花嫁事件 05
大きなお屋敷の裏側、そこにはいくつかの建物が建っていた。どれもお屋敷ほど大きくはないものの、どれも大正ロマンを感じさせる佇まいである。その間の中庭に、プールがある。長方形のプールと円形のプール、そして広いプールサイドにはパラソルやデッキチェアがいくつか並べてある。
小夏さんに案内されてここに着くなり、神森さんは「じゅばばばばばばばー」と言いながら長方形のプールの方へ走っていき、クロールで泳ぎ始めた。
「では、私は飲み物を準備してまいります」
「よろしくお願いします」
小夏さんにそう言った後、僕は神森さんが見える位置にあるデッキチェアに座る。しばらく神森さんを見ていると、中庭に一人の男性がやってきた。船に一緒に乗っていた筋肉質の人である。船にいたときとは違い、当然、水着姿だ。男の僕から見ても、いい体である。程よく焼けたそれはたくましいほど筋肉がついており、まるで格闘家のようである。
一方、僕の体はそれほどたくましくない。姉から格闘技を教わっていたので、引き締まっているものの、目の前の男性ほどではない。そして、僕の胸には傷がある。銃で撃たれた時の傷である。傷というか手術跡だけれど。
嘘みたいだ。一ヶ月半前に白の狂犬と死闘を繰り広げたというのに、人里離れたこの孤島で神森さんと平和に過ごしているなんて。
「あら、船にいた少年じゃない」
僕に気付いた男性が声をかけてきた。僕は初めましての挨拶と、自分が黒の探偵の助手であることを伝えた。
「アタシは菓子職人の金永光哲よ、ヨロシク」
そう言って金永さんは僕の隣のデッキチェアに座った。
「何かスポーツでもされてるんですか?」
「アタシ、元々は格闘家だったのよ。で、遠征に出かけたフランスで師匠のケーキを食べたわけ、もうね、素晴らしくて、コレだわ! ってなったわけよ。そう思ったら格闘家なんてやってらんなくなって、その日のうちに弟子入りしたってわけよ。体を鍛えるのはもう日課だから今でもこんな体してるけどねえ」
格闘家みたいな見た目だとは思ったけれど、本当にそうだったとは。というか、このいかつい見た目に反しての職業に驚きを隠せないが、もっと驚いたのはオネエキャラだったということである。いろいろとインパクトがありすぎる。
「……。金永さんも、黒の探偵みたいな呼び名があるんですか?」
「黄金の菓子職人なんて呼ばれてるわね。修業は厳しかったけど、今ではヨーロッパに十二店舗、日本に五店舗、アタシがプロデュースしたお店があるわ」
やっぱり普通にすごい人だった。さすが、玉虫の会に呼ばれるだけある。
「アナタ、イイ体してるわねー。もう少し大人だったら、んーん、アタシがもう少し若かったら確実に狙ってたわよ。その胸の傷もステキ」
「ありがとうございます」
「まあ、どっちにしてもアタシはキョウちゃん一筋なんだけど」
「それって明日奈さんの旦那さんの?」
「そうよー、二年前の玉虫の会でキョウちゃんに会った時からアタシはキョウちゃん一筋なの。もちろん、その時にはもう明日奈ちゃんと婚約してたわけだけど。でも、そんなの関係ないわ、そういうところも含めてキョウちゃんは素敵なんですもの」
「そういうところ?」
「キョウちゃんは婿養子なのよ」
「そういえば、そうですね」
明日奈さんは名家、小鳥遊家の次期当主なのだから当然である。挨拶した際も今日介さんは小鳥遊姓を名乗っていた。
「キョウちゃんは元々、貧しい家庭で育ったらしいんだけど、地位と財産を手に入れるために会社でのし上がって、小鳥遊家に見合う人間になったのよ。すごいと思わない? しびれちゃうわ」
「それはすごいですね」
そうとしか答えることができなかった。それではまるで、今日介さんが明日奈さんを地位と財産のための道具のようにしか思っていないみたいではないか。一回しか会っていないとはいえ、二人は幸せそうな夫婦に見えた。いくら名家で政略結婚が当たり前の世界だとしても、なんだか悲しい気持ちになった。
「だから、アタシがキョウちゃんの心の結婚相手になってあげようって思ってるわけ」
「頑張ってください」
「ありがとう。あら、黒の探偵がこっち見てるわよ。少年も泳いできたら?」
そう言われてプールの方を見ると、神森さんがプールの中からこちらを見つめている。
「……そうします」
金永さんのもとから、プールで待つ神森さんの方へやってくると「ある! ここまで来て!」と言われたので、僕もプールの中へ入り、神森さんの隣に並ぶ。
「ほら、あそこ!」
神森さんが指さす先にはお洒落な小屋があった。そこの二階の窓を指さしている。よく見ると中から色部さんがこちらを見ていた。どうやらこの建物は色部さんが言っていたアトリエの小屋らしい。
「虹色のがかさああああん」
神森さんが叫ぶと、色部さんは窓を開け、微笑んだ。
しばらくして、小屋から出てきた色部さんがプールの中に入ってきた。
「私もちょうど泳ぎたい気分だったから」
そう言いながら近づいてきた色部さんは、スクール水着を着ている。三つ編みに眼鏡、スクール水着。まさに委員長の中の委員長といったいでたちである。僕のクラスの委員長だとしても何の問題もない。まあ、僕は自分のクラスの委員長の顔も名前も覚えていないのだけれど。
「本当に三十歳なんですか?」
「こ、これはあれだよ。前にモデルを頼んだ子が置いていったやつで……」
「思いっきり胸に三年五組色部って書いてありますけど」
「水着これしか持ってないのよ! 悪い?」
色部さんの顔は真っ赤だ。よく見ると、色部さんの左手首には無数の傷跡がある。いわゆる、リストカットというやつだ。船では長袖だったので、気づかなかったけれど、こうして水着姿だとかなり目立つ。虹色の画家なんてもてはやされていても、芸術とは自分との闘いだ。きっと色部さんも自分と向き合い、苦労してきたのだろう。
「虹色の画家さん! 一緒に泳ぐでござるよ! ていやっ」
泳ぐと言いながら色部さんの顔に水をかける神森さん。
「きゃ! 仕返し!」
突如、神森さんと色部さんとの水のかけ合いが始まった。楽しそうで何よりである。とりあえず僕はプールサイドに引き返すことにする。
「或江様、飲み物の準備ができました」
小夏さんがパラソルの下でビーチボールを持って立っていた。
「まさか、飲み物ってそれじゃないですよね?」
「これは……もしよろしければと思い、倉庫から持ってきました」
「ありがとうございます」
そういいながら僕はビーチボールを受け取り、神森さんめがけて投げる。
「いてっ! あ! ある、やったな! ばいがえしだ!」
神森さんがプールサイドにいる僕めがけて投げ返してくる。僕はそれをなんとかキャッチする。
「みんなでビーチバレーやりませんか?」
「おお! あるはいいことを言うなあ! やろ、やろ」
神森さんが飛び跳ねる横で、色部さんも笑顔で頷いている。
「あら、楽しそうじゃない。アタシも混ぜてくれる?」
デッキチェアから金永さんもやってきた。
というわけで、僕らは四人でビーチバレーならぬプールバレーをすることになった。
明日奈さんの結婚がたとえ、今日介さんによる財産や地位が目的の策略だったとしても、僕らは彼らに感謝しなければならない。先月、白の狂犬と死闘を繰り広げたばかりの僕らが、何もなかったかのように、こうして人里離れた孤島で楽しく遊ぶ機会をくれたのだから。




