誘拐事件 02
「あさみんの話は聞かないよ」
神森さんは相変わらずの金髪碧眼でクマのぬいぐるみを抱きながら無表情で床に座っている。ちなみに今はTシャツ一枚という破廉恥な格好ではない。朝見刑事を部屋に入れることにしぶしぶ応じた彼女は、「ちょっと着替える」と言って素早くクマの着ぐるみパジャマに着替えた。さすがに客人を迎える時にTシャツ一枚というのは失礼だと思ったのだろう。着ぐるみパジャマの名前は『だいちょう』、神森さん家にあるクマグッズの中で一番大きいからという理由で名づけられたこのクマを着ることで、神森さん自身が大きなクマになれる画期的アイテムだ。
そんな彼女の正面にはもう一体、大きなクマが座っている。朝見夜彦刑事、その人である。グレーのスーツを着た大柄の体に伸び放題の髭、天然パーマのもじゃもじゃ頭、初めて会ったときから僕は朝見刑事のことをクマの末裔かなにかではないかと思っている。
「どうしてだよ」
野生のクマの様な朝見刑事は言いながらスーツの胸ポケットから煙草を取り出す。
「朝見刑事、ここは禁煙ですよ」
「ああ、そうだったな」
煙草を胸ポケットに仕舞う朝見刑事を見届けてから、僕は台所へ向かう。たとえどんな来客であっても、飲み物くらいは出してあげなくてはならない。それがクマの末裔であってもだ。
「で、どうして俺の話を聞かねえんだ?」
「クマみたいなくせに可愛くないもん」
戸棚からインスタントコーヒーのビンを取り出していると、リビングから神森さんと朝見刑事のやりとりが聞こえてくる。
「あん? 喧嘩売ってんのか」
「あん? 売ってるよ。こいよ、おらあ!」
「おう、なら喧嘩の前にまずはこの資料を読んでくれ」
「あーあー。聞こえないでござるー」
「みも太郎、お前の力が必要なんだ」
「やめろやめろ! 黙れふぉーえばあ!」
「もういい! 喧嘩だ!」
「りょぷかい。ぜったい許さない!」
「何を許さねえんだよ」
「あるじろうとの時間を邪魔した!」
「それはしょうがねえだろ! こっちは仕事なんだよ!」
「やだ。のろう」
「おうおう、呪ってみろよ、呪われたらどうなるってんだ?」
「んー。なんか生きづらくなる」
「それはなんか嫌だな。……この野郎!」
「嫌だったら、帰れ! 話は聞かないからね」
「わかったよ! みも太郎とはもう話さねえ! ぜってえ話さねえからな、一生話してやるもんか!」
わざわざ残業覚悟で神森さんに協力を求めに来たのに、簡単に神森さんの可愛らしい挑発に乗ってしまった朝見刑事。一体何をしに来たんだろうか、これでは本末転倒である。やはり残念な刑事さんなのだろうか。
何はともあれ、おもてなしの準備が整ったので僕は台所からカップが二つ乗ったお盆を持ってリビングに戻り、その一つを残念なクマさんに渡す。
「朝見刑事、コーヒーです」
「おお、ありがとう。ある君は気が利くな、こいつと違って」
受け取りながら厳つい表情で可愛らしい方のクマさんを睨んでいる朝見刑事。
僕は睨まれている可愛らしい方のクマさんにもカップを渡す。
「神森さん、オレンジです」
「ありがとーる。ごくごく」
おもてなしが終わったので、台所に戻り、今日の分の洗い物をすることにする。
神森さんに春を感じさせるために張り切って料理を作った後なので、結構な量を洗わなければならない。洗い物をしている間、僕は朝見刑事に話しかけてみることにした。
「朝見刑事、ちなみに今日はどういった用件ですか?」
「最近変な店が増えてきてるのは知ってるか? アロマだとかハーブとかの店とライブハウスやクラブが併設されてる……いかにも怪しいヤツだ」
「営業しているのは見た事ないですけど、オープン予告の貼り紙なら見ましたよ」
何日か前、桜さんとデートしたときに紅茶専門店に連れて行ってもらった。桜さんが初めに案内してくれた場所にはその店はなく、アロマショップとイベントスペースができる予定だという紙が貼られていた。怪しいとは思わなかったけれど、刑事さんが怪しいと言うのなら、怪しい店だったのだろう。
「あるじろ知ってるの?」
「みも太郎は黙ってろ。俺はある君と話してんだよ」
「ワシは聞いてないもん。あーあー」
