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縦笛事件 04

 今日はとんでもない一日である。高校生になって最初の夏休みを優雅にベッドの上で過ごしていた僕を姉は無理やり連れ出し、処女だの愛だのを語った挙句、想い人を紹介すると言いだした。そこまでなら、まだ理解できる。留学を控えているのでその前に弟に紹介しておきたいのだろう。けれど、まさかその想い人が女性だとは思ってもいなかった。以前から僕は格闘技をやっている姉のことを戦士みたいだと思っていたけれど、まさか百合戦士だったとは。


 洋菓子店の庭から突き出した木の影の下で待つこと数分、姉は箱を二つ抱えて出てきた。


「弟は何のために存在しているか知っている?」


「知っていますとも」


 弟の存在価値。姉に言わせればそれは荷物を持つことにあるらしい。

 ということで姉から洋菓子店の箱を受け取る。ひんやりしている。こんな日にはアイスが一番だ。この炎天下で溶けてしまう前にこっそり食べてしまおうか。でないと僕が溶けてしまいそうだ。なんてことを考えていると姉は洋菓子店の横の路地に入っていく。

 右に左に数回曲がった先にそれは建っていた。


「着いたわよ」


 赤レンガの建物。時間というか時代というか、そんな自然と流れるものから取り残されたかのような二階建てのアパート。赤い外壁を這うように緑のツタが生い茂っている。そのツタに隠れるか隠れないかのところに掲げられた木の看板にはかすれた字で、『アオヰコーポ』と書かれてある。明らかに古臭い。そして、薄気味悪い場所だ。


 ここが目的地、姉の最愛の人が暮らすアパートのようだ。

 初めて訪れた人間なら誰でも入るのを躊躇してしまいそうな外観だけど、我が姉は勝手知ったる我が家のように門をくぐり、外階段を上っていく。姉の頼もしい背中を眺めながら僕もそれに続く。幽霊でも出てきそうなこんな場所に、本当に姉の想い人が住んでいるというのだろうか?


「ぴーひゃららーぴーひゃららー」


 縦笛の音だ。どこからともなく笛の音が聞こえてくる。それは廊下を進むごとに大きくなり、姉が立ち止まった二○三号室の前で最大の音量となってしまった。どうやらこの部屋の奥から聞こえてきているようである。


「ぴーひゃららーぴーずぴー」


 笛の音。もっというならばリコーダーの音である。それはまるで小学生の夏休みの宿題のような下手な代物で、ところどころ音程がずれたり、ちゃんと音が鳴っていなかったり。

 まさか、姉の最愛の人というのは小学生なのだろうか。これはつくづくとんでもないことになってきた。先ほど、姉の想い人が女性であることを知ったばかりだ。そして姉はその人を『可愛い子』と表現していた。さらにこの縦笛の音である。

 大学生が小学生を愛するのは犯罪ではないのだろうか。いや、この場合どうなるのだろうか。おっさんと幼女なら明らかにそうだけれど、お姉さんと幼女。……なんとも立件が難しそうな案件である。むしろ微笑ましくなってきそうなくらいだ。

 頭を抱える弟のことなどつゆ知らず、姉はカバンから鍵を取り出し、それこそ我が家のように何の躊躇もなく扉を開けた。


「ただいま」


 台詞まで我が家仕様だった。けれど、そんなことをツッコむ余裕など僕にはなかった。

 目を奪われたのである。

 扉の向こうで縦笛を吹いていたのは小学生ではなかった。

 大人の女性。白のワイシャツ(下には何も着ていないようだ)にデニムのホットパンツというなんともいやらしい恰好の女性。ハニーブロンドの長い髪に西洋人じみた顔立ち。

 白く透き通るような肌に異質な碧い瞳はじっとこちらを見つめている。小さな唇に縦笛をくわえたまま、じっとこちらを見つめている。身長は姉より高く、女の人としては平均よりも少し大きいといったところ。ホットパンツからすらっと長く伸びた生足がそれを物語っている。異国の綺麗な女性。という表現が一番正しいのかもしれない。

