第一話
生徒会室に行くと、水ノ江先輩がとんでもないことになっていた。
知らない男と抱き合っていたのだ。
(見るんじゃなかった)
相手の方は誰か、確かめなかった。確かめる暇などありもしなかった。僕はただ、自分が好きな先輩の顔だけを見ていたから。
男はわさわさと無駄な動きをして先輩に圧し掛かった。それが鬱陶しかったのか、先輩はその身体を押しのけて、仕方なさそうに髪を解いた。ゴムのバンドをとると艶やかな光沢を帯びて少しカールした黒髪がふわりと流れて、頬に一筋、疑問符のマークになってかかっていた。疑問符だって?疑問を投げかけたいのは、こっちの方だ。僕は、急いで誰もいない図書室に駆け込んだ。
図書室では、僕の身の丈より遥かのっぽの古式な冷房が、相も変わらず冷気を吐き続けているだけだ。
僕の足はいまだに雲の上に乗っかっているようなものだった。大人ならここで一服、煙草でも吸うか、すんごく強いお酒をショットで飲み干したいところだろう。十六歳の僕には、そのどちらも出来なかった。まあ、したとしても、気分なんて晴れなかっただろう。そんな先輩が僕は、ずっと好きだったからだ。
「小説書くなら、図書室で書いたら?」
その水ノ江先輩に勧められて、一年生の僕は、勉強もしない癖に真夏の高校の図書室に来たのだ。進学希望の二年生、三年生に向けてうちの高校の図書室は、真夏、自習室として解放されている。生徒会や先生方にも受けがいい図書委員長の水ノ江先輩は、その自習室の全権を任されていると言うのだ。
八月のこの日は、先生もいない。お盆真っ只中で帰省しているらしいし、そもそも塾の自習室で勉強するからか、進学希望の先輩たちの姿もないらしい。
「どうせ誰も来ないからさ。ゆっくり原稿書けると思うよ」
だから来なよ、と先輩はあのふんわりとした笑みで、一年生の僕を誘った。
「わたしも暇だから、良かったら東御くんの応募原稿、チェックしてあげれると思う」
二つ返事で馳せ参じた。
東御透十六歳、真夏なのに春真っ盛りだった。
哀れその時点では。
かくして先輩が暇なカウンター当番をしずしずと遂行する中、僕は早朝、ノーパソを持ち込んで原稿書きに向かったのだ。夢見る青春小僧である。
僕の高校にある文芸部は、半帰宅部であるこの高校の図書委員たちによって、辛うじて命脈を保っているような、そんな体たらくのなんちゃって部活だ。好きな人が好きなように書くので、部活としては成果がほとんどない。それでも秋の文化祭には、自分たちで製本したミニコミ誌くらいは出してはいたが、その大半は、出版社への応募原稿の没作品だった。結局は皆、孤独に応募の原稿を書くような、そんな集まりだ。
プロ志望の先輩たちは、夏は公募の脱稿を目指す。先輩には本職の作家になって出版を実現した作家さんもいたと言うから、割りと本気だ。
僕もこの夏は、八月終わりの新人賞に応募しようと、原稿を執筆中だった。守備範囲は王道ミステリだ。登場人物紹介が堂々『名探偵』、と言う古典的な主人公が登場し、閉ざされた山荘や奇妙な館で密室殺人が起こるような、がっちりオールドスクールな作風だった。
「本格ミステリね?」
と、水ノ江先輩に言われたときは畏れ多すぎて真っ向否定したが、このジャンル、一定の条件が揃っていれば作品の体を成していなくても、一様に本格物、と言うらしい。
ちなみに水ノ江先輩自身は、中世の王宮や妖精が出てくるようなファンタジックな作品を書くのだが、この手のミステリは僕より遥かに読み込んでいるらしく、僕の原稿を読んで鋭い意見をばしばし言ってくれる。毎回ぐうの音も出ないくらい凹まされるが、それでも先輩がマンツーマンで原稿を見てくれるなんて、こんな貴重な機会を見逃せるわけはなかったのだ。
背が高くて、すらりとした水ノ江先輩は引きこもり気味の腐女子さんが多いこの学校の文芸部では異色だ。先輩は、ずいずい前へ出る性格じゃないと自分で言うが、ルックスの面では、十分に人目に立っている。
