家出事件 18 十月四日 土曜日
「そうですか、ありがとうございます」
電話口で塩尻さんは静かにそう言った。
先月末、塩尻さんが黒の探偵事務所に持ち込んだ依頼、それは二十二年前に起きた殺人事件のアリバイ証明。逮捕された塩尻さんのお父さん、浩二さんが主張したアリバイは、根崎で家出少女と一緒にいたので、犯行は不可能というもの。しかし、その家出少女が見つからず、アリバイは成立しなかった。塩尻さんは浩二さんの無念を晴らすために、その家出少女をずっと探していた。未守さんはその依頼を受けなかったが、結果的に僕は、その家出少女を見つけることができた。
昨日、並木家から帰る直前、菫さんに訊いたのだ。『塩尻浩二という人を知っていますか?』と。なぜそんなことを訊いたのか、理由は菫さんが根崎で暮らしていた家出少女というだけではない。年齢だ。菫さんは十八歳で未守さんを産んだと言った。つまり、現在三十八歳。十六歳で根崎に出てきたのが二十二年前、となる。この三つの情報の一致から、もしかすると何か知っているのではないか、と思ったのだ。そして、その推測は当たった。
『あの頃、私はたくさんの人と知り合っては別れるってことを繰り返していたけれど、その人のことなら覚えてるわ。街頭ビジョンのニュースで見て驚いたから。自分と遊んだ人が殺人犯だったなんて、そうそうあることじゃないもの』
『あなたと塩尻さんが遊んでいたのは犯行があった四月二十日ですか?』
『いえ、私が彼と遊んだのは四月二十一日。そして彼が捕まってニュースになったのが四月二十二日、私の誕生日よ』
というわけで、浩二さんのアリバイは嘘だった。なぜ彼がそんな嘘をついたのかはわからないけれど、彼が家出少女に出会ったのは犯行の翌日だったのだ。
きっと、菫さんの記憶は正しい。自分の誕生日に知り合いがニュースに出れば覚えているだろうし、未守さんも初めから言っていた。『お父さんが殺したんだよ』と。
塩尻さんの仕事がお休みである今日、僕は電話で真相を伝え、お礼を言われた。という流れである。
「別件でたまたま見つかっただけですから」
「報酬はお支払いします」
「いえ、結構です」
「ずっと心につっかえていたものが取れたんです。お礼くらいはさせてください」
「……。なら、オレンジジュースを送ってください。瓶に入った百パーセントのやつ。未守さんの好物なので」
「わかりました。すぐにお送りします」
塩尻さんは最後に、本当にありがとうございました、と言って電話を切った。
僕はケータイをポケットに入れ、自室を出る。リビングでは、未守さんが床に座って、クマのぬいぐるみの『かんぞう』と『じんぞう』で遊んでいた。未守さんはいつものTシャツ一枚の恰好。今日は確か『二人三脚』とプリントされているやつだったはずだ。僕は今、彼女の後ろにいるのでそのプリントは見えないのだけれど。
「『じつはぼくはきみのお兄ちゃんじゃないんだ』『え?』かんぞう! じんぞうが困った顔してるよ。困った顔かわええ」
そんな未守さんの背中に僕は声をかける。
「塩尻さんの件ですが、未守さんは過去に菫さんについて調べたことがあったから、浩二さんのことも知っていた。だから、すぐに答えることができたんですね」
「『ぼくはお姉ちゃんなんだ』かんぞう、お姉ちゃんだったの? 女の子じゃん!」
「未守さん」
「うん。犯人だから捕まったんだよ」
「家出少女が今どこにいるのか教えてくれなかったのは、菫さんが過去を隠して生きてきたからですよね?」
「そうでござる」
頷く未守さんの後ろ姿を見ながら、僕は本題に入る。
「菫さんが未守さんに会いたいと言っています。来週の日曜に並木家の皆さんと未守さん、そして僕というメンツで、ということになりそうですが」
今朝、僕のケータイに桜さんからメッセージが届いた。そのメッセージの内容によると、あの後、菫さんはすぐに夫の努さんに全てを話したそうだ。努さんはすんなりそれを受け入れた。そして、並木家は来週、未守さんを食事に招待することにしたのだとか。展開が早すぎて何とも言えないが、菫さんも努さんも、早い方がいいと思ったのだろう。
「結果的にこんなことになりましたけど、これからどうするかは、未守さんの自由ですよ。菫さんも、未守さんが会いたくないのなら断ってもいいと――」
「ねえ、ある」
「なんですか?」
僕に背中を向けたまま、未守さんは首だけこちらに向ける。
「あるがいてよかった」
笑顔だった。それはもう今まで見てきたどの笑顔よりも、可愛らしく、爽やかな横顔だった。
「ならよかったです」