酒と少女とチョコレート
市原ゆかりは元気良くドアを開ける。
いつもいつも、僕は彼女が起こす風で目を覚ましていた。
「あ!安堂また寝てる!」
「まさしく今君に起こされたから…。だから寝てないから…」
「お仕事中なのにいけないんだー」
ゆかりは笑うとき、口に手をつける癖がある。彼女は左手で僕を指差しながら、ケラケラと笑う口を右手で隠す。そんな仕草の1つからも、彼女が由緒正しい出だということが知れる。髪の先からつま先まで平民中の平民の僕は、彼女と一緒に居ると何かと注意されることが多かった。
「“お早う”安堂。もうお昼だよ?」
「合わせてくれてありがとう…。そういえば今日は来るのが遅かったね」
「お母様がなかなか離してくれなくてね。振り切ってきたの!」
「おお、それは…」
母親は振り切るもんじゃないよ、とは彼女のキラキラした目の前では言えず。
ただ僕は彼女の頭を「偉かったね」と言いながらひと撫でした。
「えへへ」
ゆかりは花が咲くように笑う子だ。そして彼女は頭を撫でられるのが好きだった。
「ちょっと待ってね」
彼女が来たら必ず出さなければいけないものがある。事務所の菓子箱からソレを取り出して、序でにココアを用意してゆかりのもとに持っていく。律儀にも、ゆかりは机の横で後ろ手に腕を組んで待っていた。
「はい、ボン・モダンのチョコレート。今日は特製のココア付きだよ」
雑然とした事務所に花が咲く。
ゆかりはチョコレートが大好きなのだ。
「ありがとう!」
ゆかりは専用の脚の高い椅子で、僕は革張りの黒い椅子に座りながら、二人で並んで、笑い合いながら、僕らは少し苦いチョコレートを飲み下した。
○
「所長、起きてください」
凛とした声が僕の鼓膜を滑った。
肩を小さく揺さぶられ、そのごとに頭から眠気が飛んでいく。
顔を上げ瞼を開くと、僕の横に片柳さくらが立っていた。
「またお酒を呑んだのですか。強くないのですから程ほどにしてください」
「…あ、あぁごめんなさい」
「まだ仕事は残っていますよ」
片柳は手に持っていたバインダーケースから二三枚の書類を取り出す。見ると、そこには顔写真とその人物の簡単な素性が印刷されていた。時折書き込まれた赤ペンによる注釈は片柳によるものだろう。
「今日は3人の“所有者”に会ってもらいます。最初の一人である“山中公子”との約束の時間まであまり余裕がありません。早急に準備を」
片柳は秘書という役職らしく、いつもきびきびしている。時に過剰にさえ思える彼女の生真面目さは、しかしながら僕のだらしなさをカバーする上で必要なものだ。
特に今日の仕事は彼女なしにはやり遂げられないだろう。
「片柳さん」
「なんです?」
「子供を持ったことはありますか」
「生憎と。私はその機会を得ることは叶いませんでした」
彼女は断定した。
片柳は小柄な女性だ。その体躯らしく顔もどちらかと言えば童顔で、今年で齢30を越えるとはとても思えない容姿だ。
彼女はその年齢で、既に多くのものを諦めてしまったらしい。いや、諦めざるを得なかったといった方が正しいか。
その中には「子供」も含まれるようだ。
「なにか?」
片柳はいつも通りの冷たさで僕を見た。
察しの悪さは僕の欠点のうちの1つだ。
「いえ…。すいません。もう出ましょう」
片柳は既に事務所の前に車をまわしていた。
当然ながら酒気はまだ抜けきれず、今回の運転は高柳に任せることにした。
○
鼻唄は軽やかに。
市原ゆかりは楽しそうにメロディーを紡ぐ。今日はちょっと疲れたと、そう言って寝っ転がると、家から持ってきたクレヨンとスケッチブックでお絵描きを始めた。そのうち鼻唄を唄い始め、時にパタパタと脚で床を叩いている。
「所長、お茶です」
片柳は二つのお茶を用意していた。
1つは僕のデスクの上に、もう1つはその脇で寝そべっているゆかりの元へ。
「どうぞ」
片柳はそっとお茶を置いた。
けれど、ゆかりは電気が走ったように身体を震わせた。ゆかりは片柳くらいの歳の女性が苦手らしい。その反応に片柳は傷ついた風でもなく、いつも通りのクールさを保ったまま炊事場に消えていった。
「市原さん。まだ、女性は苦手かい?」
無言のまま頭だけふる。いつのまにか鼻唄も止んでいた。
「琴音さんが良い人だってことは知ってるの。けど…」
まただ。震えている。
それは無意識の反応というより、経験上の危機回避のようなもの。かつてナイフで刺傷を受けたことのある人間が先端恐怖症に陥るように、ゆかりは大人の女性を避けた。
「…今日は少しお話をしようか」
そう言って僕は、戸棚から菓子類を取り出してゆかりの元に座った。
数分後。俯いていたゆかりがボン・モダンのチョコレートに手を出した。
○
「“不要”の子供を処理してほしい」
その男は簡潔にそう言った。
“不要”。
今この世界で、恐らくは最も不吉な意味を持った言葉。突如として覚醒するその症状に現代の化学は対抗策すら作れていない。
男は4枚の書類を渡してきた。書類にはそれぞれ顔写真が載っている。1枚目には幼い少女が暗い表情で写っていた。
市原ゆかり。
9歳。名門“一乃原”家の分家“市原”の一人娘。
趣味や習い事、父母の事業、交遊関係。
市原ゆかりが辿った軌跡が淡々と書かれ、最後に“発症”とあった。時期は5歳とある。
「…5歳?発症から4年も放っておいたのか?」
言って、彼らの名字を思い出した。