少し巻き毛ぎみの、艶やかな黒髪ショートが先輩のトレードマークだ。ピンクのフレームの眼鏡の中の瞳はいつもちょっと憂いを帯びていて、薄くリップを塗った唇の端に計算されたみたいに小さなほくろ。十七歳、一つしか年齢が違わない、とは到底思えない。先輩、色っぽいのだ。
(そりゃあもてるだろうよ)
分かってる。いや、分かってた。先輩が僕を誘ってくれたのは、純粋にただ、先輩としての好意だと言うことは。と言うか先輩は、都合のいい店番を探していたのだ。あああ今さら絵図が読めた。放置してもちこちこ原稿を書いているだけの僕なら、先輩がどこぞの彼氏と逢引きに行く間に体のいい留守番を任せられるじゃないか。
それにしても。がっつりため息が出る。はああああああ…。
いや気があるのかなあ、とか少しは思ってましたよ。じゃなかったら、夏のイベントにちょくちょく誘ってはくれないだろう、とかさ。プールにも、公園でやった花火にも一緒に行ったし。いや、冷静になれ僕。あれはよく考えたら図書委員の集まりだから、一年の僕を誘ってくれた、ただそれだけだ。さらば勘違い夏の思い出。
て言うか先週行った大磯ロングビーチの記憶が頭を離れない。満点の真夏の太陽の下、青いドットの入った水着姿の先輩。しかもセパレートだ。着やせするタイプだとばっちり分かった。そんな魅惑の先輩が、数ある一年男子の中から、僕を、ウォータースライダーに誘ってくれたのだ。キュン死するところだった。でもつまり先輩の方は、なーんにも意識なんかしてなかったわけで。はあああああ…。
つくづく、男と言うものの他愛なさを痛感してしまう。すでに路傍に行き倒れた僕に、まだまだ続く長い夏はひたすら残酷なものでしかない。
こんなときに推理小説を書くなんて拷問だ。論理的思考は予期しないエラーでシステムダウンである。じっくり、時間をかけて作ったタイムテーブルや伏線の進行表などを見ていると目まいがしてくる。水ノ江先輩。うう。トリックなんて、アリバイなんてもう知らん。みんな容疑者だ。残らずしょっ引かれちまえ。
「もし?あなた、そこで何をしていらっしゃるの?」
不貞腐れながら原稿を書いていると、背後から声が立った。あれ、先輩の声じゃない。でも、女の子の声だった。応える間もなく、彼女は責めるような声で言った。
「カウンター当番さんって、あなたじゃないのかしら?」
「あ、ああっすみません」
振り向いて僕は、声を上げそうになった。
(なんだこの娘…?)
カウンターのところに、明らかに場違いな女の子が立っていた。
年は僕と変わらないだろうがまず、服装がうちの学校の制服じゃないのだ。
ひらひらのレースのついた薄いピンク色のサマードレスに、黒いリボンのついた麦わら帽子。そこからふわりと日本人形みたいな黒い髪が腰まで流れている。人形のようにほっそりとした身体つきといい、深窓の令嬢、と言うフレーズ以外、思い当らない。これで日除けのパラソルや、スーツケースでも持っていれば、ラノベの夏フェアかと思ってしまう。
これだけで非現実感が半端ないが、実際、そこに彼女は存在して話しかけてくるのだ。
「なあにあなた、小説を書いているのね。あら、探偵小説じゃない」
つんのめりそうな早口でまくし立てると、少女は眉をひそめてパソの画面をのぞき込んだ。目つきがちょっときついが、顔だちも見たことないほど整っている。
「貸出ですか?」
僕があわててカウンターへ回ろうとすると、少女は無遠慮に机の上にあった書きかけのプロットまで勝手に拾ってみている。
「ねえ、犯人って、この女中Bの永久子さんでしょ?」
僕は絶句した。そこまで書いてないのに、ばっちり当てられたのだ。
「まぐれじゃありませんわよ。たぶん真相はこうよ」