 だけど、僕が思った感想は単純に可愛い。であった。


「あ! あるたろうだ! やったっぴー」


 扉の前で縦笛をくわえていた女性から発せられた声はどこか幼さが残るソプラノ。そして姉に気付いた彼女は笛を放り投げ、ものすごい勢いで姉に飛びつく。姉はそんな自分よりも大きなブロンド髪の女性を軽く受け止める。


「ぎゅうううううう。おっぱいやわらかいねー」


「みも、今日は弟を連れてきたのよ」


「ねえねえ。どうしたらこんなに大きくなるの? ぷんぷん」


 みもと呼ばれたモデル体型の女性は見た目に似つかわしくない言動でそう言いながら姉の胸をぽよんぽよんと揉んでいる。

 なんともいやらしい光景である。


「それは私もわからないけれど、とりあえず揉めばいいんじゃないかしら」


「もんでるもん! いっぱいもんでるもん!」


「じゃあ、私が揉んであげましょう」


 さっきまで動じていなかった姉の表情が一気に黒くなる。というか背中から黒いオーラ、いや、いやらしいオーラが。それはまるで道行く女子高生を舐めまわすように眺めるむさくるしいおっさんのようなオーラである。こんな下心満載な姉を見るのは初めてだ。


 それを感じとったのか、みもと呼ばれた女性はハニーブロンドの髪を揺らしながら姉から離れる。


「それはいいや……ん? だれ?」


 目が合う。やはり綺麗な顔をした人だ。


「弟よ、私の実の弟。かわいいでしょ?」


 明らかに拒絶されて落ち込んでいる姉が適当に僕を紹介する。明らかに棒読みである。


「はじめまして、或江米太あるえこめたです」


「んーんー」


 いきなり目を閉じてんーんーとうなりだす。

 とりあえずは目の前の状況を姉に確認しようと目を向けると姉は冷静に口を開く。


「少し待っていなさい」


 なんなんだこの人は。我が姉も大概濃いキャラだということはわかっているので、その愛しい人ならばこれはもうものすごいのだろうとなんとなくは思っていたが、だからこそ小学生という推測もさらっと出てきていたのだけれど、予想外過ぎる。想定外すぎる。


 小学生のような縦笛に英国美人な見た目、そしてこのキャラである。大人な見た目に中身小学生。ということでいいのだろうか。なんともちぐはぐな人だ。

 僕が首をかしげていると目の前の美人は何かをひらめいたかのように急に目を開けた。


「あるじろうか! よろしく! ワシはみもだよ」


 どうやら、姉が『あるたろう』なのでその弟で『あるじろう』ということらしい。


「よろしくです。つかぬことをお訊きしますが、姉とはどういったご関係で?」


「こいびとだよ! だいすきなひと!」


「みもはこう言っているけれど、まあ友達よ。私としては本当の意味で恋人に、いやそれ以上になれないかと思っているのだけれど」


「こいびとじゃん! ご飯作ってくれるし、いろいろお使いしてくれるもん」


「それはただの世話役では」


「そうよ、その通り。全然相手にしてくれてないの」


 どうやら想い人といっても、それは片想いらしい。それで処女がどうとか言っていたのだろう。相手が同性、しかも片想いならなおさらなのだろう。しかし、これは同性だから相手にされていないのとはどうやら違うみたいである。


「おっぱいやわらかいーいっぱいー」


 気が付けば姉が押し倒されて、胸に顔をうずめられている。

 姉はすこぶる嬉しそうである。


「もにもにーおっぱいー」


 再び揉まれる姉の胸。二人の美女のえっちい事情。これで相手にされていないとか嘘だ。というかここまでされて相手にされない姉が不憫でもある。


「あれ? 笛どこいった?」


 急に顔を上げ、きょろきょろしだす金髪の人。

 姉は顔を赤らめたまま、近くに落ちていた笛に手を伸ばす。


「ここにあるわよ」


 と姉が笛を拾い上げた頃には彼女は「すたこらさっさー」と言いながら部屋の奥へと駆け出していた。揉み逃げだ。というか、意味が分からない。笛を探していたのでは? そもそも、あれだけえっちいことになっていたのに、そういう気分になったのは姉だけだったようだ。


