誘拐事件 06
会瀬川周辺は桜色に染まる季節が終わると、色とりどりの鯉のぼりで埋め尽くされる。赤く染まった空の下、鯉のぼりたちが泳ぐ中を、僕とゆずかちゃんは手を繋いで歩いていた。神森さんと三人でゲームをしたり話し込んだりしていたせいですっかり遅くなってしまったので僕が家まで送り届けることになったのだ。
野球やサッカーをしていたであろうユニフォーム姿の小学生や、ジョギングやサイクリングを楽しむ人たちとすれ違いながら川沿いの道をゆっくりと歩いて行く。
「弟くんってさ、みもちゃんのこと何も知らないんだね」
「それは神森さんも同じだと思うよ。僕らは似たもの同士だからね」
僕の言葉に首をかしげるゆずかちゃん。
「全部知ってるって言ってたよ?」
全部? またそんな根拠のないことを言っていたのか。けれど神森さんには何でもお見通しであるので、本当に知っているかもしれない。
「あの人は僕の誕生日も知らないと思うよ」
「六月六日って言ってたよ」
「何で知っているんだ」
姉から聞いていたのだろうか。僕は神森さんについてほとんど何も聞かされていなかったので、神森さんも同じだと思っていたけれど、どうやら違うらしい。なんとも不公平である。そもそも神森さんは『んーんー』と目を閉じて唸れば大体のことがわかってしまうので、不公平どころか不平等な格差社会である。
「『ワシとお揃いなんだよー』だってさ」
「お揃い?」
「もしかして、みもちゃんの誕生日知らないの?」
「知らない」
「七月七日だよ。七夕だから覚えてるの」
六月六日と七月七日、確かにお揃いといえばお揃いである。ぞろ目同士、しかも数字が隣り合っている。それをお揃いだと言って、ゆずかちゃんに自慢する辺り、なんとも神森さんらしい。
「けど、残念だったねー」
「残念?」
「七夕祭りだよ。河部七夕! 今年は六日の日曜日にやるんだってー」
河部七夕とはこの地域に伝わる七夕伝説に基づき、古くから行われているお祭りである。なんでも織姫と彦星の様なカップルが実際にいたらしく、その二人は河部市のシンボルであるこの会瀬川を挟んで西と東に隔離されてしまい、七月七日に再会したという伝承だ。この街の老人なんかは七夕の起源は河部だと言い張るくらいである。
毎年七月になると街中に七夕飾りや笹が置かれ、七夕祭りの日には織姫と彦星の扮装をした男女が川の西と東からそれぞれ付き人たちを従わせ、街を練り歩き、笠佐木橋で落ち合うパレードが行われ、夜には河川敷公園で六千発の花火が打ち上げられる。花火の数が六千発なのは伝承の二人が隔離されていた期間が六年間だったからである。
河川敷には多くの出店が立ち並び、多くのお客さんで賑わう。河部市では一番大きなお祭りである。しかしながら近年では曜日関係なしに七日にお祭りをやることは難しいので七日前後の日曜日に開催されることとなっている。そして今年は七月六日の日曜日に行われる。
確かに本来誕生日に行われるはずのお祭りが一日ずれるのは残念なのかもしれないけれど、神森さんは外に出ないので、あまり関係がない気もする。
「ゆずかちゃんは――」
誕生日いつなの? と聞こうとしたとき、見慣れた中折れ帽がこちらに向かって走って来た。白のワンピースに桜色のカーディガンに黒の中折れ帽。こんなちぐはぐな格好で出歩くのは僕の知り合いの中では一人しかいない。
「柚香! こんな時間までどこ行ってたの?」
桜さんはゆずかちゃんに駆け寄り、膝をかがめ、ゆずかちゃんの肩に両手を乗せる。
「お母さんもみんな心配してるよ? 出かけるときはちゃんと誰かに言ってから――」
そこまで言って、ようやく桜さんはゆずかちゃんの隣にいる男、つまり僕の存在に気づき、低い姿勢のまま僕を見上げる。
「桜さん、昨日ぶりですね」
「……」
桜さんは僕を見上げたままの姿勢で固まっている。僕の存在がそこまで意外だったのだろうか。ゆずかちゃんは相談屋の常連客で、今までも僕は何度かゆずかちゃんを家まで送り届けている。桜さんもそのことは知っているはずである。
「お姉ちゃんたち知り合いだったの?」
首を傾げるゆずかちゃん。そうか。僕は二人ともと仲良くやっているけれど、こうして三人で会うのは初めてなのか。そしてゆずかちゃんの口ぶりからすると、桜さんはゆずかちゃんに僕らが知り合いであることを言っていないらしい。
「は、はじめまして!」
固まっていた桜さんから出た台詞は何ともわざとらしい初対面の挨拶だった。白々しいにもほどがある。白々しすぎて、逆に僕らが知り合いだということを肯定してしまっている。今更、ゆずかちゃんに隠す必要があるかどうかはわからないのだけれど。
「もしかして、お姉ちゃんが最近デートしてる人って弟くんだったの?」
「ししし、してません!」
桜さんは立ち上がり、大きな声で否定する。
「昨日デートしてきたんだーって嬉しそうに話してたじゃん」
「嬉しかったんですか?」
「う、嬉しくないし、話してなんかないです! デートもしてません!」
「嬉しくなかったんですか?」
嬉しいことは良いことだけれど、嬉しくないのはあまり良い事ではない。僕とのデートが楽しくないのであれば、わざわざ誘ってくれなくてもいいのに。やはり、先月の一件のお礼がまだ続いていたというわけなのだろうか、律儀な人だ。
「あっ、いや……或江君、これはその」
「お姉ちゃん、顔真っ赤だよ」
「柚香!」
「後はお若い二人でどうぞー」
ゆずかちゃんは大きな声を出す桜さんをからかうだけからかって、神森さんのように「すたこらさっさー」と走って行った。
「待って! ……あう!」
後を追いかけようとした桜さんが足をもつれさせて、こちらに倒れてきた。受け止めようととっさに両手を突き出したのだけれど、勢いに負けて僕も倒れてしまった。両手で桜さんの胸をしっかりと受け止めたまま。
「どどど、どこ触ってるんですか!」
「すみません」
これは完全に事故なので僕は全く悪くないのだけれど、一応謝っておいた。
僕の両手に掴まれたままの桜さんの胸は僕の姉ほど大きくはないけれど、柔らかい。着痩せする方なのだろうか、見た目よりはボリュームがある。まな板な神森さんなんかとは比べ物にならない。
「……早く手を離してください」
桜さんの顔は夕焼けの効果もあって、いつも以上に真っ赤だった。




