七夕事件 13
僕がここまで来たのは神森さんを逃がす為だ。瓜丘さんの計画が失敗に終わったとき、彼女が神森さんを殺す可能性がゼロではなかったからである。それに僕らの作戦が成功するとも限らなかった。そして何より、僕は感情で歪む神森さんの顔を見たくなかった。
正直、神森さんを逃がした後のことは考えていなかった。僕は瓜丘さんと心中するくらいの覚悟でここまでやってきたのである。けれど、銃口を向けられるとは予想していなかった。いくら準備をしてきたといっても防弾ベストなんて着ているわけがないし、リュックは茂みの中だ。僕が今持っているのは縦笛と左腰のナイフだけである。
銃口を見ながらそんなことを考えていると、目の前に金色の髪が現れた。
神森さんだ。
「殺すならワシを殺せ!」
髪を揺らしながら、両手を広げ、神森さんは叫んでいた。
「神森……」
今まで一切動かなかった神森さんが突然目の前に現れ、瓜丘さんは驚いている。
「ワシが気持ち悪いなら、ワシが憎いなら、ワシを殺せ! あるじろうは関係ない!」
「……まるでこいつに情があるみたいじゃないか」
「あるじろは特別だもん」
「それならさっちゃんだって救えただろ! なんでこいつなんだよ!」
「約束したんだもん! 七年前の事件の後、また会うって、ずっと一緒にいるって約束したんだよ!」
僕が分らず屋になって最初の記憶。その一番古い記憶の中に、真っ黒な女の子との出会いがある。突然現れ、何もわからない僕に自分も同じだと告げ、去って行った女の子。ぼんやりと覚えていたので、あれが現実だったのか夢だったのか、今までわからなかった。それでも僕はあの日を境に分らず屋であることを受け入れ、ここまで生きてきた。
やはり、真っ黒な女の子は神森さんだった。なんとなくそんな気はしていたのだけれど、これではっきりした。僕と神森さんは七年前に会っている。そして、僕はあのとき約束をした。再会することと、一緒にいることを。
どうやら僕は気が付かないうちに、あの七年前の約束を果たしていたらしい。
瓜丘さんは意味が分からないのか、少し震え、涙を流しながら、銃口を神森さんに向けている。そんな彼女の後ろの茂みに、大きな影が見えた。血に汚れ、所々切り裂かれた服を着ているその人物は、朝見刑事である。どうやら彼は生きていたらしい。銃弾を受けたのか、右肩が大きく下がっている。それでも彼はなんとか立ち上がり、僕を見つめ、頷く。朝見刑事は瓜丘さんの隙を見て、彼女を捕まえるらしい。執念だ。そんなクマの末裔を神森さんも見たらしく、さらに瓜丘さんをあおる。
「ワシを早く殺せ!」
「か、神森いいいいいいいい!」
感情で滅茶苦茶になった瓜丘さんは引き金に指をかける。しかし、銃口は相変わらず震えたままである。
「好きな人は殺せませんよね」
「なんだと?」
「あなたは神森さんに感情を芽生えさせる為だけに、何人もの人を殺してきた。その目的の為に形振り構わず生きてきた。それはもう、愛ですよ。憎しみだけでそんなことはできません」
睨みつける瓜丘さんに僕は話を続ける。
「それに、好きな人が感情をわからない人間だと知ったとき、『何かしてあげたいって、どうにかしてあげたいって……思いました』」
「お前の話か?」
「違います。僕は分らず屋、神森さんと同じですから。そんな僕のことを好きになってくれた人の台詞です」
「……違う! 俺はそんなんじゃない! こいつが許せないんだ!」
さらに取り乱す瓜丘さんは一旦銃を下ろし、神森さんの長い髪を掴み上げる。
「だったら早く殺せ! ワシを殺せば全て終わる。さっちゃんの恨みを晴らせ!」
