恋桜事件 10
暴漢を撃退することに成功した僕らは、その足で駐輪場に自転車を取りに行き、会瀬川の近くまでやってきた。ここに来るまで桜さんはずっと無言で、自転車を押して歩く僕の服を掴んで歩いている。
今日は神森さんの所に行くのをやめた。あんな事があったのだ、まだ不安を引きずっている桜さんを置いて帰るわけにはいかない。今日は家に送り届けるまで一緒にいてあげよう。デートというのは家に帰るまでがデートなのだから。
桜並木に差し掛かると桜さんはだいぶ落ち着いたのか、僕の制服の裾から手を離し、僕の前を歩く。けれど、その足取りは重い。
満開の桜は昨日と同じように風に揺れ、花びらを散らしている。
昨日、桜さんはもっと綺麗になると言っていたけれど、お花見は今週末がピークだろう。何日かすれば、ここも多くの人で賑わうだろう。天気さえよければ。
僕は桜の花越しに灰色の空を眺める。歩いているうちに空はすっかり曇っていた。今にも桜の花を落とす雨が降ってきそうである。
「桜ってよく初恋とか失恋とかに喩えられますけど、どうしてか知ってますか?」
「花が咲く期間が短いからですか?」
「それもそうなんですけど、桜は本当に満開になることがないからなんです。一つの枝が満開になる頃には他の枝はもう散り始めているんですよ」
昨日初めて会ったとき、今が満開だと言った僕に桜さんは『本当はもっと綺麗になる』と、言っていた。それは実際に全ての枝が満開になるという意味ではなく、もし全ての枝が同時に満開になったとすれば、今よりも綺麗だという意味だったらしい。
「完璧な姿を見てもらえず、一週間程度で花は全て散ってしまう。……儚いですよね」
そう言って、桜さんは立ち止まる。
「そんな名前が私は嫌だった」
長い黒髪が風に揺れ、舞い散る桜の花びらと絡み合っている。
「けど、ある人に言われたんです。良い名前だって。似合ってるよって。何の説得力もない、お世辞みたいな言葉だと思ったんですけど」
そこで言葉を切って、彼女は満開の桜を見上げる。
「すごく、嬉しかったんです」
ぽた。
顔を上げた桜さんの額に雨粒が落ちた。そして僕の頭にも落ちた。




