炎上事件 22
クラスの後片付けに花桃さんの姿はなかった。もともと衣装班なので、いなくても咎められることはない。きっと花桃さんはもう屋上で僕を待っているのだろう。そう考えた僕は、少し早めに教室を出ることにした。女の子を長時間待たせるのはあまり良い事ではない。
南校舎の最上階、屋上へと続く階段の前に、白衣姿の霧谷さんが立っていた。霧谷さんと会うのは久美島の事件以来である。花桃さんの主治医であり保護者の彼が文化祭に来ることは何もおかしくない。むしろ、医師として着用しているはずの白衣が、ここでは化学の教員か養護教諭に見えるくらいにマッチしている。プライベートでも白衣を着ているというのは医師としての意識が高いからだろうか? 僕は病院にいるのに白衣を絶対に着ない医者を知っているので、その意識の高さはぜひとも見習ってほしい。
「或江、相変わらず貴様は自分の価値がわかっていないらしいな」
「価値ですか? 僕はただの高校生で、ただの助手ですよ」
「そう思っているのは貴様だけだ。そして、貴様はこれからそれを目の当たりにすることになる。いかに自分が一般人から逸脱しているか、いかに自分が物語の中心にいるのかをな」
「物語ですか。そういえばこの前も言っていましたよね、主軸の物語がどうとか」
「この前みたいにまた小さな物語が挟まる形になってしまったがな。結花はどうも小さな物語に首を突っ込むのが好きらしい。だが、ここからが本番だ。主軸たる物語がまた一つ前に進むことになる。覚悟しろ」
「よくわかりませんが、その主軸の物語って何なんですか?」
「貴様は自分の価値がわかっていない。だからこそ、考えたこともないだろうが、人間というものは役目が決まっている。その役目は主軸たる物語を紡ぐためにある。そして、その物語とは、人類が世界を前に進めるために最も重要なものだ。貴様はその中心にいる」
「壮大な話ですね。僕が中心にいるなんて信じられませんが」
「それはこれからわかる。覚悟して結花の話を聞け」
そう言って霧谷さんは白衣を翻し、立ち去った。僕は花桃さんに会うために階段を上がる。
ドアを開けると、そこには制服姿の花桃さんが僕を真っ直ぐ見つめる形で立っていた。辺りは日が暮れ、空は薄い紺色をしている。
「あっくん、お疲れさま」
「お疲れさまです」
「あのね、あのね。本当は転校をしてきてすぐに、ちゃんとお話しすることになっていたんだけど、わたしが先生にお願いして今日にしてもらったの。理由はわかるよね?」
「夕波さんのことがあったからですか?」
「うん、うん、そうだよ。わたしがやりたかったことは、ゆうちゃんのライブを成功させることだったんだよ」
「やはりそうでしたか」
「……えっと、わたしが誰か、わかっているんだよね?」
「あーちゃん、ですよね? 七年前、僕の家の隣に住んでいた」
「その名前をまたあっくんに呼んでもらえて、すごく、すごく嬉しいよ」
「でも本当に、あーちゃんなんですか? あーちゃんは、雨宮天美は死んだことになっていますけど」
ワタさんの情報によると、あーちゃんこと天宮雨美は河部ハーメルンの後、佐備市に引っ越し、その三年後、両親が交通事故で死亡。彼女はその後、両親を追う形で自殺した。ということになっている。
花桃結花については北海道で占い師として活動し始めた頃からの情報しかなく、花桃さんが『あーちゃん』である証拠はどこにも存在しない。
「ほんとに、ほんとに本物だよ。嘘じゃない。わたしはあっくんの友達だったあーちゃんだよ」
「どうして死んだことになっているんですか?」
「いろいろあったから、かな」
「そうですか。とにかく、あなたがあーちゃんなら、あの事件に一緒に――」
「待って、待って。わたしが話すから」
「わかりました」
花桃さんは小さく深呼吸をしてから口を開く。
「あの頃、わたしとあっくんはいつも一緒だった。どんなときも、どこかへ行くときも、一緒だった。結婚する約束だってしたんだよ。だから、あの日も一緒に遊んでいたの。あっくんが川へ行きたいって言ったから、一緒に行くことにしたの。わたしは川の横でお花を摘むのが好きだったから。でも、わたし達は川に行く途中で捕まった」
「……」
「誰に捕まったのか、どこへ連れてこられたかはわからなかった。犯人達はみんな顔を隠していたの。だけど、捕まったのはわたし達だけじゃなかった。同じくらいの年の子がたくさんいた。何日も一緒にいたから、だんだんみんなと仲良くなった。そんなとき、犯人の一人が言ったの、『殺し合いをしてもらいます』って」
