七夕事件 11
僕がこれからするのはたった一つ。神森さんをこの場から逃がす、ただそれだけだ。
瓜丘さんの話を聞きながら僕は茂みに身をひそめ、リュックを背中から下ろし、中を探っていた。神森さんを縛り付けていたロープは切ってある。後は逃げるタイミングを作るだけだ。何か瓜丘さんの気を逸らさせる方法は……。
「しっかり見ておけよ。お前の目の前であの河川敷は真っ赤に燃え上がる」
「ぴーひゃららー」
夜の展望台に下手糞な縦笛の音が響いた。
もちろん、吹いたのは僕である。
何日か前に、ゆずかちゃんが「貸してあげる」と言って僕に渡してきたのだ。
ゆずかちゃんは神森さんの事情や僕らが動いている詳細などは、ほとんど知らない。それでも神森さんが何かしていることや、僕らが裏で動いていることはなんとなくわかっていた。だから、ゆずかちゃんなりに何かしたかったのだと思う。かつて猫の飼い主に死を告げることを躊躇していた彼女に僕がこの縦笛を渡したのと同じように、ゆずかちゃんは僕に縦笛を貸してくれた。それを僕はお守り代わりにリュックの中に入れていたのである。まさかこういう場面で使うことになるとは思ってもいなかったけれど。
「誰だ?」
音に反応した瓜丘さんは神森さんの前を離れる。
絶好のチャンスである。けれど、神森さんは動かなかった。せっかく僕とゆずかちゃんの連係プレーで瓜丘さんの気を逸らせることに成功したのに、これでは水の泡である。
「出てこい!」
瓜丘さんが茂みに向かって怒鳴るので、僕は仕方なく出ていくことにする。足元のリュックを置き去りにして、笛を吹くポーズのまま茂みの外へ歩いて行く。
神森さんはパイプ椅子に座ったまま、僕を見つめていた。逃げられるチャンスだったのに、どうしてこの人は当たり前のように座ったままなのだろうか? 自分の身を守る為だけでは動かない人だけれど、僕はちゃんと逃げるように指示を出した。それに対して彼女は頷いたはずである。
「どうしてお前がここにいる」
僕の正面でパーカーに手を突っ込み、睨む瓜丘さん。
「通りすがりの笛吹き男です」
「ハーメルンにでも行くつもりか?」
「そうかもしれません」
「……そういえば、お前もあの事件の被害者だったらしいな」
僕が展望台に出てきたことで、夜景を眺める位置にいる神森さんの前で、僕と瓜丘さんが向かい合う状態になった。
「せっかくだ。良い話をしてやるよ」
にやりと口角を上げる瓜丘さん。彼女は銀色の瞳で僕を見つめ、左手で神森さんを指す。
「俺とこいつは同じ施設で育った。親から見放された俺達にとって、一緒に生活している仲間はみんな兄弟みたいなもんだ。まあ、俺は天才少女ともてはやされるこいつの事が嫌いだったけどな」
瓜丘さんは腕を下ろし、すっかり暗くなった空を見上げる。
「それでも、こいつに懐いている奴も沢山いたんだ。……その子はな、俺にとっても妹分みたいなもんだった」
そう言った彼女の表情は暗い。
「神森、覚えてるか? さっちゃんの話だ」
神森さんは瓜丘さんの問いに応えず、無言で夜景を見つめている。
瓜丘さんは軽く舌打ちし、話を続ける。
「さっちゃんはあの日、遠足に行った。いつもの笑顔で『おみやげ買ってくるね』って言って出て行った。……けどな、俺達の妹分は帰ってこなかった」
河部市児童同時拉致監禁刺殺事件。通称、河部ハーメルン。七年前の夏の日に突然起こったこの事件は河部市の各所で多くの児童が誘拐されている。中には遠足帰りの子供達も含まれていたそうだ。
「頭の狂った馬鹿共が起こしたあの事件に、巻き込まれてたんだ。お前が監禁されていたのと同じ場所に、さっちゃんもいたんだよ」
「黒の探偵、最初の事件ですね」