少女はそのまま、アリバイ工作のトリックから、犯人逮捕の決め手までずばずば当てて見せた。真相は正直ちょっと違ったけど、僕より遥かに面白い。しかし人がまだ書いてもないミステリの真相を暴露しちゃうなんて。ひどい。先輩の衝撃映像と今の暴挙で、書く気完全に失せた。
「誰なんですかあっ!?」
思わず叫んだ僕に、彼女は古臭い蔵書を突き出して言った。初対面にして、逆らえない迫力だった。
「この本の貸出をお願いに来たの。貸出票にわたしの名前をお書きなさい」
涼宮星子。
ますますラノベみたいな名前だ。微妙にかすってるし。書かされてるこっちがむしろ恥ずかしい。
「星子さんは普通の服ですけどこの学校の方じゃないですよね?」
ひらひらとレースの裾を翻す星子さんに僕は恐る恐る尋ねた。
「えええ、宅は成城におりましたの。でも、今年の春から本土空襲がひどくなったでしょう。で、叔父の別邸がある大磯へ疎開しましたのよ」
「へえ…」
と、相槌を打ってから、変なことを言う人だと思った。今、空襲とか疎開とか言ったけど気のせいだよな。話しぶりも雰囲気も、ちょっと僕なんかとは育ちが違う感じがするけど、都内から来たばかりの転校生だろうか。
ひとり戸惑っていても、先輩は戻って来ない。いや、戻ってきたところで、どんな顔をすればいいのか僕には分からないのだが。
「早くなさいな」
星子さんの押しの強さに圧されて、思わず手書きの貸し出しカードの方に名前を書いちゃったけど、利用させていいのかな。
ふと僕は星子さんが持ってきた本に目を落とした。それにしてもどこから引っ張り出して来たのか、やたら古臭い本だった。こんな本、書架にあったかな?
「平凡社文学全集…(旧字が読みにくくて、僕は目を細めた)『亂歩』って、あの江戸川乱歩のことだよな」
「ええ、ご存知でしょう?探偵小説をお書きになるのですから」
当然だ、とでも言うように星子さんはふんぞり返ると、戸惑う僕の手からその本を引っ手繰る。
「乱歩だったら、いくらでも読みやすい新版があるじゃないですか」
「分かってないわね。これでなくてはいけないのよ。まあ、無理もないでしょうけど」
と言ってから、星子さんは、あ、と何か名案を思い付いたかのようにこう言ったのだ。
「ねえ、あなたお名前は?」
「東御透、と言いますけど」
名乗った瞬間、ふん、と鼻を鳴らされた。容赦なく失礼だった。
「名探偵のお名前みたいねえ。あなた、平凡だし、どう見てもワトソン顔よ」
「余計なお世話だよ」
星子みたいなキラキラネームより、ましだと思うが。
「当番はあなたお一人?」
「いや、その…先輩がいたんですけど」
まさか仕事をサボって、生徒会室でとんでもないことをしているとは、口が裂けても言えない。
「まあいいわ。どうせ誰も来やしないでしょう。少し顔を貸しなさいな」
「え…」
そりゃ困る。こっちだって一応、当番なのだ。
「いいじゃない。そうやって一人でいじいじ小説を書いてるのだから、どうせお暇なのでしょう?」
いらっと来た。こいつ、ひっぱたいてやろうか。
あづい。
かくして真夏の炎天下、僕は校舎裏にいる。もちろん星子さんみたいなかわいい女の子を僕がひっぱたけるわけもなく、なし崩しに連れてこられたのだ。
「どこに行くんですか…?」
部活をする誰かの声が遠巻きに聞こえる。確かこっちは立ち入り禁止の裏山だ。
「邪魔ですわね、この柵が」
と、星子さんは、容赦なく安全保護のために針金で止められた衝立型の安全柵を取り外そうとしている。
「ねえ東御、男の子でしょう。手伝ってくださる?」
いつの間にか苗字呼び捨てだ。まるで執事か運転手だ。反論を呑み込んで僕が安全柵をのけるのを手伝うと、星子さんはその隙間からひょいひょい、と中へ入って行こうとする。
「あっ、あの!そっちは危ないですよ」
思わず焦った。そこは数年前、台風の土砂崩れで出現した、洞窟陣地と思われる塹壕の入口なのだ。
