恋桜事件 03
ワタさんがくれた情報に軽く目を通した後、僕はいつも通り一人で下校していた。自転車を走らせ、笠佐木橋の交差点を抜けると、桜の花びらが僕の顔をめがけて飛んできた。原因はもちろん、会瀬川の桜並木である。
朝の光景とワタさんの話を思い出し、桜の木に目をやると、朝と全く同じ場所に、中折れ帽に制服の女の子が立っていた。黒くて長い髪は舞い散る桜の花びらと一緒に風に揺れている。黒の探偵、ワタさんはそう言っていた。
彼女はまるで朝からずっとそこにいたかのように同じ場所で桜の木を見つめていた。そして、泣いていた。さすがに朝からずっとというわけではないのだろうけれど、ずっと変わらず立ち続けている様な気がした。朝と何も変わらない光景だったから。まあ、今日は始業式だけだったのでそれほど時間は経っていない。三時間程度である。
目があった。と思ったらなぜか彼女は踵を返し、走り出す。
なぜ僕を見た途端に逃げ出すのだろうか? ……あ、泣いているところを見られたからか。他人に涙を見られたくない、というのは良くわからないけれど、たぶんそうなのだろう。そもそも僕は泣くという行為自体、よくわかっていないのだけれど。
「あう」
慌てて走り出したので黒髪の女子生徒は木の根に躓き、大きな音をたてて倒れた。
僕は自転車を停め、彼女の元に走って行く。地面を顔面で受け止めたらしく、お尻を突き出す形で倒れている。スカートは完全にめくれあがっている。ちなみにパンツの色は白。黒の探偵なのに、中身は純白であった。
「大丈夫ですか?」
僕が後ろから声をかけると彼女は顔だけこちらに向け首をかしげる。近くで見ると思っていたよりも幼い顔立ちである。探偵と聞いていたので、大人っぽい印象を持っていたけれど、僕を見つめる大きな目は少し垂れていて、両方の目元には黒子がある。
そんな可愛らしい顔の持ち主は自分の体制に気付いたのか、顔を真っ赤にして震えだす。
「みみみみみみみみ」
見上げた。桜の木を、そしてその奥に見える春の青空を僕は見上げた。
「……み、見られてない?」
困惑する彼女の声に僕は頭を上げたまま口を開く。
「桜、綺麗ですよね。今が満開ですもんね」
「……早計です」
「え?」
「本当はもっと綺麗になるんです。今が満開という考えは早計です」
そう言いながら黒の探偵(純白)は起き上がり、中折れ帽を拾い下げ被り直す。
「何かの調査ですか?」
「調査?」
首をかしげる黒の探偵さん。百発百中で推理を行う探偵とはいえ、このような訊ね方は慣れていないようである。
「噂で耳にしたんですけど、黒の探偵さんだとか。朝からずっとここにいたみたいですし、何かの調査かと思いまして」
「朝から……?」
首を傾げ、何かに気が付いたように頬をこすって、顔を上げる。
「そうです。探し物をしているんです!」
「探し物ですか」
神森さんがやっている相談屋では良く聞く単語である。探偵さんも似たような案件を抱えているのか。実際の探偵さんというのは相談屋と似たような活動をしているらしい。ということは神森さんも探偵の一種といったところだろうか。自分から名乗っているわけでも、看板を掲げているわけでもないので目の前の黒の探偵さんとは月とスッポンである。
そんなことを考えていると探偵さんは帽子を取り、胸の位置に当てて頭を下げる。
「申し遅れました、並木桜、探偵です」
「或江米太、普通の高校生です」
並木桜さんか、学校では聞いたことがない名前だ。それに桜並木で出会った女の子の名前が並木桜。まるで桜の木の妖精さんの様である。いや、妖精ではなくて探偵なのだった。ん? ……並木?
「もしかして妹さんいますか? ゆずかちゃんっていう」
「或江君、柚香の知り合いなんですか?」
「やっぱりそうでしたか」
「もしかして或江君が王子様? にしては随分弱そうです」
「その王子様の弟です。それに見た目ほど弱くはないです」
王子様の弟などと名乗ったのは久しぶりだ。昨年の夏以来である。神森さんと出会ったお盆のあの日、猫の死体を埋葬し、リコーダーを吹き鳴らしていた小学生、なみきゆずかちゃんに名乗って以来である。ゆずかちゃんはあの後も、消しゴムを無くしたとか、友達とケンカしたとか、そういった些細な問題が起きる度、神森さんのところに相談しに来るので、随分と仲良くなった。どうやら神森さんと姉が相談屋を始めた頃からの常連さんらしく、僕の姉を王子様と呼んで慕っているほどである。
「そうですか。妹がお世話になってます」
帽子をとって、ぺこりと再び頭を下げる並木桜さん。
礼儀正しい彼女に倣い、僕も頭を下げる。
「お世話してます」
我ながら恩着せがましい言い回しではあるのだけれど、小学生にお世話になった覚えはないし、小学校で起きるトラブルや小学生間の噂に巻き込まれているのはこちらなので、間違ってはいないと思う。というか、お姉さんが探偵なら相談屋なんかに頼らずに桜さんに頼ればいいのに。毎回毎回、無理に相談内容をつくってまで神森さん家に来る必要がどこにあるのだろうか。
そんなことよりも、目の前の桜さんである。朝から学校にも行かずにこの桜の木の下に立ち続けているこの探偵さんは、探し物をしていると言った。探し物をしているのに立ち止まっていたということは調査が難航しているのかもしれない。そう考えれば涙の件も納得がいく。そして、探し物の達人なら知っている。内容によっては何か力になれるかもしれない。
「並木さん、先ほどの探し物の件ですが」
「敬語じゃなくていいです。同学年みたいですし」
並木さんは僕のネクタイの色を見ながら言う。
「すみません。これがデフォルトなので。というかそう言う並木さんこそ」
「あ、そうですね。ごめんなさい」
口に手を当てる並木桜さん。ふふふ、と微笑んでいる。なんだか可愛らしい人だ。
「桜でいいです。並木だとややこしいですし」
「わかりました。それで、探し物の件なんですけど。探偵の桜さんにこんなことを提案するのは違うとは思うのですが、その手のエキスパートが知り合いにいるんです。ゆずかちゃんから聞いているかもしれませんけど」
「王子様? 或江君のお兄さんが探し物のエキスパートなんですか?」
「……姉なんですけど」
「お姉さん? 柚香は将来王子様のお嫁さんになると言ってましたけど」
何ということだ、新事実発覚である。ゆずかちゃんは神森さんというお姫様に恋する我が姉を、王子様と表現していたのではなく、ゆずかちゃんが我が姉に恋をしていたからだったらしい。姉がいない間、神森さんの世話を任されている僕のことを慕っているのも、毎回くだらない理由で相談屋にやってくるのも全部、姉に対する恋心があったからだ。なんとも、おませさんな小学生である。
「女のひと? 柚香も女の子で……あれ?」
実の妹のとんでもない真実を耳にした探偵は目の前で混乱している。
ひたすら首をかしげる桜さん。頭の中をハテナマークが埋め尽くしている様である。
「王子様? で探し物の女の子のお姉さん? 柚香の姉は私……?」
どんどん首は左方向に下がっていく。このままでは首を痛めてしまいかねない。
僕はなんとか話題を逸らそうと口を開く。
「それで――」
ぐー。
桜さんのお腹の音が満開の桜並木の中で響き渡った。黒の探偵は考えすぎるとお腹がすくようである。僕はポケットからケータイを取り出し時間を確認する。時刻は十一時半。少し早いけれどお昼ご飯を食べるのには問題のない時間であった。