、一粒の土にさえ等しく神は宿っている。そして神は必要なものを必要なだけ広い懐のなかをひらいて与えてくださり、かえるものをまた分け隔てることなく迎えてくださる。
その心を強くもっている村人たちは、厳しく高くそびえる山にこそ神の姿を見いだした。山の石を積んで形にした稚拙な祠が、山半ばのぽっかりと開けてた場所に築かれていた。人神をもたない村の人がせめて拝み祈ることができる形を求めたのだろうか。
いや、姿のない神のためではないのか。お山にかえるものたちは等しくその祠を目指した。祠は死にむかう自分をどうか大いなるものが懐をひらいて迎えてくださるように、あるいは残した家族が貧しくても恵みを受けられるように、命の灯火の揺らめきすべてを込めて最期に手を合わせられる場所なのだ。
ユキという。その年はじめての雪が降り、その冬はじめての死者があった日にオレは産まれた。最初の死者はオレのじっさまだった。狩りの途中で足をやって、お山にかえることもできなくなったじっさまは食べ物を断って、ワラのむしろの上で手を合わせながら逝ったらしい。死者とすれ違うように産まれたオレにとうさんは、自分と引き換えにしてでも多くを生かすだろうといってじっさまの腕に抱かせた。
オレはユキという名前があるが、夫を得るとおまえと呼ばれ、子供が生まれるとかあさんになり、孫が生まれるとそれにばあさんが増えた。村の女が辿る道の上を同じように歩いてきた。オレはもはやとうさんとかあさんのユキではなく、村のひとりのばあさんだ。
明日、オレは息子も嫁も出払った間を見つけてひっそりとお山へ向かわねばならない。草履とボロの着物一枚で、雪が積もって真っ白なお山にかえるのだ。せめて、風がなければいい。せめて、雪が降っていなければいい。せめて、最期の飯くらい握り飯を食いたいが、ああ、それはあんまりにも贅沢がすぎるだろうか。
痩せた胸のなかに抱いた息子の背中がもぞりと身じろいだ。オレの胸の骨と息子の背の骨が擦れあう。冬の夜半だ。暗くて、目を開けていてもなにも見えないが、オレの耳は、身じろぎの合間にこぼれた「すまん、かあちゃん」をしっかりと聞いた。目をぐうっと瞑って、オレは寒くて身を寄せるふりをして息子の痩せた背中に腕を回すしかなかった。
人にも獣にもむごいばかりの冬だが、しかし自然の姿はどの季節よりも美しく神々しくさえあった。針葉樹の葉は青く、被った雪との対比で青さはより深く瑞々しい。新雪の上に落ちる影もまた青く、凍った空気はきらきらと輝いている。気配すべてが吸い込まれるほどの静寂を孕む冬は、しかし生物の輪郭をより濃く映す。
吐く息も白くならないほどに人々の体は芯から凍っているけれど、それでも雪が降らない日には外に出て少しでも多くの食べ物を見つけねばならない。
幸いにもこの日、雪は降らなかった。一面の銀世界ではあるが、息子は肩に兎の毛皮を乗せ雪駄を履いて家を出て、嫁は赤子をおんぶ紐で背負って凍った川へ向かった。
オレは朝飯の椀を片して、編みかけのワラを手に取った。このワラを編むときにはもはやお山にいかねばならないとは思ってもいなかった。この冬は越せる、この冬だけは越せると思ってワラを編んでいた。けれども今日だ。この編みかけのワラを残して、オレはお山に向かう。
膝に手をあてて立ち上がった。がくり、と折れそうになる一瞬をこらえて歩き、戸口を開けた。
村はしん、と静かだった。踏み固められた雪の道があるだけで、鳥の声もしない。ちらちらと白日に照らされていっそう瞬く雪が目を眩ませる。仰げば空も白く霞んでいて、向かうお山は雲の冠をいただいていた。あの雲の冠が村へ降りてくるとまた雪が降り、誰かが凍え死ぬかもしれない。
オレは寒さにガタガタ強ばる体を擦りさすり、村から出た。まるでいつものように、ちょっと食べれるものを拾いにいこうかという調子で、もう二度と踏み入るとこが叶わない村の境を跨いだ。
世界が死に絶えているのかと思うほど、今日という日は静かだった。朝食のときも赤子は泣かず、嫁が椀に粥を注ぐ音もせず、息子が粥をすすらず、オレも一言すら話さなかった。日々のことが、音ひとつ立てずにするりと流れ過ぎた。その静けさが清水のように心に染み入り、オレは粥の残りを飲む素振りをして涙を一筋こぼした。これがオレの家族との決別だった。
オレは新雪の上を歩いている。雪駄を履いただけの足が雪を踏むたび、キーンと冷たさが身に響いた。すでに体は冷えきり、指先を擦りあわせるも温もりは生まれない。朝飯を食べたばかりだというのにもう腹が減ってきた。凍った関節を動かす度にギシギシ軋んで末端に痺れるように痛む。
ふ、と荒い息をついて首を仰け反らせて見上げる。真上には雪かぶりの木々の隙間に白く粗い霞に覆われた空がある。そこからわずかに視線を下げると、空を刺すように鋭いお山があるはずだ。道なき道はただ長く、険しく、彼岸のさらに果てへと伸びる。