それは塹壕戦術を好んだ旧日本陸軍によって建造されたものらしい。神奈川県太平洋岸にしばしば見られる戦争遺跡だ。終戦直前、来る本土決戦に備えて急造したものと言う。グアムや硫黄島、沖縄などに見られる自然洞窟を利用した籠城基地だ。
三浦半島城ケ島のものが有名だが、大磯駅裏手にもそれと言われる入り口がある。
大磯駅にあったのは高さ一七〇センチ、幅八○センチの四角い石組みの坑道口で岐路がほとんどなく、果てはどこに続くとも知れないほど深いと言う。こちらには棲息部や(籠城兵士の待機スペース)や銃眼がなかったため、枯渇した水路トンネルと言う可能性が高いのだそうだが、僕たちの学校で発見されたそれは、軍事施設の可能性が高かった。なんとこの洞窟から、旧製の軍用ピストルが発見されたと言うのだ。
「だから近寄らない方がいいですよ、ここ。その手の話も多いし」
実はこの塹壕が発見される前から怪談話は、僕たちの高校七不思議の鉄板ネタになっていた。
例えばだ。夜間、銃を持ったまま徘徊するゲートルを巻いた若い男の影を見たとか、モンペ姿で泣きじゃくる若い女の子の霊を見たとか。特にこの終戦記念日が近い時期になると目撃談が、学校内でも枚挙に暇がない。最近訊いた話では、幻覚を見せられて、この薄暗い塹壕に引き込まれそうになった人もいたそうな。
「心中があったのはご存知かしら。あれは確か、玉音放送のあった翌日とか」
どこへ向かうとも知れない狭い塹壕を無遠慮に覗き込みながら、星子さんは言う。僕は思わず頷いた。何年か前、この遺跡が発見されたとき郷土史に載ったので僕も、図書室で読んだ憶えがある。
昭和二十年八月十六日、終戦の翌日、ここで心中事件が起きたらしいのだ。敗戦をショックにしての、心中らしかった。
亡くなったのは大磯に疎開してきたさる旧華族家に出入りする年若い女中と、別の家に出入りする書生だったらしい。敗戦を宣言した日本に米軍が乗り込んでくることで、前途に絶望を感じての覚悟の自決だったのだと言う。無残な話だと思う。せっかく戦争が終わったのに、死ぬことはないと思うのだが。
「おめでたい意見ですわね。終戦の日となれば、大変だったのですわよ。正午に玉音放送があった直後は、みんな放心状態でしたのに」
星子さんは見てきたように言う。まあ僕たちも社会科の教科書などで見る、終戦の日の写真の光景くらいは知っている。
皇居の前で膝を折る人。うつろな顔のまま佇む人。ラジオの前に突っ伏して土下座するもの。いわゆる『一億総ざんげ』と言われるのがこの日の光景だ。
「生きよ、堕ちよ。坂口安吾が『堕落論』で評したように、あの日から、底が抜けたように転落していった人たちも沢山いましたでしょう。軍人や憲兵たちも武装解除されて放逐され、教師は生徒たちに教育を施す術を喪いました。でもね、逆に大きな希望を持って蘇った人たちもいたんですのよ?」
と、星子さんは僕から引っ手繰った本を見せつけてくる。例の江戸川乱歩の全集だ。
「戦前、乱歩は全く思った活動が出来ませんでした。もちろん他の探偵小説家も同様でしたが、乱歩の検閲は特にひどく、この本に載っている初期の代表的な短編などは、ほとんど閲覧を禁止されました」
その話は何となく、聞いたことがある。乱歩は執筆活動を制限され、戦時中は軍部が礼賛するような小説や、子供のための科学小説しか描けなくなったのだ。
「終戦とともに、まさに探偵小説の夜明けが来たのです。それまで探偵小説は、好事家の書斎に密かに匿われ、こっそりと読み継がれるばかりでしたの。宅の叔父が侯爵家だったからこそ、戦時中は憲兵の目を盗んで探偵小説が楽しめたのですわ」
話しながらふわりと、星子は塹壕の奥へ降りていく。もはや顔の半分に翳がさしていた。僕はあわてて後を追おうとして、立ち止まった。
「どこへ、行くんですか?」
「本を、返してほしかったらついてくることね」
にたりと、星子さんが表情を綻ばせた途端、急に背筋が寒くなった。
もしかしてだ。
この子は、僕を、塹壕の中に誘っているんじゃないだろうか?
