家出事件 17
「私の家は母子家庭だった。母はスナックで働いていて、住んでいたのはボロボロの狭いアパート。決して裕福とは言えない生活だったけれど、私はそれでも別によかった。
でも私が中学生になる少し前に、母に新しい彼氏ができた。この人がお金持ちな人でね、私達の暮らしはどんどん良くなった。でも、お酒が入ると暴れる癖があって、母はよくその被害にあっていた。私はそんな人とは別れた方がいいって何度も言ったんだけれど、私が中学生になった頃、母はその人と結婚してしまった。私達はそれまで住んでいたアパートからその男の家に引っ越した。私は新しく父になったその人が嫌いだった。でも、母が好きになった人なんだからしょうがないって思ったの。だから、私自身が父に暴力を振るわれるようになっても、耐えた。
そんな生活がしばらく続いて、私が中学を卒業する少し前、母が倒れた。原因は明らかに父の暴力とそれによるストレスだった。病室で、離婚するように勧めた私に、母は怒り、大きな声でこう言った。『あなたを育てるためなんだから、仕方ないじゃない! 子供を育てるのにはお金がいるのよ!』って。私は自分のせいで母が傷ついていたことに、ようやく気付いたの。だから、私は家を出ることにした。私がいることで母が傷つくなら、家を出て、自分で生活しようって」
菫さんは膝に置いていた自分の右手を、左手で握る。それほど、悔しい出来事だったのだろう。
「十六歳になる頃、私は一人、根崎で生活し始めた」
桜さんが前に空き巣について話してくれた時、母方の祖父母に会ったことがないことについて、こう説明していた。菫さんは若い頃に家出をしてきており、結婚して桜さんが生まれた後に実家に帰ると、家ごとなくなっていて、どこへ行ったかもわからなかった、と。つまり、菫さんはこの中学生の時に家出をして以来、親には会っていない、ということだ。
「家出してきた子供が見知らぬ街で生活していくのは、そう簡単なことじゃなかった。けれど、あの街には夜の仕事がたくさんある。私は年齢を誤魔化し、名前も偽って、夜の仕事をいくつかするようになった。たくさんの人と寝て、お金をもらっていた。恋人も何人もいたわ。そうやって、私は根崎で生活していたの」
根崎はこの辺りで一番大きな繁華街だ。中心地と言っても構わない。大きな駅がいくつかあり、多くの企業があり、多くの商業施設、商店街、歓楽街などが軒を連ねている。ビルだらけのこの辺で一番の都会。河部市とは比べ物にならない。そんな街で、菫さんは夜の人間として生活していた。
「根崎に出てきて一年と半年くらいが過ぎた頃、努さんに出会った。努さんは大学生で、友達の紹介で知り合ったの。とても誠実で、真っ直ぐな彼のことを本気で好きになった。でも、そのとき私のお腹には赤ちゃんがいた。もちろん、努さんの子じゃない。彼とはまだそういう関係じゃなかったから。赤ちゃんの父親が誰かはわからない。それは、お金のためにたくさんの人と寝てきた私への当然の報いだった。子供を育てるのにはお金がかかる、中絶するのにもお金がかかる、私には好きな人がいる。まだ子供だった私は過ちを犯した。お腹が大きくなる前に努さんの前から姿を消して、こっそり赤ちゃんを産んで、その子を捨てて、何事もなかったように努さんと付き合ったの」
菫さんは桜さんをしっかりと見て口を開く。
「あの子は私が十八歳で産んだ子よ」
そう言った菫さんに僕は訊く。
「どうして神森家の前に捨てたんですか?」
「たまたま、お客さんから聞いて知ってたのよ。子供ができなくて困っているお金持ちが小与野にいるって」
「そういうことだったんですね」
「お金持ちならこの子を幸せにしてくれるだろう、って。これも子供の考えよね。そして、あの子を捨てた私は、もう二度と同じ過ちを繰り返さないよう、夜の仕事も、一晩限りのお付き合いもやめた。それまでのことは過去として封印したの。それでも生活はしいなくちゃいけないから、いろんな仕事をした。
そして、あの子を捨ててから二年後、努さんが大学を卒業して働き始めた頃、私達は結婚した。すぐに桜ができて、私は子育てに追われた。桜が三歳になって、河部に引っ越すことになった。どんどん大きくなる桜を見ていると、あの子がちゃんと育てられているかどうか気になった。私は探偵に依頼して調べてもらうことにした。そこで初めて私はあの子が未守と名付けられたことを知った。
その一年後、未守は虐待が原因で施設に引き取られた。私は驚いた。ちゃんと育ててくれると思って神森家を選んだのに、実際は私と同じ、いえ、私以上に酷い生活をしていた。私は自分が母親だと名乗って引き取ることも考えた。でも、あの子は神森家の子供として戸籍登録されていて、私とは何のつながりもない。戸籍上はただの他人。そして、私には家族がある。どうすることもできなかった。
