第47話 幸せに
早朝の旅立ちに向け荷造りをしていると、部屋の扉が遠慮がちに叩かれた。
ノックの仕方で来訪者が誰だかわかる。
ヴァージニアは深呼吸をすると、ゆっくりと扉を開けた。
「……ノア」
「お加減は、いかがですか?」
「うん、ようやく落ち着いてきたわ。……ありがとう」
動揺を押さえて彼を招き入れた。ソファに座るように促すが、ノアはその場に立ったまま動かない。
「ヴァージニア様。……城を、出られるそうですね」
ノアのためにお茶を入れていたヴァージニアの手が一瞬止まる。
(……セフィ兄様……。明日になってから伝えてって、言ったのに)
声に感情が出ないよう、わざと嗜めるように言った。
「今ね、メイソンは自主謹慎中よ。今回のことは彼のせいではないのに、ひどく自分を責めているの。あなたのせいよ、ノア。単独行動に走るから」
救出の手柄をメイソンに譲っていれば、少なくとも彼は名誉挽回の機会を得たのに。
「……そんな余裕、ありませんでしたから」
ぽつりと呟き横を向いたノアに、ヴァージニアは苦笑した。
うん。知ってるわ。
そして、ごめんね。不謹慎だけれど、そのことがとても嬉しい。
ノアの方に向き直って、逸らされたままの彼の顔を見ながら、ヴァージニアは明るく告げた。
「そうよ。私、明日城を出るの。エストレア王室から抜けて、フォルセラト孤児院の院長になるわ。……レアルナ院長も、私がそうしたいなら、いいって言ってくれてる」
「本気ですか、ヴァージニア様」
「ええ。……前に言ったでしょ、私、もし王女じゃなかったら、学校の先生になりたかったって」
夢が叶うのよ、と、テーブルにカップを置いた。
「寂しくないわ。だって、あの子達は私の子供のようなものだもの。明日から孤児院へ行って、院長として、この先誰かと出会っても出会わなくても、後悔をしない幸せな人生を送るわ」
「…………」
「……?ノア、お茶、準備できたわよ」
いつまでも同じ場所に突っ立ったままのノアを再度促すと、眉根を寄せたままのノアが、搾り出すように呟いた。
「……今なら」
「え?」
ノアの顔が上げられ、碧眼が真っ直ぐにヴァージニアを射抜いた。
久しぶりに正面から見る彼の顔に、ヴァージニアの心臓がどきりと跳ねる。
「今なら、何でも一つだけ命令を聞きましょう。どんなことでも構いません」
「……何でも……?」
「はい」
「…………」
ヴァージニアの瞳が、一瞬迷うように揺れた。
何でも言うことを聞いてくれる。何でも。……何でも。
きっとこれが、最後の機会。
でも。
瞼をぎゅっと閉じると、ヴァージニアは晴れやかな笑顔でゆっくりと告げた。
「じゃあ、ね……。ノア・エヴァン・グレイソン。幸せに、なりなさい。……命令よ」
最後の。
心の中で付け足した。
「……はい、ヴァージニア様」
無表情のまま、ノアが答える。
その言葉にヴァージニアは笑って頷くと、静かに息を吐いて俯いた。
終わった。
もう、振り返らない。本当に、これで終わり。
―――そう、思ったのに。
「っ、ふぇっ?」
突然視界に影が差し、驚く間もなく正面から抱き締められた。
全身がノアの匂いに包まれる。柔らかく、しかし力強い抱擁。
一瞬で顔が沸騰する。
「―――、っ……」
思考停止した頭のまま、ただノアの肩口に顔を埋め硬直するしかない。
(え、えええ、な、なんでっ……)
大恐慌に陥ったヴァージニアとは打って変わって落ち着いた様子のノアは、彼女を抱きすくめる腕を少し緩めると、小さな右肩にそっと額を乗せてきた。
「姫様」
いつもよりも幾分低い声が確かな甘さを伴って直に耳朶を打つ。
「ヴァージニア様。……ご命令に、従います。……私と一緒に、幸せになってくれますか?」
「―――っ」
(……嘘でしょう?)
ヴァージニアは泣きそうになりながら目を見開いた。
幸せになる。一緒に。それって、……それって。
「……姫?」
死ぬ。ドキドキし過ぎて、このままでは死んでしまう。
なぜ、一体どうして、急に。
ずるい。人がせっかく諦めようとしているのに、今更そんなことを言うなんて。
感情を逃がすために必死で言葉を探して搾り出す。
「そ、それ、やめて」
「え?」
「ジーナって、呼んで。私もう、姫じゃなくなるんだもの」
瞬間、身体に直に感じるノアの心拍数が上がった。
そのことに堪らない安堵を覚える。
「……ええと、はい、では、えっと、……ジ、ジーナ」
思い切りどもりながら恐る恐る紡がれた愛称に、ヴァージニアは吹き出した。
「ぷ、あはは、どれだけ躊躇ってるのよ、あんたってほんと、……っ、ほん、とに……っ」
笑い声は段々と小さくなり、やがて消えた。
代わりに零されたのは、吐息のような震える声。
「……だいすき、大好き、ノア」
一度溢れたら、止まらなくなった。
「……はい」
抱き締める腕の力が再び強くなる。それに励まされるように、ヴァージニアは息を吸った。
「ずっと好きだったの、優しいところも、ほんとは勇気があって強いところも、ちょっと意地悪なところも、大好きだったの」
「はい」
「ひどいことばっかり、天邪鬼なことばかり言ってごめんなさい。ほんとはずっと素直になりたかったの。素直になって、あなたと手を繋いだり、抱き合ったり、キスしたりしたかったの」
「……ヴァージニア、様」
小さく掠れた声に、ヴァージニアの肩が震えた。
「……な、何よ」
精一杯虚勢を張った声に、思わず笑みが漏れる。
そして笑顔のまま、ノアははっきりと告げた。
「ヴァージニア様。私も、あなたが大好きですよ。愛しています」
「―――っ」
小さな耳が、真っ赤に染まる。
俯いたヴァージニアの表情は見えないが、どんな顔をしているかは容易に想像がついた。