「どうしたの?」
薄暗闇をまとって、星子さんはこちらを振り向いた。その身体はすでに半分、塹壕の深い闇に一歩、足を踏み入れている。気がつくと、僕はちょうどその光と影の境界線上に立たされていた。
(どうなってるんだ)
そう言えば、奇妙なことになんの音もしない。校舎にもグラウンドにも体育館にも人がいるはずなのに、そうした人の気配は絶えて、蝉の声ばかりなのだ。僕は校舎の報を振り返ったが、どこもかしこも、死人のように静まり返っているばかりだった。
どこかでかすかに、空襲警報のようなサイレンが鳴り響いていた。それはとても、非現実的な光景と言えた。そう言えば星子さんはさっきから終戦の話しかしなかった。しかもまるで、その時そこにいたかのような口調で。
(まさかこの子が幽霊?)
ぞくりとした。考えてみると着ているサマードレスも帽子も、今の流行のものより、どう見ても古臭い。心中した女中、にはとても見えないが、浮世離れした雰囲気といい、僕たちと同じ、生身の人間とも思えない。
「星子さん、ってどこから、何をしに来たんですか?」
僕は恐る恐る尋ねた。まさか、本当は幽霊ですか、などとは今さら面と向かって聞けなかった。
「答えにくいことを、聞きますわね」
星子さんは謎めいた笑みを浮かべたまま、僕を見上げるとこう答えた。
「やり残したことをしに行きますの。東御、あなたもお好きなようだから、一緒にどうかと思ってお誘いしてますのに」
「好きって」
何がだ。いや、推理小説は書いてたけど、ホラー好きとは決して言えない。むしろ、その手の話は苦手な方だ。
「探偵小説の方ですわ。まあ、興味がなければついてこなくてもいいし、それでもわたくしは全然構いませんわよ。でもね」
星子さんは言うと、さっき図書室から強奪した、江戸川乱歩の古本を僕に誇示するように掲げた。
「見たくありませんの?」
彼女は確かに言った、
「謎解きが」
と。
「謎解き?」
僕がその言葉を反芻すると、埒が明かないと思ったのか、星子さんは袖を振って塹壕の中に歩き出してしまった。
「つーまんない殿方。いいわ、あそこで、いじけながら詰まらない小説でも書いてらしたらいいのよ。御機嫌ようへたれ様♪」
「まっ、待って下さい」
思わず僕は、飛び出した。言ってることが滅茶苦茶だ。でも、気になった。謎解きって一体、なんのことだ?
「現場で発見された軍用拳銃。発射された形跡があったの、ご存知かしら」
結局薄闇の中をすすみながら、僕は星子さんの話を聞くことになった。息苦しい岩肌の間をふうふう言いながらだ。しかし、塹壕と言うのは狭くて暗い。恐らく人と人とがすれ違えないぞ。ガス弾とかで攻撃されたら、一網打尽な気がする。
「しかし、発見された心中の二人の死因は、中毒死なのよ。女中が用意した、青酸カリを呷ったと言うのが、公式見解でね」
いわゆる自決丸と言うやつだ。当時は軍人に限らず、敗戦が決まっていよいよとなったら毒を飲んで死のうと覚悟を決めている人も多かったそうだが。
「でも書生の方の着物からは、硝煙反応が出たとしたら?」
僕は、はっと息を呑んだ。聞くところ、二人の死に、銃は介在していないのだ。覚悟してお互いに毒を飲んだのなら、書生は女中を撃ったのではない。もしかしたらそこに、第三者がいたと言うことか?
