再会事件 01 八月一日 金曜日
「あるさん、今日はどうさ?」
僕しかいない真っ白な部屋に入ってくるなり、茶古先生は僕に質問を投げかけてきた。これは毎日のことで最早挨拶のようになっているのだけれど、一応医者として僕の調子を確認しておきたいそうだ。なので、僕はベッドの上で正直にいつも通りの回答をする。
「まずまずですかね」
「あるさん、戻ってきたね」
「そうなんでしょうか?」
「そうだよ。初めの頃はもっと正直に答えてくれてたさ」
「僕はそんなに適当な人間だったんですか?」
「自分の胸に訊いてみな」
そう言って茶古先生はベッドの横の小さな椅子に腰かける。
静原茶古。今僕が入院している河部大学付属病院の精神科医だ。一応はお医者さんなのだけれど、彼女は白衣を着ていない。というか着ているところを見た事がない。深緑のカーゴパンツに茶色のブーツ。髪は頭の後ろで一つに結んだポニーテール。白衣の代りのつもりなのか、黒のタンクトップの上から白いシャツを羽織っている。医者と言うよりは軍人に近い装束である。けれど、茶色のフレームのメガネが彼女が肉体派ではなくて頭脳派であることを証明している。これでもこの地域では有名な精神科医らしく、入院中の僕はこの一カ月、彼女のカウンセリングを毎日受けてきた。
一カ月ほど前、僕は銃弾に倒れ、意識不明の状態でこの病院に運ばれてきた。傷の手当てが済み、意識を取り戻した僕は何もわからなくなっていた。記憶も感情も全てを失くしていたのだ。今回の傷は脳に直接的なダメージがあったわけではないのだけれど、精神的なショックから七年前の状態まで退行してしまったらしい。
なぜ、七年前まで退行すると何もわからない状態になってしまうのか。それは僕こと或江米太が七年前に全てを失っているからだ。
河部ハーメルン。今ではそう呼ばれている拉致監禁事件に巻き込まれ、当時十歳だった僕は記憶と感情を失くしてしまった。その後、僕は感情を失くした分らず屋として生きてきた。感情を取り戻すのではなく知識として理解し、普通の人間のフリをして生きてきたのである。
先月目覚めて以来、僕は茶古先生のカウンセリングを受けることで、少しずつ、いろいろなことを取り戻していった。結果、退行状態から回復し、河部ハーメルン以降の分らず屋に戻ったのである。といっても、もともと何もない所に知識を詰め込んだ状態が僕なので、もう一度知識を詰め込めば簡単に元に戻ることができる。今回は二度目なのである程度茶古先生に説明されると、僕は次々と分らず屋としての記憶を思い出していった。
しかし、それは一部を除いてである。今から一年前の夏、それ以降の記憶は思い出せなかった。河部ハーメルン以降、ごく平凡な生活を送っていたはずの僕が銃に撃たれるに至った経緯に関わる大事な部分らしく、さっぱり思い出せないでいた。
つまり今の僕は撃たれる直前の僕でもなければ七年前に退行してしまった僕でもない。一年前の夏、神森未守という人物に出会う直前の分らず屋な僕なのである。
「感情が伴っているからね、だから思い出せないんさ」
茶古先生はカーゴパンツのポケットを探りながら、そんなことを言う。
感情? 分らず屋の僕が? 今まで感情があるフリをして生きてきた僕が、空白の一年間で本当の感情を手に入れたという事のだろうか。だとすれば空白の一年間に関わっていると言う神森未守とはいったい何者なのだろうか?
なんてことを考えていると茶古先生はポケットから取り出した一冊のノートを僕に渡してきた。
僕は表紙に何も書いていないそのノートを受け取って、彼女を見つめる。
「これは何ですか?」
「河部市の相談屋、その活動記録」
「相談屋? 僕はそんなことをしていたんですか?」
「相談屋はみもちゃん、あるさんはその助手。で、それを書いていたんだよ。だからそれは、あるさんのノートさ」
茶古先生に渡されたノートを僕はパラパラとめくってみる。確かに一枚一枚、僕の字で相談されたことや関わった事件について書かれている。
……相談屋。神森未守はそんなことをしていたのか。そして僕が助手。それで銃弾に倒れた? 相談屋とはそんなに物騒な仕事だったのだろうか。
ちなみに、僕を撃った犯人はまだ捕まっていないらしい。
「七年前の私だったら、そのノートはあるさんが完全に記憶を取り戻してから渡してたんだろうね」
茶古先生は体を少し後ろに倒し、ポニーテールを揺らす。そして、病室の真っ白な天井を見上げる。
七年前、河部ハーメルン事件の後、僕が運び込まれたのもこの病院だった。当然のことながら当時も茶古先生はこの病院で精神科を担当していた。といってもまだ駆け出しの頃である。確か白衣もちゃんと着ていたと思う。
「記憶を無理にでも思い出させるのが最優先。……若かったわ。でも、その考えは間違ってた。私があるさんにしてあげなきゃいけないのは、思い出させることじゃなくて、教えてあげることだったんさ」
当時の茶古先生は僕に感情や記憶を取り戻させようと必死だったらしい。けれど、僕の姉、麦子は違った。無理に思い出させるのではなく、感情が欠落したまま知識を上書きしていったのだ。そんな姉のおかげで僕は普通に生活できるまでに回復した。感情があるフリをするだけの分らず屋の誕生である。
初めの頃、茶古先生は姉のやり方に猛反対したらしいのだけれど、成果が表れてくると姉に協力し、今の僕を作り上げる手助けをしてくれた。
そして、茶古先生は僕を回復させた功績により、結構出世したらしい。だから白衣を着ていなくても怒られないのかもしれない。
何にせよ、僕は回復した。それ以降は定期的にカウンセリングを設けて僕の精神状況をチェックしてくれていた。といっても年に数回程度だったのだけれど。
「思い出せない一年間を知識で埋めていく。あるさんにはそのやり方が一番合ってるよ」
「わかりました。でもどうして茶古先生がこれを?」
「ある人に託された」
「神森未守ですか? それとも姉ですか?」
ちなみに僕の姉も今、この病院に入院している。精神的異常はないものの、僕よりも重症だったらしく、まだ完全に回復していない。まあ、たまに車椅子でこの病室にやってくるくらいには回復しているのだけれど。
「誰だっていいでしょ。今は、それを読むのがあるさんの仕事だよ」
「……わかりました」
「それを読んで知るんだよ。あるさんが見つけた感情を」
そう言って茶古先生は包帯でまかれた僕の胸に拳を軽く当てる。ほぼ完治してるとはいえ、少し痛い。
「でも、無理はしちゃダメだからね。少しずつ読むんだよ」
茶古先生はそう言ってから立ち上がり、僕の病室を後にした。
静かになった病室で僕はノートを見つめる。
相談屋、神森未守と僕の空白の一年間がここに記されている。
今からこれを読み、思い出せない記憶を知識として頭に入れるのだ。
僕は深呼吸をしてから、ゆっくりとノートを開いた。