「まあその店は違法薬物を販売しててな。この辺りでも中毒者が増えてきてんだよ」
「それならこの間、闘いました」
これもあのデートの日の事である。嫉妬に狂った柏木先輩によるネット上の書き込みやチェーンメールによって、いつでも相手をしてくれる軽い女として有名になってしまった桜さんがゲームセンター裏の路地で怪しい男たちに襲われた。そのとき僕が撃退した男達は目の焦点があっておらず、ろれつも回っていなかった。朝見刑事の言う、最近増えてきた中毒者とは彼らの様な人たちの事なのだろう。
「あるじろたたかったの? たの?」
「襲われそうになった人を助けただけです」
「おー。えらいえらい!」
「流石、あるちゃんの弟だ」
「姉には勝てませんけどね」
「とにかく中毒者の犯罪もうなぎ上りでな、ウチも店を潰そうと必死なんだよ。どうやらグループ経営らしいから一カ所潰しても意味ねえし、全部潰したところで店の名前やらを変えてまた出てくるのは目に見えてんだ」
「いたちごっこですね」
追っている本人はクマの末裔なのだけど。
「そうだ。で、そのグループのリーダーを突き止めて、強制捜査かけて大々的に叩こうと今動いててな、みも太郎にいろいろと突き止めてもらいたかったんだが……この様子じゃ今回も使えねえようだな」
「ちょっとまって! 資料見せて!」
「おい、いきなり飛びつくんじゃねえ! ほら、渡すから。見ろ見ろ、穴があくまで見ろ!」
「んーんー」
朝見刑事の慌てる声の後、神森さんの唸り声が聞こえてくる。どうやら朝見刑事が持ってきた資料見て、考え出したようだ。
神森さんが朝見刑事の捜査に協力するなんて珍しい。というか僕が『こいびと』になってからは初めてである。いつもは僕が朝見刑事の要件を訊いても神森さんはクマのぬいぐるみと戯れたり、鼻歌を歌ったりと、話の内容に全く興味を示さない。なので、僕が朝見刑事の話と愚痴を聞いて、それで終わりなのだけれど、今回は何か理由でもあるのだろうか? それともいつもの気まぐれなのだろうか。
なんてことを考えながら桜さんに振る舞ったケーキを乗せていたお皿やティーカップを洗っていると、朝見刑事が僕の隣までやってきた。それなりに広い台所でも大きなクマの様な朝見刑事がいるとぎゅうぎゅうである。圧迫感がすごい。
「ある君、ありがとな」
「はい?」
「お礼にパトカーで家まで送ってやるよ」
そう言った朝見刑事はいつになくキメ顔だった。けれど、どうして僕がお礼をされなければならないのか意味不明だ。依頼を受け、仕事をしているのは神森さんであって、助手である僕は今回まだ何もしていない。
「パトカーつっても覆面だから安心しろ。補導された残念な高校生みたいにはならねえから。俺のは早いぞ、なんたってターボ搭載だからな! みも語で言うなら『すたこらさっさー』だ」
「今日は自転車で来ているので」
「そんなの置いて行けよ、この野郎」
「明日は月曜日ですよ。さすがに歩いて学校へ行くのは遠慮したいです」
「なんだよ、俺のお礼がそんなに気に食わねえのかよ」
野太い声で睨んでくる朝見刑事。僕はちゃんと説明をしたはずなのに、機嫌を損ねてしまったようである。神森さんといい、僕の周りは他人の話をろくに訊かないマイペースな人が多すぎる。
「……いえ、そういうわけでは」
「しょうがねえなあ。じゃあ、お礼ってことで宿題だ」
そもそもお礼自体が意味不明なのに宿題とは最早お礼ですらなくなっている。
「どうしてみも太郎は外に出ないと思う?」
「はい?」
「いや、だから――」
朝見刑事が何か言おうとしたところで「わかったでござるよ!」という神森さんの声が響く。
「お、みも太郎! 何か分かったのか!」
大きな声で叫びながら台所を出ていく朝見刑事。お礼の理由も宿題の意味も訊く事ができなかった。あの刑事さんは一体全体、何なのだろうか。嵐のようにやって来て嵐のように僕と神森さんの空間を乱し、自由奔放に振る舞うクマの様な大男。僕の姉はきっとこの刑事さんの事は嫌いなんだろうな、と思った。
何はともあれ、暴風雨の様な朝見刑事がやってきたこの日から、僕は彼が出した問い『どうして神森さんは外に出ないのか』を考える羽目になった。