「ある不幸な娘が、いたと思ってくださいな」
星子さんは、闇の中で歌うようにうそぶいた。
「その子は自決した女中の家の令嬢でした。探偵小説が大好きで、検閲の目を逃れて叔父の蔵書を読み合せる秘密倶楽部のようなものを主催していたの」
そこには令嬢が集められる限りの、疎開先の探偵小説好きが集まったと言う。同年代の少年少女たちは、大磯の旧華族の家の人間が多かった。令嬢はこだわらない性格で、その家の書生や女中でも、探偵小説が好きな限り集まりに呼んだそうだ。
「松井志郎さんは、四つ下、十六歳のハナとそうして出会ったのです。そして探偵小説を通じて、恋仲になりました」
二人は違う家に仕える身だったが、この苦しい戦争が終わったら、どこかで一緒になろうと誓い合っていたのだと言う。しかし松井志郎は実家にハナとの婚姻を反対されていたそうだ。
「その子はもちろん、二人を応援していました。この本の暗号表を使って、誰にも判らないように逢引きを整えるのを教えたのです」
江戸川乱歩の初期の代表作『二銭銅貨』には、暗号表を使ったトリックが出ている。紳士泥棒と言われた怪盗が隠した盗難金の行方を、二銭銅貨に隠された暗号文から追う、という筋立てなのだ。ちなみに本には、暗号を解く際にその対照表が記載されているので、志郎たちはそれをもとに自分たちの暗号表を作って、恋人同士のやりとりをしたと言う。
「駆け落ちをいたします」
昭和二十年八月十五日の夕暮れだ。ハナは思い切って、こう令嬢に打ち明けたと言う。
「戦争も終わったし、わたしたち、自由に生きようと思います」
二人は、こっそりと大磯を抜けて東京へ向かうと伝えた。東京は焼け野原で便があるかどうか分からないが、混乱のどさくさに紛れ込んでしまえば、松井家の人間も二人を追跡するのを諦めるだろう、と言うのだ。
「ハナはその日のうちに、わたくしの家を逐電(失踪のこと)しました。平塚辺りで落ち合って、まずは東京行きの汽車を探すと言うことでした」
手回りの荷物を持っていなくなったハナの部屋から痕跡を消すために、令嬢は残った持ち物を片付けることまで引き受けたらしい。しかしハナは重要なものを忘れていたのだ、と言う。
「わたくしがあげた平凡社の乱歩全集をあの子は置いていったのですが、そこに小さな伝文が挟まっていたのです」
以前に読んだものかと思ったが、気になって令嬢は暗号を解読した。それは待ち合わせ場所の変更を指示するものだった。
「ハナさんは直接、平塚に向かってしまいました」
時間が迫っていた。携帯電話もない当時のことだ。ハナさんと連絡をつけるのは、もはや不可能だったに違いない。そこで令嬢は次の策をとった。
「暗号を読み解くと、ハナさんよりも松井さんの方がわたくしの近くにいらっしゃったのです」
まだ、大磯にいる松井にハナの勘違いを報せれば或いは、彼の方から迎えに行ってもらえるかも知れない。
令嬢は松井に逢うことにした。そして、誰にもことを知らせずに、取るものもとりあえず走った。暗号伝文が挟まったままの、あの乱歩全集を手にして。
急に、目の前が明るくなった。外気が微かに漏れ出して、僕はようやく息をつけた。
星子さんについていって、飛び出たのは森の中だ。恐らくはここが、洞窟陣屋の棲息部に相当する場所だろう。洞窟の壁や天井が抜けて、山の群生植物が侵入してきていた。真夏の光がぽつんと落ちて、広場に溜まりを作っている。
なんと光の中に、カーキ色の国民服を着た若い男が佇んでいた。うわっ、本当に出た。
「松井さん」
星子さんは声をかけた。いきなり声をかけたにも関わらず松井、と言われた男は驚いた様子もなく振り向いた。その感情の色のない目をみて、僕は一瞬息を呑んだ。星子さんがその松井に対して衝撃の発言をしたのは、次の瞬間だ。
「ここで、わたくしはあなたに撃たれたのですよね?突然、なんの予告もなく」
松井は肯定も否定もしなかった。しかし、行動で何よりも明確な答えを示した。ゲートルを巻いた手が、こちらに差し向けたのは、なんと拳銃だ。
僕は今にして、思い知らされた。あそこになかった死体。放置された拳銃。つまりは、ここで書生に撃たれた、と言うのは星子さんなのか?
「俺はいきなり、撃ったわけじゃない」
銃口を星子さんに向けて、松井は顔の表情を変えずに言った。
「あんたが、暗号を解いた、などと言うからだ」
「おかしいとは思いました。あなたはそんな年齢にも関わらず徴兵も受けず、髪の毛も坊主頭ではありませんでした。肺尖の病気があって兵役検査を落ちたとは言いましたが、医師にかかっていた様子もない。それは偽られた経歴の一部ですね?」
「ど、どう言うことですか?」
ついていけない僕に、星子さんはこれで十分だと言うように言う。
「この方が出入りしていたのは、吉田家でした。昭和二十年四月、終戦工作を行った罪で逮捕拘禁された、吉田茂の家から陸軍に近衛上奏文をもたらした間諜の一味、それが松井さんの正体だったのですわ」