家出事件 01 九月二十七日 土曜日
会瀬川沿いにある洋菓子店。お洒落な店構えと安心安定のおいしさ。雑誌に取り上げられるような人気店。僕はこの店によく来る。理由はもちろん、未守さんの好物であるプリンとアイスを買いに来ているからである。だけど、今日は少し違う。
「ゆきっぺ! ただいま!」
「みもちゃん! おかえり、まいどあり!」
エプロン姿で出迎えてくれる、この店の看板娘、幸恵さん。いや、いろいろとおかしい。未守さんの台詞は、自分の家ではない洋菓子店に入って言う台詞ではないし、それに対してあっさりと返す幸恵さんもおかしい。そして何かを購入する前提での言葉までくっついてきている。まあ、ここに入ったということは何かを買うということなのであながち間違いではないのだけれど、まだ購入前だ。
「もりもりケーキふたつください!」
またもやおかしな発言を繰り出す未守さん。まあ、おかしいのはいつもの事なのだけれど。もちろん、この店に『もりもりケーキ』なんて商品はない。
「もりもりケーキ入りました! あれ? 今日はたくさん買うんだね、大人買い!」
元気に答える幸恵さん。まるでラーメン屋さんなどの飲食店のような言い方である。そして、繰り返しになるがここに『もりもりケーキ』なんて商品はない。
「おみやげだからね!」
「そっか、おみやげねー」
言いながら幸恵さんはショーケースからホールケーキを取り出し、箱に詰めていく。
「あるとデートなのでござる」
「二人はほんとラブラブだよねー」
「そうでもあるでござる!」
「羨ましいなー。私も彼氏欲しいよー。友達はどんどん人妻になってくし、毎日親が早くしろってうるさいし」
「早くしないと売れ残ってしまうかもしれませんもんね」
「弟君は黙ってて」
「事実を言ったまでです」
「だいたい、高校生で婚約とか普通あり得ないんだからね?」
「あり得る証明があなたの目の前にいます」
「だから、それは普通じゃないんだって。ケーキ食べちゃうぞ」
「僕らが買ったのはやめてくださいね。それに、太ったら婚期を逃しますよ」
「もうやけ食いよ!」
「ほどほどにしておいてくださいね」
「……はあ、どうしてみんなそんな簡単に結婚できるの?」
「恋愛をすればできるんじゃないですか?」
「してもできないことだってあるよ!」
「ゆきっぺ落ち着いて」
「もうみんななんなの。早く結婚しろとか、売れ残るとか好き勝手毎日毎日……」
幸恵さんは話しながらどんどん表情が暗くなる。
「好きになった上司が妻子持ちだった人間の気持ちも――」
「ゆきっぺ、それはダメ!」
上司? 妻子持ち? 幸恵さんはこの洋菓子店で看板娘をやっているが、家族で切り盛りしているので雇い主はご両親だ。なので、上司とはこの店のではない。この前、幸恵さんが数年前まで警官をやっていたことが判明した。そこで、元上司としてクマみたいな人間の話題を出していた。そして、そのクマみたいな元上司は妻子持ちで絶賛離婚調停中だ。
「それって……」
「今のはナシ! 忘れて。……ホールケーキ大二個で九千円です」
「はい、ある払ってー」
未守さんに言われるがまま僕は支払いを済ませ、ケーキの箱が二つ入った紙袋を受け取る。
「もしかしてあなたが原因だったりします?」
「もう別れたけどね」
そう言った幸恵さんの顔はどこか寂し気で、僕は悪いことをしてしまったと思った。僕には幸恵さんの気持ちはわからない。二十代後半になり、まわりの同世代が次々に結婚し、挙句の果てに知り合いの年下までもが婚約し、毎日親に小言を言われながら過ごしている女性の気持ちも、叶わぬ恋をしてしまった女性の気持ちも、人様の家庭を壊してしまった人の気持ちも、だ。
店の外に出ると、金木犀の香りがした。この時期になると僕らが住むこの街はどこへいっても金木犀の甘い香りがする。僕はそれで秋が来たのだと認識する。まあ、一番は気温の変化と服装の変化なのだけれど。
「とりあえず、おみやげは買えたねー」
未守さんはそう言って僕の手を握ってきた。指と指を絡める恋人つなぎというやつだ。最近は二人で出かけると必ず手を握ってくる。恋人同士で婚約者なので当たり前と言えば当たり前である。そんな未守さんの服装はいつものシャツにホットパンツなのだけれど、その上に黒のカーディガンを羽織っている。丈が長いタイプのものなので、マントみたいになっている。
「とんでもないことを知ってしまった気もしますが」
「まあまあ、そんなことより」
そこで、一回言葉を切って、空を見上げる未守さん。
「おひさしぶりぶりの実家だー」
空は高く、どこまでも青い。これもまた、秋が来たと認識するための材料でもある。