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花嫁事件 01 八月二十日 水曜日

「うーみーは、ひろいーなーおーきーなー」


 神森かみもりさんの少し幼さが残るソプラノが、潮風に混ざって波の音と一緒に消えていく。白い砂浜を楽しそうに、両手を広げて歩きながら歌う神森さん。僕はそんな彼女の後ろを、少し砂に足を取られながらゆっくりとついていく。潮風が顔に当たって気持ちがいい。


 青い海に白い砂浜、青い空に白い雲。まさに夏を象徴するかのような景色を歩く神森さんは、いつも通りの服装である。白いワイシャツに黒のホットパンツ、といってもいつものようにワイシャツの下に何も着ていないわけではない。本人は嫌がったが、外出するのには不適切なので、黒のタンクトップをむりやり着せた。今までも神森さんはワイシャツの下に何も着ず外出していたのに、そんなことにも気づかなかった自分が恥ずかしい。そして、履いていたミュールは今、彼女の両手の先にある。波打ち際をよたよたと歩く彼女の白い足首に、何度も波が当たり、彼女の足跡を消してゆく。


 夏だというのに海水浴を楽しんでいる人はいない。というか僕ら以外に人はいない。それはもう海水浴のシーズンが終わっているということと、この浜辺が、有名な海水浴場と温泉地からは離れた場所だからだろう。もし海水浴目的なら、ここほどの穴場はない。


「つーきーが、のぼるーしー、あ! ねえ、見て!」


 ショートカットの金髪を揺らしながら、振り返る神森さん。ミュールで指し示す方を見てみると、小さな船着き場に小さな船がとまっているのが見えた。とりあえず道は間違っていなかったらしい。道といっても、神森さんの要望で朝日あさひがうらの駅からまっすぐ浜辺を目指し、そのまま砂浜を歩いてきただけなので道というか砂浜というか。とにかく、あの船着き場が、僕らのとりあえずの目的地であることは間違いない。僕は神森さんと自分の着替えが入ったバックパックを背負い直し、神森さんについていく。


 さて、ここで整理をしておこう。つい数日前まで病院のベッドで寝ていた僕がどうして神森さんと海に来ているのか。もちろんバカンスではない。だったら神森さんは水着でもっとはしゃいでいるだろうし、僕もわざわざ大きな荷物を持って砂浜には来ない。そもそも、ここ朝日ヶ浦は温泉地としても有名なので、海ではなく温泉に入りたいところである。では何をしに来たのか。もちろん答えは仕事である。そう、仕事。これは黒の探偵の仕事、依頼人に会いに行く途中なのだ。


 さかのぼること数日前、僕は神森さんに再会し、記憶と感情を取り戻した。そしてその翌日には退院することとなった。そこまではよかったのだが、迎えに来た両親に神森さんはとんでもないものを渡したのである。それは契約書。簡単に言うと、黒の探偵の助手として僕を雇いたいというものだった。けれど、単に助手というわけではなくて、神森さんの家に一緒に住んで仕事をし、最終的には高校卒業後に神森さんと結婚する。というところまで含まれているものだったのである。


 さすがにあれだけの事件に巻き込まれ、しかも、巻き込んだ張本人とこれからも危ない橋を渡っていくという契約を両親が認めるはずなどないと思ったのだが、僕の両親はあっさりと契約書にサインをしてしまった。息子である僕のことを何とも思っていないからあっさりと、というわけではない。どうやら僕が入院している間、同じく入院している姉が両親に今までのこと、神森さんにまつわること、姉が高校時代から助手をしていたこと、それを僕が引き継いだこと、僕と神森さんは不思議な縁で繋がっており、お互い愛し合っているということ、その全てを話し、僕が神森さんの助手に戻ることを見越して説得していてくれたのである。あまりにもとんとん拍子に話が進んでしまったけれど、僕は愛する人の隣にこれからもいられる。しかも親公認で。その事実がただ嬉しかった。


 そして、そのまま僕は病院から神森さんの家、アオイヰコーポに引っ越した。正式に黒の探偵の、助手兼婚約者としての同棲生活がスタートしたのである。


 そんな僕を待っていたのは、親が車で運んできた僕の荷物(段ボール二箱)の整理ではなく、依頼だった。正確には招待である。

 僕らが住む河部市からずっと北に行った先にある珊瑚さんご半島、県の最北端に位置し、日本海に面するこの半島には温泉街や大きな漁港、国内屈指の絶景スポットなどが点在しており、そこそこ有名な場所である。そんな半島の小さな温泉地、それが朝日ヶ浦である。といっても、同じ半島に有名で大きな温泉街があるので、あまり知られていない隠れた名所みたいな感じだ。そこから船で四十分ほど進んだ先に小さな島が浮かんでいる。

 その島をまるごと別荘として所有している一人の女性が、黒の探偵宛に招待状を送ってきたのである。なんでも屋敷で行う結婚式に出席してほしいのだとか、なぜ黒の探偵が結婚式に呼ばれなくてはならないのか、それを説明するには招待した人物について考えなくてはならないので今はおいておこう。とにかくそれが、神森さんが黒の探偵の活動を再開して最初の依頼だったのである。


 というわけで、僕は引っ越しの荷物を整理する暇もなく、電車で三時間もかけて珊瑚半島の温泉地、朝日ヶ浦までやってきて、招待された島へと向かう船を目指して、この浜辺を神森さんとゆっくりゆらゆら歩いているのである。


「ある、はやくいこうよー」


 そう言いながら碧い瞳で僕を見つめる神森さん。


 神森さんは僕が正式に助手になってから、僕のことを『ある』と呼ぶようになった。これは僕が神森さんの元助手である僕の姉、麦子の弟というポジションからちゃんとした恋人になったということである。なぜそんなことが言えるのかというと、姉は『あるたろう』で、僕は『あるじろう』と呼ばれていたからだ。ちなみに、僕はいまだに目の前の恋人を神森さんと呼んでいる。いつか呼び方を変えたいとは思っているものの、なかなか変えられないでいる。

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