炎上事件 05
桜さんと別れ、アオ井コーポの二○三号室に帰ってきた僕を待っていたのは、愛しの婚約者ではなかった。
「おかえり、弟君」
僕が家に入る音を聞いて玄関にやってきたその人は、チワワのような大きな目で僕を見つめる。
僕は思わずさっき閉めたドアを開け、表札を確認する。ドアのプレートには『黒の探偵事務所』と書かれている。間違っていない、ここは僕と未守さんの家だ。
「弟君、どうしたの?」
「どうしてあなたがここにいるんですか?」
「久々にお休みがもらえたから、遊びに来ただけだよ。うちの両親、毎日毎日お店に立たせられるのがどれだけ疲れるかわかってないんだよ。娘だからってこき使いすぎだと思わない?」
そう言う幸恵さんはいつも僕が見ている格好とは違う。ここは洋菓子店ではないので当たり前と言えば当たり前だ。いつもの白いエプロンも、白いバンダナもしていない。私服、それも可愛らしいフリフリのワンピース姿だ。似合っているのだけれど、年齢を考えると少し子供っぽいかもしれない。
雪村幸恵、未守さんが愛してやまないプリンとアイスを売っている近所の洋菓子店の看板娘さん。歳は二十代後半、独身、恋人無し。一年と少しの間、あの洋菓子店には数日に一回のペースで通っているので、見慣れた顔だけれど、やはりここにいるのは違和感がある。
「遊びに来たって、未守さんと友達だったんですか?」
「言ってなかったっけ? 三年前くらいかな、私が警官してた時に仲良くなってねー。その頃からみもちゃんはうちの常連さん。いつも助かってるよ」
「警官だったんですか?」
意外である。というか本当の事か疑ってしまう。この看板娘ですらできているか怪しい人が元警察官? しかし、それが本当なら辻褄が合うのである。この人は一度も店に行ったことがないはずの未守さんを『みもちゃん』と呼んでいたり、僕の姉と仲も良く、僕が未守さんのお世話をしていることも知っていたのだから。彼女が言うように三年前、つまり未守さんが黒の探偵として大活躍していた頃に警官として知り合っていたのなら納得がいく。
ということはこの幸恵さんは白の狂犬のこともその因縁、僕の姉や僕の立場も知った上で、あくまで洋菓子店の看板娘として接してくれていたのか……。
「そんなことより! 今、みもちゃんに聞いたけど、小鳥遊家のお屋敷で黄金の菓子職人に会ったんだって?」
「はい、会って話しましたけど」
黄金の菓子職人、金永光哲さんとは先月、久美島で会った。元格闘家のマッチョでオネエキャラの彼と一緒にプールで遊んだ。
「レシピは?」
「はい?」
「黄金の菓子職人は知り合った人をイメージしてお菓子を作るのよ。で、それをレシピごとプレゼントするの。みもちゃんと弟君で二つ。あるんでしょ? 早くちょうだい! うちで売るから!」
知らなかった。金永さんはそんな活動をしていたのか。僕は黄金の菓子職人の存在も知らなかった人間なので、そんな活動も知るはずがない。当然、レシピもない。というか僕は未だに金永さんのお菓子を食べたことがない。
「あの黄金の菓子職人が作ったものなら絶対においしいし、ネームバリューも話題性もばっちり、それが二種類もあるんだから、うちは丸儲け! そしたら私のお給料も上がって、欲しかったブランドのカバンや服がたくさん買える!」
幸恵さんは完全に金の亡者になっていた。そもそも自分が会ったわけじゃないのに。他人のふんどしでどれほど稼ぐつもりなのだろうか。
「夢が膨らんでいるところ申し訳ないのですが、レシピはありません。そもそもお菓子を作ってもらっていません」
「なんでないのよ!」
「小鳥遊家の結婚式に招待されて行ったんですけど、急遽中止になったんですよ。金永さんも僕らも、予定より早く帰ることになったので、そんな余裕なかったんじゃないですか?」
「役立たず!」
「たーちーばなしーはーよくない、ばしー」
リビングの方から未守さんの歌声が聞こえてくる。
すっかり玄関で話し込んでしまった。僕は膝をつき、うなだれる幸恵さんを置いて、リビングへ入る。
「ワシは背中がかゆいよ!」
そう言って未守さんは床で背中をこすっている。お客さんが来ているのでワイシャツにデニムのホットパンツというお決まりのスタイル。背中を必死にかくその姿はなんだかクネクネしていて可愛らしい。僕は床に座り、クネクネ動く彼女を起こして背中をかいてあげる。
「きもちー」
「未守さん、幸恵さんが元警官でお友達というのは本当ですか?」
「弟君、私を信じてないの?」
リビングに戻ってきた幸恵さんはそう言って床に座る。
「一応、確認です」
「きもちー」
「未守さん」
「うむ、ゆきっぺが言ってるので合ってるでござる。あ、かゆくなくなったよー」
「わかりました」
僕は未守さんの背中をかくのをやめて、立ち上がる。とりあえず着替えなくては。