「ちょっと待ってください。あの事件は……」
今から七年前に起きた、河部市児童同時拉致監禁刺殺事件。通称、河部ハーメルンは河部市の各所で同時に二十三人の児童が誘拐され、一カ月以上も監禁され、そのうち十名が犯人達に殺された。そういう事件のはずだ。
「わたしが目を覚ましたときには、犯人達が獄中で全員自殺して、事件は解決していたからね、誰にも言ってないんだ」
「ということは」
「うん、うん。殺し合ったんだよ。わたし達はお腹が空いていた。食べ物を貰えなかったからね。そして、殺したら食べ物がもらえた。決まった時間になると二人だけ縄がほどかれるの。で、包丁を持たされて、殺し合う。どちらかが死ぬと、全員に食べ物が配られるんだよ。選ばれた二人は必死になって生き残るしかない。そうしないとみんな飢え死にしちゃうから」
それが本当なら悲惨だ。
「わたしはずっと、ずっと、このまま選ばれませんように、って祈ってた。あっくんもわたしも選ばれませんように、って。でも、その日はやってきた。あっくんと、あおい園のさっちゃんが選ばれた。わたしとあっくんは、さっちゃんとは特に仲が良かった。捕まってから知り合ったんだけれどね」
あおい園のさっちゃん。その名前は知っている。未守さんと瓜丘さんと同じ施設、あおい園で暮らしていた、彼女たちの妹分だ。
「わたしは怖かった。あっくんにも、さっちゃんにも、死んでほしくなかった。でも、どちらかが、どちらかを殺さないと食べ物はもらえない。みんな死ぬことになってしまう」
最悪だ。犯人達は一体、何がしたかったのだろうか。
「あっくんは動かなかった。それを見てわたしは思ったの。あっくんは優しいからみんなのために、わたしとさっちゃんのために、さっちゃんに殺されることを選んだんだって」
でも、僕は生きている。そして、さっちゃんは死んでいる。
「そしたらね、さっちゃんは、自分で自分の胸を刺したの」
その言葉を聞いて、僕は思い出した。まるで炎が燃え上がるように、鮮明に、思い出した。一気に頭の中をたくさんの情報が駆け巡り、映像が浮かび上がる。今頃校庭で燃え上がるキャンプファイヤーの炎のように。
僕はあーちゃんが好きだった。お花が好きで、髪がふわふわしていて、笑顔が可愛いあーちゃんが好きだった。そして、あーちゃんが誰よりも優しいことを知っていた。だから、あーちゃんを助けるのは僕しかいないと思っていた。あーちゃんのためなら死んでもいいと思っていた。そして、僕らは暗い倉庫でさっちゃんにであった。ショートヘアでクマが大好きな女の子。そんなさっちゃんは、どれだけ怖くても、どれだけ悲しくてもいつも笑顔でみんなを励ましていた。さっちゃんはあーちゃんと同じくらい優しい女の子だった。だから、あーちゃんを守るため、優しいさっちゃんのために、死のうと思った。さっちゃんに殺されようと思った。だけど、さっちゃんは、動かない僕を見たさっちゃんは、僕を殺すことを選ばなかった。包丁を置き、僕に近づいて、こう言った。
『あっくんは優しいね。そして強い。あーちゃんのためだったら何でもできちゃうんだね』
言った後、包丁を持つ僕の手を両手でつかんできた。そして、さっちゃんはいつもみんなを励ます時の顔で『私もだよ』と言って、僕の手を、包丁を持つ手を、自分の胸に突きつけた。
みんなのために、僕のために、自ら死を選んだのだ。
『……あーちゃんと幸せになってね』
僕の腕の中で、最後にさっちゃんはそんなことを言っていた。
「さっちゃんは、あっくんのことも、みんなのことも、守ってくれた。だから、わたしたちは生き残れた」
一気に思い出したからなのか、意識がだんだん遠のいていく。先月、記憶を取り戻した時はこんな風にはならなかった。けれど今回はわけが違う。銃弾のショックで失っていた記憶ではない。自分を守るために自ら封印した記憶だ。七年間、ずっと蓋をしていた記憶だ。それがたった今、解き放たれた。
「さっちゃんに、ありがとうって言わなきゃだね」
薄れていく意識の中で、花桃さんは桃色の目を細め、微笑んでいた。
「あっくんが無事でよかった」
第八章、炎上事件でした。最初にこのシリーズを書き始めた頃から文化祭編がやりたくて、いろいろ考えていたんですが、こういう形になりました。そして、ついに河部ハーメルンの真相が明らかになりました。ある君とみもちゃんはこれからどうなっていくのでしょうか。次も読んでいただけると嬉しいです。