その後、柚香が生まれ、私はまた子育てに追われた。未守は施設で元気に過ごしているようだった。こっそり離れた場所からあの子を見に行ったこともあるの。楽しそうにみんなと遊ぶ姿を見ていたら、改めて自分がしたことの重さを実感したわ。
そして、あの事件が起きた。子を持つ親ならきっと誰もが恐怖し、心配したあの事件、それを解決したのはあの子だった。それから私は黒の探偵としてどんどん有名になるあの子が新聞に載る度にスクラップにした。自分の子供が活躍して誇らしいなんて気持ちはなかった。捨てた私はあの子を育てていないもの。ただ、記事を眺めているとあの子と繋がっていられる気がして、私はそれを続けた。結局、それが原因で柚香には辛い思いをさせてしまったけれど」
菫さんの話を、桜さんは真剣な眼差しで聞いていた。
「柚香があの子と仲良くなったって聞いた時はひやっとしたわ。空き巣に入られたときに桜が黒の探偵の調査報告書を持っていた時と同じくらいひやっとした。でも、私は話を聞いているとなんだかうれしい気持ちになった。本当は姉妹なんだもの。仲良くしてくれてありがとう、って言いたかった。でも私にはそれを言う権利はない」
菫さんは俯き、再び左手で右手を握りしめる。
「或江君が柚香を送ってくれるようになって、柚香はあなたのこともよく話してくれた。わたしはあなたについても調べた。黒の探偵の助手をやっていた子の弟で、あの事件の被害者。桜のことも送ってくれるようになってから、ああ、この子は私の子供たちに縁のある子なんだなって思った。だから、いつかお話ししたいって思ってたわ」
そこまで話すと菫さんは僕を見て微笑む。
「こんな形になっちゃったけどね」
そして菫さんは桜さんを見る。
「桜が言う通り、私は甘かった。一度捨てたんだから、隠して結婚して、子供も二人いるんだから、徹底的に隠せばよかった」
「……ずっと後悔してたの?」
そう言った桜さんに、菫さんは頷いた。
「ええ、神森の家の前にあの子を置いた時のことを、一度も忘れたことはない」
『私には育てることができないので、代わりにこの子育ててください』
赤ん坊だった未守さんに添えられた手紙。菫さんは別に未守さんのことが面倒だったとか、嫌いだったとかではない。でも、捨てたことには変わらない。そういうことなのだろう。僕には菫さんの壮絶な過去を聞いても、菫さんの気持ちはわからない。それを直に聞いている今の桜さんの気持ちも、だ。
「今、僕は未守さんとお付き合いしています。助手として一緒に暮らしています。そして、僕が高校を卒業したら結婚する予定です」
「そうなのね。私はあの日、あの子にまつわる全てを捨てた。後悔しているけれど、戸籍上はただの他人、今後、あの子に関わることがあったとしても、それは柚香と桜の母として、です」
「私達はそうはいかない。柚香は黒の……お姉ちゃんにすごくなついてるし、私だって憧れてて、急にお姉ちゃんだってわかって戸惑ってるけど、これからもっと仲良くしたいって思ってる。だから私達は妹として接すると思う」
「あなた達がそうしたいなら構わないわ、でも、私は努さんを、お父さんを騙して結婚した。これからも騙し続けなければならないの。これが過ちを犯した私のやるべきことなの」
「別にすべてを話してもいいんじゃないですか?」
「私もそう思う」
二年前、努さんは生き別れの弟が突然目の前に現れ、それを家族に黙っていた。結果、空き巣に入られ、その弟さんは捕まったのだけれど。
「いきなり弟ができた人ですから、いきなり自分の妻に娘が増えても驚かないと思いますよ」
「もう今更だよ。ちゃんと話そ? それで、黒の……じゃなくて、お姉ちゃんも呼んでみんなで食事しようよ。お母さん料理上手いんだから、お姉ちゃんにも食べてもらお?」
「未守さんはモリモリ食べますよ」
僕の言葉に菫さんは目を細め、口元を緩め、「そうね」と言って、ゆっくりと俯く。そして何かを決心したように、顔を上げ、震える声でこう言った。
「あの子は、私を許してくれる?」
その問いに僕も桜さんも答えることはできなかった。菫さんのしたことは決して許されることではないのかもしれない。それでも、菫さんは母親で、未守さんはその娘だ。未守さんは全てを知った上で『親はいない』といっていたけれど、親はちゃんといた。
「或江君、今日はありがとう」
玄関先で、菫さんはもう一度僕にお礼を言ってくれた。それに続いて桜さんも、「ありがとうございました」と頭を下げてくれた。
「いえ、ちゃんと話せてよかったですね」
僕はそう言ってから、「最後にもう一つ訊いていいですか?」と、切り出した。