縦笛事件 02 八月十五日 木曜日
唐突な話なのだけれど、この世の話に唐突ではないものなんてあまりない気がするので、良しとしよう。何事も始まりは突然なのである。まさに今僕がおかれている状況もそのうちの一つと言えよう。
「私は処女よ」
助手席に座っている僕の隣、つまり運転席で僕の姉、或江麦子は唐突に話し始めた。車の運転をしながら言うようなことではないのだけれど。
「この歳で処女というのは今のこの国においてどのくらいの割合を占めるのかしら?」
「そんなことを僕に訊いてもわからないことくらいわかっているでしょう」
「それもそうね、あなたはいつだってわからない」
「分からず屋ですから」
僕はそう答えた後、ハンドルを握る姉に視線を向ける。
最近、姉は変わった。
母親譲りの切れ長の目に父親譲りの高い鼻。それは昔から変わらない姉の特徴で、僕も似たような顔なのだけれど、なんというか姉の顔つきが変わったのだ。はっきりとした時期は定かではないのだけれど、やはり留学を決めた頃からなんだと思う。
姉は一週間後、オランダへと留学する。
これもやはり唐突だった。もともと海外留学を視野に入れて大学に進学したわけでもなければ、外国語などを専攻しているわけでもない。ましてや姉は今年の四月に大学生になったばかりだ。普通ならこんな時期に留学はしないはずである。それでも、姉は数日後には海外へ行ってしまうのだ。
「私はね、愛のない処女喪失は嫌なのよ」
信号待ちの間に姉は垂れてきた茶色い髪を耳にかける。といっても姉の髪はそれほど長くない。耳が隠れる程度のショートだ。
「なんの話ですか」
僕の問いかけに真っ直ぐ前を見つめたまま口を開く。
「愛の話よ」
「そんな話を僕にしても無駄なのはわかっているでしょう」
姉はこちらを向き、ウィンクをしてから再び車を発進させた。
ちなみに僕の姉の年齢は十九歳である。この国の十九歳の女性の何割が処女だなんて僕にはさっぱりわからない。そもそも、姉が処女であるという事実を今初めて知った。
姉は昔から服装も適当で化粧もあまりしない。中学生の頃に突然習い始めた格闘技の鍛錬に励むスポーツ少女だったというのも、化粧気のなさやファッションに疎い原因なのかもしれない。
今も姉の服装は黒の英字Tシャツにヴィンテージ加工のジーンズといった可愛げもない、男受けも女受けも狙っていないラフなもの。
ただ、そのラフな格好でも色気は消せていない。色気の出所、それは胸である。いつからそんなにすくすく育ったのか、弟で分らず屋な僕でも目に余るほど大きいのだ。たとえ、化粧をしていなくても、服装がラフでも、それだけのものがあれば恋人の一人くらいいてもおかしくない。それでも姉は処女だと言い、それは愛を求めているからだと言う。
愛。辞書によるとそれは、生あるものをかわいがり大事にする気持ち、又は異性をいとしいと思う心。などと記載されている。他にも意味はたくさんあるようだけれど、今ここで姉が言っているのはこんな感じのこと、もっと言うのなら恋だ。しかし、僕は愛がどうとかよりもこれからどこに連れていかれているのかについて話したい。そもそも僕はなぜ夏休みの昼間から姉の運転する車で姉と話しているのか全く理解できていない。なぜなら、高校生活最初の夏休みをベッドの上で楽しく過ごしていた僕を、姉は突然連れ出したからだ。そして、車を走らせるなり愛の話である。
「……そうよね。分らず屋のあなた言ったところで何も変わらない。でも、私は愛の無い行為は嫌なのよ。やっぱり捧げるのなら最愛の人が良い」
「あなたの理想はわかりました。で、夏休みの昼間から僕をどこに連れて行く気ですか? わざわざ母さんの車まで出してきて」
「ん? 車はただ私がドライブしたくなったからだけれど。目的地は近場よ。安心しなさい、可愛い弟を山中まで連れ出してどうこうするつもりはないから」
「それは怖い」
「だから安心しなさい。分らず屋には興味ないわよ」
「そこは実の弟だからと言ってほしいですね」