「そう思うだろ? 妹の様に懐いていた子が誘拐されたから、探偵として解決したと思うよな……。けど、それは違う。こいつは動かなかったんだよ。俺達が必死になって捜している間も、この女は呑気に歌っていやがった」
なんとも神森さんらしい行動である。
「俺は訊いた。どうして捜さないのかって、心配じゃないのかって。……そしたらこいつは何て答えたと思う?」
答えはなんとなく察しがついたけれど、僕は黙って瓜丘さんの言葉を待つ。
「『待っててって言われたから待ってるの。おみやげ何かな?』だぞ? いなくなってから何週間もたっているのに、こいつは普通に待っていたんだよ」
瓜丘さんは唾を吐いた。
「心底気持ち悪かったさ。こいつはさっちゃんが帰ってこないという事実を頭でわかっていても、俺達の様に必死になることも、悲しむこともなかったんだ。それどころか、事態を全く把握していなかった」
「けれど、最終的には解決した」
「天才少女の噂を聞きつけた刑事がやって来たんだ。事件の概要を伝えた後で、神森に監禁場所の特定を依頼したんだ。そしたらこいつは急に唸りだした。情では動かないが、指示されれば動く。……感情がわからないってのは本当に気持ち悪いな」
その刑事さんは後に神森さんを探偵として独り立ちできるまで支えたとされる人で、瓜丘さん絡みの事件に関わった後、消息不明になっている。
「その三日後、事件はあっさり解決した。さっちゃんがいなくなって一カ月も動かなかったくせに、三日で解決しやがった。で、こっからがもっと面白いんだぜ」
そう言って瓜丘さんは僕を見つめ、にやりとする。
神森さんは相変わらず夜景を見つめたままである。
「殺された後だったんだよ。監禁されていた児童二十三人の内、十人が死んだ後だった。その殺された中に俺達の妹分もいたんだ。もう少し早くこいつが動いていれば、さっちゃんは助かっていたんだよ。お前の様にな」
僕には事件の記憶がない。監禁されていた僕らが一か月間どういう生活を送り、どんな子がその場にいたかなんて想像もできない。そしておそらく僕の目の前で殺されていった十人の顔もわからない。案外、さっちゃんという子と僕は言葉を交わしたことがあるのかもしれない。それでも僕はわからない。
半分笑いながらそのことを話す瓜丘さんの気持ちもわからない。
「もちろん、こいつは何とも思っていなかった。葬儀で涙を流す俺の横で歌ってたよ」
葬儀で歌うのはさすがにマナー違反だと思うけれど、僕はどちらかというと僕は神森さんの行動の方が共感できる。わからなかったのだ。感情がわからない故に、まわりの人がさっちゃんを心配して、捜していることに気付かなかった。そして、神森さんは誰かに何かを指示されれば的確に動く。それが合わさった結果だったのだ。捜すように言われるのが遅かっただけなのだ。
死に関しては、わからないものは仕方ない。としか言いようがない。たとえそれが救えたはずの命だったとしても、神森さんはわからなかったのだ。
多分今の僕が同じ立場に居たら、歌いはしなくても涙は絶対に流さない。それが瓜丘さんや他の普通な人達にとってどれだけ異様でおかしいものかということは理解している。けれど、いくら頭で理解していてもこればかりはどうしても偽ることができない。
「気持ち悪いだろ? 感情がわからないなんて、それだけで罪なんだよ」
「ぼくはそうは思いませんけどね」
瓜丘さんが銀色の瞳で僕を睨む。僕はそんな彼女を見つめ返す。
これだけ時間を稼いでも神森さんは全然逃げてくれない。ずっと僕らのやりとりと夜景をぼんやりと見ているだけである。
単調な電子音が鳴った。
瓜丘さんはズボンのポケットからケータイを取り出し、アラーム音を止める。
「……時間だ。神森、しっかり見ておけよ」




