恋桜事件 01 四月九日 水曜日
桜、それは一年に一度だけ咲く花。この国の人々は桜が咲く頃になると、浮き足立つ。暖かくなる空気と生活や環境の変化、そして出会いと別れ、始まる恋に終わった恋、それらの出来事に対する感情をひとまとめにして、人はこの花を見て浮き足立つ。お花見と称して桜の木の下に集まり、浮かれる。それは古来より脈々と受け継がれる習慣である。
けれど、僕は分らず屋だ。僕は浮き足立ちも、浮かれもしない。暖かくなっていく空気を肌で感じても、桜の花を見ても、僕が浮き足立つことはない。僕は桜に浮かれ、春に浮き足立つ周りの人間を眺め、自分もそうであるかのように振る舞うことしかできない。今までもそうであったし、これからもずっとそうなのだろう。どんなときでも僕は浮かれないし、恋も始まらない。僕が毎年桜を見て考えるのはそんな、どうでもいいことである。
朝の会瀬川は春の日差しを受け、さらさらと流れている。その川沿いの道を僕は自転車で走る。通学というやつだ。僕が通う文月高校は川を挟んで東側にあるので、西側に住んでいる僕はこの大きな川を渡らなくてはならない。
笠佐木橋の向こう側には桜並木がある。この地域では結構有名なお花見スポットなので、休日の昼間になると多くの見物客で賑わいを見せる。しかし、今は平日の早朝だ。満開の桜がただ並んでいるだけである。
笠佐木橋を渡った僕は、何気なく桜並木に目をやる。
春の風に揺れる桜の木の下に、女の子がいた。
桜吹雪の中、流れる長い黒髪に黒い中折れ帽。その帽子と不釣り合いなブレザータイプの制服は、僕が通う文月高校のものである。登校途中なのだろうけれど、彼女は一歩も動かない。ただ左右に揺れる桜の木を見つめているだけである。
そんな彼女の頬には一筋の涙が光っていた。
会瀬川を西から東へと渡り、その先にある東本町の交差点を右に曲がって、交通量の多い国道を進んだ先に僕が通う文月高校がある。川の西側にある僕の家から自転車でだいたい二十分くらいの所で、家から遠くもなければ近くもない、程よい距離だ。
校舎横の駐輪所に自転車を停め、玄関前に張り出されているクラス分けを確認すると僕は三組だった。
今年も三組なのか、と思いながら二年三組の教室に入ると、入り口付近の一番前の席に見知った顔が座っていた。
綿抜草馬、通称ワタさん。一年の頃からの友人である。
容姿端麗、頭脳明晰、運動神経抜群、ただし二次元の女の子にしか興味のない残念なイケメンである。長い脚を組んでタブレット端末を触るワタさんの姿はとても様になっていて、二次元にしか興味がない残念な人だなんてとても思えない。一応、我が校はケータイや端末の持ち込みは許可されているものの、教室内での使用は禁止されている。先生に見られでもしたら没収である。
「今年も同じクラスなんですね」
時間さえあれば端末をいじっているのがワタさんのデフォルトだ。僕が気にせず声をかけると、ワタさんは一度だけこちらに目線を向け、再び俯く。
「……よろしく頼む」
「こちらこそ、いろいろよろしくです」
そう言って、僕はワタさんの隣の席に座ることにする。本当は出席番号順で座らなくてはならないのだけど、始業式まではまだ時間があるし、ワタさんだって明らかに出席番号一番ではない。きっと、決められた席まで行くのが面倒だったので入ってすぐの席に座ったのだろう。端末をいじることと、二次元の女の子に関わる事柄以外は基本的に面倒くさがりなのだ。奇跡的にその席は出席番号一番である僕の席なので、傍から見れば友人の席に座って待っていた健気なイケメンということになる。つまりこれがイケメン補正。
「またゲームですか?」
「ああ、春休み前に新しいのがリリースされてな。これがまたたまらないくらい可愛い子ぞろいで……、育てがいがあるんだ。電化製品の擬人化なんだが、お前も……やるか?」
「遠慮しておきます」
ワタさんはオンラインゲームにはまっている。もちろん美少女もの限定である。初めて会った頃から毎度ぶっきらぼうに「一緒にやろう」と勧めてくるので、一度対戦相手くらいにはなってあげようとしたことがある。自分のケータイで登録を済ませ、チュートリアルが終わって、こんな感じなのか、これなら僕にもできそうだな、なんて思いながら何の気なしにランキングのページを覗いてみた。ワタさんの名前があった。世界ランキングに。一位だった。イケメンな友人が美少女ゲームの世界ランカーだったのである。
僕はその後すぐにそのゲームの登録を解除したのであった。
そんな僕でもある時期を境に学校でケータイを良く触るようになった。もちろん先生に見られないように注意を払いながらである。ある時期というのはもちろん昨年の夏、神森さんの世話役『こいびと』になった時期である。なんてことを考えているとケータイが震えたのでブレザーの内ポケットから取り出す。
メッセージの差出人は『愛しのみも❤』
『いまおきた! やばいちこく!』
『神森さんも今日から学校ですか?』
『あ、ちがった』
『よかったです。今日は昼過ぎには行きますけど起きていますか?』
『かんぞうみつかった! かわええよう』
