空瓶事件 04 九月九日 月曜日
「み、も、た、ろ、う。はい!」
神森未守さんの幼いソプラノの声が響く。
アオヰコーポ二〇三号室のリビングで、僕はこの部屋の住人の神森さんに正座させられている。そして彼女自身も僕の正面で正座している。
三週間ほど前、普通の高校生をやっていた僕は姉、或江麦子に連れられこの部屋にやってきた。そして姉の言いつけに従いこの神森さんの相談屋の活動を手伝った。その結果、神森さんに認められ、彼女の『こいびと』になった。といっても世間一般の恋人とは違う。簡単に言うとひきこもりの神森さんの世話と相談屋の助手である。姉に逆らう事ができない僕はそれを受け入れた。それから一週間後、姉は無事にオランダへと旅立った。
晴れて神森さんの助手になった僕を待っていたのは相談屋の事件に追われる日々ではなく、神森さんの食事の世話であった。夏休みが終わって学校が始まってもそれは変わらず、今日も授業を一通り受けた後、帰りにこの部屋に食事を作りに来たのである。僕はもともと部活動には入っていなかったので必然的にこの部屋に来るのが部活動のようになっている。
食事を終えた後、神森さんはなぜかこうして僕を正座させ、自分も正座したのである。そしてこれである。
「み、も、た、ろ、う。はい!」
僕は目の前の金髪碧眼の美女を見つめる。
初めて会った日とあまり大差のない縦縞のワイシャツに黒のホットパンツ姿の彼女は平らな胸のおかげで相変わらず色気はない。西洋の香りが漂いそうな顔つきに白い肌、絹のような頬。整っているというか、美しさと可愛らしさが同居している顔だ。そんな彼女の長いハニーブロンドの髪は蛍光灯の光を反射してキラキラと輝いている。そして僕を見つめる瞳は空や海のようにどこまでも碧い。
だけど、そんな見た目を吹き飛ばすかのような中身なのがこの神森未守という人である。
何でも分かってしまう不思議な力を持っているというだけですでに何かがおかしいのだけれど、何より見た目に反して、幼かったり意味不明だったりする行動と言動が多いのである。この正座で対面しているという今の状況がまさにそうだ。そんな彼女に対する僕の感想は初めて会った日から変わっていない。
「神森さん、あなたは相変わらず意味不明ですね」
「違う違う! みもたろうだよ」
「はい?」
「み、も、た、ろ、う。はい!」
「はい?」
「ワシはみもたろう。あるじろうはあるじろ。りょぷかいですか?」
「え? みもたろうさんと呼べばいいんですか?」
「あるじろ、ワシたちはこいびとなんだよ?」
「下の名前で呼んでほしいと」
「そうだよ! あたりまえじゃん!」
「でも、神森さんは僕の事、下の名前で呼んでないじゃないですか」
「それはーそれー。これはこれー」
「やっぱり意味が分からないんですけど」
僕がそう返すと神森さんはくるっと後ろを向き、床に転がっている大量のぬいぐるみの中からお気に入りのやつを引っ張り出す。
「かんぞう! 今日は新しい家族を紹介ずるでござるよー」
「神森さん」
呼びかけを無視して神森さんはリビングの隣にある寝室へ行き、さっき食事中に届いた段ボール箱を持って戻ってくると『かんぞう』の前にその箱を置く。
「じゃじゃじゃーん! じんぞうです!」
「それじゃただの段ボールですよ」
「あ、今出してあげるからね! じんぞう!」
そう言って神森さんは勢いよく箱のテープをはがし、中に入っていたクマのぬいぐるみを取り出す。
「じゃーん! じんぞうだよ!」
「神森さん、さっきの話なんですけど」
「ワシはみもだよー。ね、じんぞう? 『そうでござるー』」
ぬいぐるみにまで苗字呼びを否定されてしまった。まあ、単に年上だからというのと知り合って間もないという理由から苗字にさん付けで呼んでいるだけなので、変えろと言われれば簡単に変えられるのだけれど、彼女の理屈は理解できない。やっぱり意味不明である。
「神も……みも――」
僕が神森さんを未守さんと呼ぼうとした瞬間、玄関のドアが開くのと同時にパタパタと軽い足音が近づいてきた。
「外国のお姉ちゃんいるー?」
ツインテールの小学生、なみきゆずかちゃんである。学校帰りなのか赤いランドセルを背負っている。けれど、時間的におかしい。普通の高校生である僕が授業を終えて、このアパートで神森さんの食事を作り、食べさせた後なので、小学生の下校時刻はとっくに過ぎている。
神森さんの世話をするようになってから、ゆずかちゃんは何回か遊びに来ている。相談屋への依頼はあの夏の日以来ない。依頼が無くても来ているのだ。二学期が始まってからは帰りに来ていることもあったのでランドセル姿を見るのも今日が初めてではない。でもそういうときはいつも僕よりも先に来ていた。
よく見るとゆずかちゃんはどこか疲れており、着ている可愛らしいイラストがプリントされたTシャツも赤いスカートも少し汚れている。
「外国のお姉ちゃん、聞いてほしいことがあるんだけど」
「ワシはみもだよ」
「じゃあ、みもちゃん、聞いてほしいことがあるんだけど」
「はいはい! なに? なに?」
僕が越えることができなかったハードルを簡単に越えてしまうゆずかちゃん。さすが小学生の脳は柔軟である。いや、僕だってすぐに呼び方を変えるくらい簡単にできる。ただ、今回はタイミングを逃してしまったし、またの機会でいいだろう。
「ゆずかちゃん、何か飲む?」
「あ、じゃあジュースちょうだい」
「わかった。神森さんも飲みます?」
「……あるじろう」
神森さんは呆れたようにため息をつく。
「なんですか?」
「もういいよ、ワシはオレンジね」
「わかりました」
僕はジュースを入れに台所へと向かった。