市原。引いては一乃原は国内の研究機関に莫大な資金援助をしている。それは遥か昔から続く科学者の由緒からだそうだ。彼らはその血脈らしく自前の研究施設も持ち合わせており、その研究成果は数ある関係機関の中でも群を抜いているらしい。
「市原ゆかりの両親、聡子と理将は優秀な研究者だった。娘の症状が発覚したその日から彼らは治療の研究に躍起になっていたらしい」
「“らしい”?」
「“不要”の弊害は御存じだろう。覚醒者だけでなく、本人から直接“記憶”を得たものは発症率が格段に上がる。市原夫妻は極秘理に研究を進めたんだ」
間をあけるように男は茶を啜った。
「だが、研究の資料を見る限り、大した成果は上げられなかったようだ。それでも夫妻は研究を続け、今日より三ヶ月前に…」
「忽然と姿を“消した”」
茶碗を持つ手が震える。男が見せた初めての動揺だった。
「…なあ、アンタたちにはあれが何か分かっているのか?」
男の顔には大粒の汗が浮かんでいる。
僕は彼の焦燥を横に、菓子置きの中からチョコレートを選り分けていった。
「さあな。少なくとも、僕達にはキミらが持っていない“対抗策”とやらを有しているよ」
「なら早く、早くアイツを…!」
「待て」
選り分けたチョコレートは5つあった。その内の3つを男に渡す。
そして、右手を男に向けた。
「な、なにを」
「“奪え”」
○
「最初はね、新しい遊びだと思ったの。今まで入れてくれなかった“仕事場”に私を連れていってね、誰もいない、機械がチカチカしている部屋でおじさんとおばさんとお話しするの」
「お話が終わると今度は積み木遊び。お城とか水門とかを作ったり…。私は積み木遊びが大好きでね、その時は赤い三角の積木がお気に入りだった。でもね、いつの間にかその積木が無くなってたの。あれっ、て思って隣にいたおばさんの方を見ると、何だかとっても悲しそうな顔をしてて…。その後私を抱き締めて何度も何度も“大丈夫”って言ってくれた」
「それから幾つか遊びを変えて…でも、何日かすると必ず消えている物があるの。不思議だったけど、その度におばさんが抱き締めてくれたから悲しくはなかったな」
○
“その日”は、彼女の誕生日に起こった。
その頃市原夫妻の研究は多忙を極め、娘に会えたのは一ヶ月ぶりの事だった。
それだけに誕生会は盛大なものになった。
母親は3人では食べきれないほど沢山の料理を作った。これでもかこれでもかと出てくる気合いの入った料理に、最後は笑うしかないとばかりに笑い飛ばしながら食べ尽くした。
父親は大きな熊のぬいぐるみをプレゼントした。そのぬいぐるみは市原ゆかりが“仕事場”に入る前にいたく欲しがっていたものだった。
幸福が次の幸福を呼び、やまない笑顔がまた幸福を呼んだ。
市原ゆかりは幸せだった。例え外の世界が見れなくても、彼女は両親が大好きだった。心に貯まった感情が溢れて笑顔になり、次に言葉になる。ゆかりは母親に抱きつき、言った。
「お母様、大好き」
○
「気付いたら目の前が真っ赤になってた。鉄棒と魚の匂いをぐちゃぐちゃにしたような変な匂いがした。それで、その時から、おじさんとおばさんには会ってない」
好きになったものを“隔離”する力。
世の中を“要”と“不要”とに分け、“要”とするものを身勝手な天国に送る能力。
けども、完璧に使いこなすには知識と経験が居る。まだ5歳になったばかりの子供には「身体に流れる血」まで意識に捉えることは出来なかったのだ。
「ねえ、安堂。毎日食事をするのって大変ね。私、お腹が空けば食事をするものだと思っていたけど、違ったわ。好きな人の笑顔が見たいから物を、いのちを食べられたの」
ゆかりは顔を歪めた。
自らの親を殺めた少女が生きていくには、彼女は少し聡すぎた。
「…安堂、死ぬのって怖い?」
僕はゆっくりと頭をふった。
「そう…。うぅ、何だかとっても眠い。安堂のチョコレートって美味しいけど、眠くなるのは嫌い」
言いながら彼女はゆっくりと頭を垂れていく。
そして、瞳を閉じた頭を組んだ腕の中に納めた。
「また、夢の中で会えるかな…」
「会えるよ」
そうして市原ゆかりは眠りについた。
○
そこはただ真っ白く、何もない“実験室”だった。
だが今はぬいぐるみや積木や、その他にも沢山の玩具で溢れている。
「…ここが彼女にとっての天国だったのね」
証明に照らされた玩具たちは極彩色に光っていた。煌びやかに、可愛く、美しく。
無機質な部屋の中で唯一、女の子らしさを光らせている。
「所長、周辺の“儀”は済ませました。あとは所長の一手と…」
片柳は僕の腕に抱かれている少女を見やる。
市原ゆかりは静かに、昏々と、眠りについていた。
「この子をあそこに送るだけですね」
玩具の頂きを優しく登っていく。彼女が深く思ったモノたちを僕は敢えて踏んで行った。
頂きに着く。
そこには、当然というべきか、二人の人間が横たわっていた。
「君は本当に深く、両親を想っていたんだね」
玩具で埋もれた人間の間に市原ゆかりをそっと下ろす。
「またね」
〇
がちゃり、と事務所のドアが開いた。
外から風がやってきて片柳琴音の髪を浚っていく。
風はそのまま部屋を巡り、手元の書類を撫でていった。
「所長、今日はお酒は呑まないのですか?」
「うん。もうチョコレートを食べてしまった」
風は開いた窓から抜けていく。
翻ったカーテンの向こうにひまわりのような太陽が浮かんでいた。
(了)