言いながら神森さんは左手を後ろに伸ばしてきた。その手は僕の左腰に装着されているナイフの柄を軽く叩く。
瓜丘さんの後ろで待機している朝見刑事、神森さんの髪を掴み上げる瓜丘さん。そしてナイフを叩く左手。僕は神森さんが何を考えているのか一瞬で理解した。
腰に付けていたナイフをそっと彼女の手に握らせる。
「……殺してやる。殺してやる殺してやる殺してやる!」
瓜丘さんは狂ったように叫び声をあげ、銃口を神森さんの額に押し当てる。
瞬間、神森さんは左手のナイフで掴まれていた彼女の長い髪を切り裂く。金色の髪が宙を舞った。そして、僕はすぐに後ろに飛び退いた。
瓜丘さんは断ち切られた反動で少し後ろに傾く。すかさず神森さんは左脚を蹴り上げ、瓜丘さんが持つ拳銃を左に薙ぎ払う。サイレンサーが取り付けられたそれは簡単に瓜丘さんの手からこぼれる。神森さんは脚を振った勢いのまま、体をひねって後ろを向く。そして左脚が着地した瞬間、今度は右足を瓜丘さん目がけて蹴り上げる。
回し蹴り二連撃バージョン。
姉直伝の回し蹴りの奥義だ。まさか神森さんもできるとは思っていなかった。ちなみに僕の姉は四連撃まで繰り出せる。僕は目が回るので神森さんと同じく、二連撃が限界だ。
「瓜丘ああああ! 逮捕だああああ!」
神森さんの脚が顔面にクリーンヒットして倒れ込んだ直後、朝見刑事が瓜丘さんに飛びかかる。百キロオーバーの巨体が上に乗れば、いくら瓜丘さんでも身動きは取れない。
こうして、瓜丘来夢は僕と神森さんの目の前で、河部署の朝見刑事の手によって逮捕された。僕は神森さんの手をそっと握る。ショートカットになっても神森さんはやっぱり、可愛らしくて、美しい。
「あるじろ、どうして来たの?」
「放っておけなかったんですよ」
そう答える神森さんに、僕は訊き返す。
「神森さんはどうして僕のためにいろいろしてくれるんですか?」
「放っておけないんだよ」
五月の件も今回の件も、神森さんは僕のことが放っておけなかったから、捜査に協力したり、倉庫まで助けに来たり、瓜丘さんの計画を阻止しようとした。そしていくら僕が逃げるチャンスを作っても逃げなかった。神森さんは僕のことを放っておけない。そして僕も、彼女のことを放っておけなかった。
僕と神森さんはわからない。感情がわからない。いくら頭で理解していても自分自身で感じることができない。それは変わらない。僕らが分らず屋なのは変わらない。それでも僕らの心に宿ったこの感覚はきっと、感情というやつなのだろう。
そして、これの名前は――
「愛ですね」
「愛だね」
僕と神森さんは手を繋いだまま、夜景を眺める。
愛。それはあまりにも不確かな感情である。この放っておけないという感覚が、この人の為なら自分の命なんてどうでもいいと思ってしまうこの感情が、本当に愛なのかはわからない。これが正しいのかはわからない。けれど、僕らはこれを愛と呼ぶことにした。
朝見刑事に乗られ、身動きが取れなくなっている瓜丘さんもまた、愛故に神森さんを放っておくことができなかった一人である。そんな彼女に神森さんはこう言った。
「ごめんね、ありがとう」
瓜丘さんは黙ったままだった。きっと地面に顔を埋めたまま泣いているのだろう。
「俺はここで応援が来るのを待つ。ある君達はみも太郎の家で待ってろ、後で迎えに行くから。それとお前ら――」
朝見刑事は瓜丘さんの上で負傷していない方の腕を突出し、親指を立てる。
「愛だな!」
いつになくキメ顔だった。
「あさみんには言われたくない」
「離婚調停、頑張ってくださいね」
僕らはそう言って手を繋いだまま、展望台を後にする。
「酷えな、この野郎!」
朝見刑事の大きな声が皐月山にこだましていた。