 まだ顔が少し赤い姉について廊下を歩き、部屋へと向かう。中に入ると涼しい冷房の風が汗で顔に張り付いた僕の髪を揺らした。そこは割と大きめのリビングで、左奥には台所が見える。外観がアレだっただけに拍子抜けだ。綺麗でいい物件ではないか。きっと最近リフォームでもしたのだろう。

 揉み逃げ女さんはリビング中に広がる大量のクマのぬいぐるみ達と戯れていた。


「かんぞう元気? そうかそうか。元気かー」


 クーラーがきいて寒いくらいの部屋でぬいぐるみを抱えてごろごろと転がっている。『かんぞう』とは抱えているクマのぬいぐるみの名前なのだろう。くれぐれもお酒の飲み過ぎには注意してほしい名前である。


 そんな彼女はシャツはだけまくりの足はM字開脚状態である。いやらしい恰好をしているというのに全く色気が感じられない。ラフな格好をしている姉の方がまだ色気がある。というかさっきの百合百合な事情のおかげで色気倍増中である。

 さばさばとした姉とほわんほわんした金髪碧眼さん。色気のパラメータが全く逆だ。これは胸の差などではないのだ。中身の差ともいうべきか。


 全く姉はどうしてこんな意味不明な、しかも遊ばれるだけ遊ばれている(主に胸)で、ちゃんと振りもいてもらえない相手なんかを……。


「いま、なんでこんなのを好きになったんだよって思っているでしょ」


「そ、そんなことはないですよ」


 図星でした。いけないけない。色恋というのはそういうものだった。理屈ではない。好きになるのに理由はいらない。好きになった相手が好きなタイプなのだ。第三者の僕ごときが介入していい問題ではない。いくら姉弟だからといって、いくら姉の好きな人が女の人だからといって、分らず屋の僕がどうこう言っていい問題ではない。


「みも、リコーダー」


「ん? ありがとーる」


「そのリコーダーどうしたの?」


「ぴーひゃららー」


 姉の問いかけに縦笛で答える金髪碧眼美女のみもさん。

 与えられたので吹きましたと言わんばかりの音色である。


「そんなの持っていなかったでしょ?」


「ぴーぴーひゃらぽー」


 答える気がないのか、何かやましいことがあるのか、単に話を聞いていないだけなのか。


「あ! ワシはおなかすいたよ!」


 話を聞いていなかっただけらしい。


「はいはい、ちょっと待っていて」


 そう言って姉は部屋の入り口付近で立ち尽くしていた僕から二つの箱を奪い、台所へ。奪うという表現はおかしいのだけれど、僕が渡そうとするモーションに入る前に持っていかれたので正確には奪うように。

 とんでもキャラの登場で呆然と唖然としていて動きが鈍っている僕なんかに合わせていたら、アイスが溶けてしまう。そういう姉の判断なのだろう。


「ねえねえ」


 意味不明美女が四つん這いで話しかけてきた。


「はい。なんでしょうか?」


「あるじろうはあるたろうのかれし?」


「違いますけど。さっきの自己紹介もちゃんと聞いていなかったんですね」


「きんしんそうかん?」


「ちゃんと聞いているじゃないですか! いいですか、ただの弟です。弟で彼氏とかいうわけではありません。だいたい、近親相姦っていけないことなんですよ」


「おなかーすいたーおなかーふんふーんふふー」


 聞いていない。必死の訴えを聞いてもらえなかった。


「ふんふん、ぴーひゃららー」


 なんの悪気もない表情で縦笛を吹いている。

 どうしたものか。全くと言っていいほど会話が成立しない。とりあえず、笛について訊いてみるか。姉も縦笛の存在を疑問に思っていたようだし。


「その笛、拾い物ですか?」


「ん? ほうしゅうだよ。朝もらったー」


 ほうしゅう? 何のことだろうか。意味不明である。というか僕はこの女性のことを何も知らないし、何も聞いていない。ここまでのやりとりで理解できたのは姉がご執心ということと、見た目と中身がちぐはぐな人ということくらいである。


