縦笛事件 06
会瀬川河川敷公園。八月のうだる暑さの中、先ほど姉と通った道を一人で引き返す僕。姉と歩いていたときにはこんなことになるなんて全く想像していなかった。
怒涛の展開である。整理しよう。僕は今日夏休みを寝て過ごしていた。そこに、もうすぐ留学する姉がやってきて、愛しい人である神森さんのもとに連れていかれ適当に紹介されたと思ったら姉は帰ってしまった。姉曰く、その神森さんは相談屋をやっていて、姉はその助手をしていた。そして今回の依頼、猫さがし。
こうやって整理すると、わからなくもない展開なのかもしれないのだが、問題は神森さんである。人の話は聞かないしマイペースな上に会話が成立しない。あんな意味不明で適当な人に頼んだ猫の飼い主の気がしれない。
しかし姉曰く、神森さんは外に出なくても猫の居場所がわかるという。
つくづくとんでもない展開である。まさに不思議な力。
確かに神森さんは不思議な人ではある。だからといって、不思議な力があるとは到底思えない。そもそもそんな力が実在するなんて話を聞いたことがない。
そして本題である。猫の居場所を聞いた僕に彼女はこう言った。
『悲しくて苦しくておいしい場所』
どこだろう。単純にそう思ってしまう表現だ。さっぱりわからない。
どこのことなのか尋ねても、彼女はネットショッピングに夢中で全く相手にされず、仕方なく外に出てきたというわけである。
「そういえば……」
渡された縦笛を見つめる。茶色。まさに小学生が持っていそうな代物。
笛を吹いておびき寄せろということなのだろうか?
「ぴーひゃらー」
八月の青空に間抜けな笛の音が響き渡る。
グラウンドでは相も変わらず小学生たちがスポーツに励んでいる。その横を、縦笛を吹きながら歩く高校生。なんともシュールな光景である。
よし、探索開始だ。僕は縦笛を吹きながら歩き出す。
「ぴーひゃららー」
『悲しくて苦しくておいしい場所』というのは猫にとって、という事なのだろうか。もしそうならば早く助けてあげなくてはならない。しかし、おいしい。というのが妙である。
悲しくて苦しいだけなら、どこかに閉じ込められているとか、溝にはまっているとか、なんとなく推測はできるのだけれど。
「ぴーひゃららららー」
おしいい場所か。たとえ苦しくて悲しくても、おいしいのならそこまで急ぐ必要はないのかもしれないな。苦しくても悲しくても腹が満たされるのならばそれはそれで良い気がする。猫だって人間と同じ生き物だ。食べるために生きているようなのもなのだから。
「ちょっと坊や」
「ぴひゃららー」
「坊や、笛吹きの坊や」
後ろから声をかけられ、振り向くとそこには猫が。なんと、笛を吹くことで猫をおびき寄せ、しかも話しかけられたのだ。なんとも不思議な展開である。
とか、だったらよかったのだが、そこにいたのは猫ではなく、お婆さん。
普通に人間の方でした。白髪に腰の曲がったそのお婆さんは僕をじっと見つめ、額に汗を滴らせ、困ったような顔をしている。
「坊や、助けておくれ」
よく見るとおばあさんの右足が側溝に埋まっていた。側溝の蓋である金属の格子の間に挟まっている。買い物帰りなのか両手には、大きく膨れたスーパーの袋、足を抜こうにも荷物のせいで動けないようだ。足を動かせば重心が崩れ袋の中身が溢れてしまう。しかしこのままでは炎天下の中ずっと立ち往生。
『苦しそう』である。
「かしてください」
そう声をかけ、僕はお婆さんに近づき荷物を受け取り、近くにあったベンチに荷物をそっと置いて、ついでに邪魔な縦笛も置いて戻ってくる。
お婆さんはなんとか自力で足を抜こうとしているが、うまくいっていないようだった。
「じっとしていてください」
仕方がない。一度側溝の蓋ごと外してしまうしかなさそうだ。
そう思い、しゃがんで側溝の蓋に手をかけ、外す。金属でできているそれの重さが良くわからなかったので、力加減がわからず勢いよく外れてしまった。勢いよく転げるお婆さん。そのときにお婆さんのスカートの中が見えた。白だった。
なんとも『おいしい』展開である。
これがお婆さんでなければの話だけれど。
これは『悲しい』状況である。
どうしてお婆さんのパンチラなど見なくてはならないのか。
苦しくて悲しくておいしい。とはこのことだったのか。つまりここに猫が……。そんな訳がない。とりあえず謝らなくては。
「すみません」
「いいのよ。おかげで足が抜けたんだから」
そう言って笑うお婆さん。
優しい人だ。下着を見ておきながら『悲しい』などと考えてしまった自分が恥ずかしい。
お婆さんはそのまま荷物が置いてあるベンチに腰掛ける。
僕も笛を取ろうとベンチに近づく。
「ありがとうね」
「いえいえ。たいしたことではありませんから。それにすみませんでした」
「だからいいのよ。おかげで助かった。お礼をしたいところだけどねえ……」
「いいですよ、お礼なんて」
すでに下着を見てしまっているので。とはさすがに言えない。
「今時珍しいねえ、笛吹きなんて。昔のあの人にそっくりだわ」
「あの人、というのは?」
「夫よ。先に旅立ってしまったんだけどねえ」
「そうですか。すみません」
「坊やは良く謝るねえ」
「いえ、立ち入ったことを訊いてしまったので」
「確かに先に逝かれた時は毎晩枕を濡らしもしたけどねえ。けれど今ではそうでもない。墓のお供え物を見て、お腹がすいてくるくらいだからねえ」
「あはははは」と豪快に笑うお婆さん。なんとも清々しい。
その口ぶりだと、旦那さんが亡くなったのは随分前のことなのかもしれない。
「あの人はいつも笛を吹いていてねえ。そんな彼の横顔と笛の音色に惚れたのが、運のつきだったねえ。あの人が笛の音色で引き寄せるあれこれに、よく振り回されたものよ」
「それは大変ですね」
「でもねえ、こんなこと坊やに言うことではないのだけれど、そんなあの人の音色に私も子供たちもベタ惚れだったのよ。……案外あっさりと、ぽっくり逝っちゃったのだけどねえ」
「そうですか」
「あの子にも笛の音を聞かせてやりたかったのだけれどねえ」
「……はい」
「坊やはほんとあの人に似ている。ぽっくりはダメだからねえ。愛しい人が悲しむよ」
「気を付けます」
長居は禁物である。そう僕の知識が告げた。
このままでは旦那さんのお話を長々と語りそうな空気を漂わすお婆さん。いつまでも聞いていたいような気もするけれど、今の僕にはやらなくてはいけないことがあるのである。決してお婆さんの長話が面倒くさいわけではないのだ。お婆さんには悪いけれど、この辺で立ち去ることにしよう。
「では、僕はこれで」
「どこへいくかは知らないけど、気を付けるんだよ。いつだって笛の音は連れ去っていくからねぇ。良いものも悪いものも」