メッセージでも話を聞いていないマイペースな神森さん。どうして起きたのだろうか。そもそも神森さんは以前から大学に行っている様子がないので遅刻も新学期も関係ないはずである。まあ、行方不明になっていたクマのぬいぐるみ『かんぞう』が見つかったらしいので、早起きは三文の徳になったみたいだ。そういえば神森さんはこの前、『あるじろ、早起きは五文くらいのお得なんだよ』なんて言っていた。三文にしろ五文にしろ、徳をするというのは良いことだ。よかった、よかった。
「いつも……何をやってるんだ? どうせお前も……美少女なんだろ?」
タブレットを触りながら片手間でワタさんが話しかけてくる。
神森さんは美少女というか、どちらかというと美女である。けれどワタさんが言う美少女とは、二次元キャラのことなので、三次元である神森さんの相手をしている僕は、美少女の相手をしているわけではない。
「あなたと一緒にしないでください。ただのメッセージですよ」
答えながら僕もケータイで神森さんとやり取りをする。
『かんぞうは元気ですか?』
『ねむい。もう寝る。おやすみふらみんご』
昼夜逆転の神森さんにとって早起きは辛かったらしい。本当にどうして起きたのだろうか。睡眠不足は良くないので『おやすみふらみんご』とだけ返事をしてケータイをポケットに入れる。
「……友達いたんだな」
「失礼です。僕のような平凡な高校生に向かって友達が一人もいないだなんて」
「一人もいないとは言っていない。……それにお前のどこが普通なんだ?」
「全てにおいて平凡で普通だと自負しています」
言い切るとワタさんは急に端末を机の上に置き、僕を見つめる。僕は姉の様に同性を恋愛対象にはしていないので、ワタさんに見つめられたところで何とも思わないのだけれど、ワタさんは格好いい。というか顔のつくりが僕らとは違う。中身がこれでなければ、彼女の一人や二人ぐらい余裕でできるのだろう。中身がこれでなければ。
そんなワタさんが息を大きく吸って、だるそうな表情で口を開く。
「わからない、わからない言ってるやつのどこが普通なんだよ」
「ちゃんと感情があるフリをしてるじゃないですか。僕は分らず屋なだけです」
「その時点で普通じゃないだろ」
「だから、普通になる努力をしているんじゃないですか」
「俺が毎回渡している情報もその一環だっけか」
「昨日はメッセージありがとうございました。で、今回はどういった情報ですか?」
「まだ読んでないのかよ。……春休み中に広まった校内の噂と出来事のまとめだよ」
「ありがとうございます」
ワタさんは僕にいつも情報をくれる。僕が神森さんに気を取られて見逃してしまうことが多い校内の情報だ。そのおかげで僕は他のクラスメートとの会話に困ることもなければ、校内で起きているもろもろに置いて行かれずに済んでいるのである。普通であろうとする僕には欠かせない情報をくれるワタさんは僕にとって大切な友人なのだ。
「綿抜君ちーっす! 今年も一緒なんだね! ヨロシクー」
声と共に現れたのはいかにも今時の女子高生、といった見た目をした女子生徒だ。明らかに校則違反スレスレの明るい髪は右サイドで結んであり、ブレザー着用の時期にもかかわらず、ベージュのカーディガンを着ている。もちろんスカートの丈もかなり短い。所謂ギャルというやつだ。僕には一年前にギャル化した姉はいるけれど、他にギャルの知り合いはいない。こういうクラスの中心的存在を担っていくような人物と接点があるなんて、さすがイケメンのワタさんである。
「ああ、よろしく……お、レアキャラゲット」
そっけなく返事をするワタさんはタブレットの中の美少女に夢中の様である。
そしてレアキャラに負けたギャルは、僕に気付くと少しがっかりしたように肩を落とす。
「アンタも一緒か」
なんとも残念そうである。どうやら僕のことも知っているらしいので「よろしくです」とだけ言うと彼女はスタスタと自分の席に行ってしまった。
というか、あのギャルは誰だ?
「ワタさん、さっきの人は――」
「マリーだよ」
「マリーさんでしたか」
そういえばその名前はどこかで聞いたことがある気がする。けれど、さっきの人がそうであったかどうか確信が持てない。そもそも彼女はどう考えても日本人だ。顔立ちが完全に純和風というか、ギャルファッションより着物の方が似合いそうな感じだった。制服なので和服もギャルも関係ないのだけれど。……マリーさん、あだ名か何かなのだろう。それにしても全く似合っていないあだ名である。
「……去年も同じクラスだったろ。苗字も名前も丸い――」
一度説明しかけたワタさんは、マリーさんの本名を言ったところで、クラスメートの名前をしっかりとは覚えていない僕には伝わらないと判断したのだろう。首を振り、言い直す。
「よく俺に絡んでくるギャルだよ」
確かにワタさんにしつこく絡んでくるクラスメートがいたのは覚えている。そうか、それがマリーさんだったのか。神森さんの『こいびと』になって以降、より一層クラスメートに関心を持たなくなってしまっているので記憶が曖昧だ。しかし、普通の高校生ならこんなことは日常茶飯事に違いない。自分と深く関わっていない人間の顔と名前をいちいち覚えているなんて、どう考えても普通ではない。