「つまり、元々お友達だった幸恵さんは、久しぶりにお休みをもらったから、ここに遊びに来たというわけですね」
「少し違うけどね。正確には依頼をしに来たのです」
「依頼?」
そう言って僕は再び床に座る。
「そう、黒の探偵にね」
「そろそろ、きくかー。きくかーにばるふぇすた」
言いながらクマのぬいぐるみと共に転がる未守さん。全くもって人の話を聞く体勢ではない。ましてや、今から恵さんが話すのは仕事の依頼だ。黒の探偵として探偵業に復帰したとはいえ、自由なのは相変わらずである。
「最近起きている放火事件なんだけど、知ってるよね?」
「はい、今朝もニュースで見ましたよ」
八月下旬から市内の各所で夜中に空き家やゴミ捨て場に火がつけられている事件。確か昨日の晩、六件目の放火があったばかりだ。
「それをみもちゃんに解決してほしいんだけど」
「警察が捜査しているんですよね? どうして未守さんに?」
「警察はいたずらだからってあまり本気じゃないんだよね。元上司に頼んでみたんだけど、あの人、離婚調停中だから」
「その元上司はきっとクマみたいな見た目をしているんでしょうね」
「そう、クマ。三十五歳のクマ」
僕はクマ……じゃなくて、朝見刑事を見た目と娘さんの年齢(三歳)から三十代前半くらいだと推定していたけれど、その推定は合っていたらしい。三十五歳が前半になるのか後半になるのか、よくわからないけれど、三十代前半と言っても大丈夫だろう。
「それで、みもちゃんに」
「でも待ってください、どうしてそれをあなたが依頼するんですか? お店を燃やされたわけじゃないでしょう?」
「一市民としてだよ! 物騒な事件が起きていたら売れるものも売れないし」
「なっとくっちょ!」
未守さんはそう言って立ち上がる。そして、碧い目を閉じる。
「んーんー」
探偵が考えるモードに入ったということは、仕事を受けるということだ。助手である僕はそれに従うまでである。
「報酬は前と同じでいいんだよね?」
「はい。僕は実際の金額とか知らないんですけど、昔と同じ料金表みたいです」
「放火殺人だからけっこういくな、こりゃ」
「殺人? 確かに一件目の放火で死傷者が出ていますけど、火事に巻き込まれただけだって聞きましたよ」
「警察はそう見てるけど、私はそう思ってないんだよね」
「どうしてですか?」
「なんとなく」
「なんとなく、ですか」
元警察官の勘というやつなのだろうか、それとも桜さんのように女の勘というやつなのかもしれない。それにしても自分が住んでいる地域で事件が起きているからといって自分のお金を使って探偵に解決を依頼する人はなかなかいないだろう。これは元警官だから、平和維持に対して意識が高いからなんだろう。
「んーんー」
「ねえ、弟君。今日のみもちゃん、いつもより長くない?」
「そうですか? いつもと同じ気がしますけど」
「昔はもっと早かったよ?」
「そうなんですね。僕が助手になってからは、時間がバラバラなので特に気にしていませんでした」
「なにかあったのかな?」
「特に何もないと思いますけど」
「んーんー」
「あれかな? 今回の依頼内容が複雑だからかな?」
「そうは思いませんけど」
それからしばらく、未守さんは唸っていた。僕らは待つことしかできないので、未守さんの姿を眺めることしかできなかった。
「あ! わかったっぴよ!」
未守さんが目を開け、手をあげる。
「待ってたよ、みもちゃん! 犯人は?」
幸恵さんは勢いよく立ち上がり、未守さんに抱き着く。
「家に帰れなくなった人だよ」
『家に帰れなくなった人』
迷子だろうか? それともホームレスだろうか? それだけ聞いてもわからない。いつもこういう謎な表現をする未守さん。それを解読し、解決への道を手助けするのが僕の役割だ。まずは現場を見てまわるところから始めよう。そうすれば何か見えてくるかもしれない。そう考えながら、僕も立ち上がる。
「あ、今回は、あるは手伝わなくていいよ」
「え?」
「あるは文化祭がんばって。ワシは大丈夫だから」
笑顔でそう言う未守さん。探偵に、雇い主にそう言われてしまったら、助手の僕は従うしかない。今回は未守さんだけでなんとかなるようだ。
「……わかりました」
僕が頷くと、未守さんは僕の後ろに回り、背中を押してくる。
「はい、あるは明日のために寝て―」
「まだ寝ませんよ。それにご飯は誰が作るんですか」
「ゆきっぺがケーキ持ってきてくれたから」
「ダメです。体に良くないですよ」
「むぅー」
僕は振り返り、不機嫌そうに頬を膨らます未守さんの頭を撫でる。
「何が食べたいですか?」
「チキン! ワシはチキンがいい!」
「じゃあ、鶏肉の照り焼きにします」
「わーい!」
喜んで飛び跳ねる未守さん。なぜかその隣で一緒に喜んでいる幸恵さん。どうやら今日の夕食は三人で食べることになりそうである。