「それで今日は珍しく起きていたわけね」


 姉が台所からカップアイスを一つ持って会話に入ってきた。


「そだよー。あ! アイスだ! おいしそう」


 碧い目を輝かせ、飛び跳ねる大きな子供。そんなみもさんを嬉しそうに眺めながら姉は床に座り、四つん這いで寄ってくる彼女にアイスをすくったスプーンを差し出す。


「はい、あーん」


「あーん。もぐもぐ」


 なんとも微笑ましい光景が繰り広げられている。嬉しそうにスプーンを差し出す姉とそれを嬉しそうに口に入れるみもさん。相思相愛のカップルのようにも見える。その百合百合なやりとりは何回か繰り返され、アイスに夢中な彼女を姉は自分の膝の上に座らせた。

 僕の分のアイスがないことに密かに嘆きながら、僕はそんな二人の正面に座ることにした。


 相変わらず、あーん。もぐもぐ。は繰り返されている。このままではいつまでも二人の愛の時間を眺めるだけになってしまうので僕は先ほどの疑問を口にする、


「ほうしゅうってなんですか?」


「この子、昼夜逆転してるの。いつもは夕方に起きるのよ。私と同じ大学で同期なのだけれど、今は休学中で、ひきこもりをしてる」


「あなたまで人の話を聞かなくなったら大変なことになるんですけど」


「そうかしら? 私は幸せよ」


 そう言いながら姉はみもさんの口にアイスを運ぶ。二人ともなんとも幸せそうである。

 まあ、二人が幸せならばそれで良いかとなんて適当なことを考えていると、


「ていや! アイスげっと!」


 餌を与えられる雛のようだったみもさんが姉からアイスのカップを奪いとった。ちまちま食べさせられているのに飽きたらしく、ものすごい勢いでアイスを食べ始める。姉はそんな彼女をこれまた嬉しそうに見つめた後、深呼吸をしてから口を開く。


「みも、前にも話したけれど」


「もぐもぐもぐもぐ」


「オランダに行くから一年間、待っていてね」


「もぐもぐ……ん? オラウータン?」


「オランダよ。留学で一年間」


「あ、いってらっしゃい。気をつけてねー」


 仮にも恋人とは思えない淡白さで送り出された姉であった。まるで今からコンビニに買い物に行く人を送り出すかのような適当さである。これが相手にされていない。という部分なのだろうか。それとも適当で話を聞かない彼女独特の物なのだろうか。


「それで、この弟なのだけれど」


「あるたろーとーあるじろーふたりはーいけなーいかんけいー」


「違います」


 思わず割って入ってしまった。とんでもない歌である。

 そんな僕をよそに姉は何とも嬉しそうに微笑む。


「そう、あるじろう気に入った?」


「んー。まだ、お友達かな」


 知り合って三十分で友達だった。なんともお手軽なお友達である。さすがは現代社会、掲示板でもカフェでもお手軽に恋人が出来てしまう時代なだけはある。


「じゃあ、私は忙しいからもう帰るわね」


 そう言って突如立ち上がる姉。

 全く意味が分からない。なにが「じゃあ」なのかさっぱり理解できない。もう用は済んだということなのだろうか? 弟を紹介して胸を揉まれてアイスを食べさせただけである。


「え? どういうことですか?」


「今日はみもと一緒にいなさい。みも、それでいい?」


「りょぷかいでーす。あるじろうよろしくね!」


 食べ終わったアイスのカップを床に放り投げながら返事をするみもさん。何でも放り投げる癖があるらしい。食べた後の物をその辺に放っておくのはさすがに汚い。

 いや、そんなことよりも、この適当な人と一緒にいろ。姉はそう言った。そしてあっさりと適当にそれがOKされた。ということらしい。


 僕が疑問や反論を口にする前に姉は本当に帰ってしまった。

 状況が全く理解できずに姉が去ったドアを見つめていると、服が引っ張られる。


「ねえねえ、笛どこ?」


 見た目は完全に大人なのに幼いソプラノの声。そして純粋無垢で何も知らない子供のような表情で僕を見つめている。そんな金髪碧眼な女の人と、その人部屋に置き去りにされてしまった僕。


 縦笛は僕の目の前に落ちていた。なみきゆずか……誰?


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