第42話 霹靂
「……え、ほ、本当に……?」
時々思い出しては、その安否に思いを馳せる存在であったとしても、恐らくもう一生会うことはないと思っていた、自分と同じ元王直属の暗殺者、アリーシャ。
だから、王太后メイシーラが他界してからしばらく王宮を留守にしていたセルフィエルに好きな女性が出来、その相手がアリーシャだと知った時には、心底驚いた。
だが同時に、ひどく安堵してもいた。
アリーシャは生きていた。ちゃんと生きて、生活していた。
そして詳しい経緯はわからないがセルフィエルと出会い、もしかしたら将来を共に歩んでいくことになるかもしれない。
セルフィエルは明るく冗談もよく言い女性経験も豊富だが、一度本気になったものには真剣に向き合う誠実さを持った人間だ。彼に愛されれば、アリーシャはきっと幸せになれるだろう。
しかし困ったことがあった。
2年間務めた王室師団長を辞任し、アリーシャの村のあるドーラムの州都、シェットクライド州の知事になると言い出したセルフィエルは、後任の師団長にノアを指名したのだ。
副団長に抜擢されたときよりも遥かに強く、ノアは固辞した。
さすがにこれは幼馴染というコネを利用した人事だと蔑まれても仕方がないし、実際ノアはそう感じた。
私情を挟んで権力を行使することは、セルフィエルの評判を落とすことになる。
そう言い募ったが、セルフィエルは笑顔で首を振った。
「以前にも言ったけど、決して幼馴染を贔屓したつもりはないよ。客観的に見ても、お前は適任だ。お前には及ばないが、俺も人を見る目はあるつもりだよ。いいか、ノア。お前の役目は、次期王室師団長を育てることだ。もともと長く務めてもらうつもりはない。着任式までに、副団長を指名しろ。そして俺が王都に戻る頃には、作戦参謀の地位についてもらう」
それに、と付け加える。
「ジーナのことも、よろしく頼む。あいつは美人だが勝気なじゃじゃ馬だ。目を離すと何をするかわからない。危ないことをしそうになったら止めてくれ。顔に傷でもつけて、只でさえ少ない嫁入り先がさらに減ったら困るからな」
「……ヴァージニア様は、俺の言うことなんか、聞かないと思うよ」
弱弱しく吐き出された声に、セルフィエルは悪戯っぽく口角を上げた。
「聞くさ。何たってお前は」
ジーナの、初恋の相手だからな。
そう言って片目を瞑った幼馴染に、心中で溜息を吐く。
一体何年前の話をしているのか。
王室師団長に就任してから、ヴァージニアと接する機会はぐんと増えたけれど、彼女のノアに対する態度は相変わらずだ。ささいなことで怒ったかと思えば、数分後には笑顔でノアを振り回す。
母親と共に療養生活を余儀なくされていた子供時代を振り返ると、ここまで健康的に天真爛漫に成長したことに感慨を覚え親のような気持ちになる。
無茶な要求をされれば困惑するし、素直に従うべきか迷うときもある。
だが彼女の命令に右往左往するのは、決して嫌ではなかった。
ある日、ヴァージニアのわがままで市街にお忍びで出掛けた。
彼女を見失った時のことを思い出すと、今でも肝が冷える。
背筋が凍りつくような感覚に、改めて彼女がどれ程自分にとって大切な存在かを思い知らされた。
彼女に何かあったら、自責の念と喪失感で死んでしまうかもしれない。
誇張でなく、本気でそう思った。
だからこそ、隣国の刺客に襲われていた彼女を見たときには全身の血が凍り、思わず襲撃者の命を奪う寸前までいってしまった。ヴァージニアの制止の声がなかったら、間違いなく男の喉笛を掻き切っていただろう。
その後二人で湖畔に座り、ノアの生い立ちについて話した。
ヴァージニアには面白いとも思えない人生だったと思うが、それでも彼女は琥珀色の瞳を大きくしてノアの話に熱心に耳を傾け、そしてなぜか、唐突に泣き出した。
「だ、大丈夫ですか!?どうしたんですか?あああ、あんまり擦っちゃ駄目ですよ、赤くなっちゃいますよ」
「……っ、うるさい……っ」
一体何が、彼女を悲しませてしまったのだろう。
遣り取りを思い返してみても、全く心当たりがない。
予想外の事態にただ狼狽するノアを苛立たしげに睨み付け悪態を吐くと、ヴァージニアは膝を抱えて顔を伏せてしまった。
「…………」
セルフィエルと違いこういった経験の少ないノアには、どうしたらいいのか皆目検討がつかない。
黙って涙を流し続けるヴァージニアを前にひたすら視線を泳がせ冷や汗を流し、おたおたと散々迷った挙句、恐る恐る右手を上げ、その小さな頭に触れた。
ヴァージニアは僅かに肩を揺らしたが、抵抗はしなかった。
そのことにほっと安堵の溜息を漏らすと、ノアはゆっくりと、壊さないように、ふわふわとした金髪を撫で続けた。
徐々に泣き声が小さくなっていき、鼻を啜る音に変わり、やがて小さな寝息が聞こえ始める。
「……ヴァージニア様?」
返事はない。
どうやら、泣き疲れて眠ってしまったらしい。
(こういうところは、まだ子供だなあ……)
気付けば辺りはすっかり暗くなり、気温もぐんと落ちた。
何か上着を持ってくれば良かったのだが、生憎慌てて出てきたせいで何もない。
「……仕方がない」
膝を抱えた体勢のまま眠るヴァージニアを起こさないように慎重に彼女の背後に回ると、少しでも暖かくなるようにその小さな身体を立てた膝の間に収める。
ヴァージニアの背中と自身の胸を密着させると、そこから温もりが伝わってきた。
「……ん……」
ヴァージニアの頭がくらりと揺れ、人肌の温かさを求めるようにノアの胸に頭を預ける。
閉じた目尻に残る涙の跡を、ノアはそっと指先で拭った。
今日は疲れただろうから、もう少し経ったら起こして、城に帰ろう。
ノアは微かに笑みを浮かべると、ヴァージニアの胸の前で両手を組み、秋の夜空を見上げた。
どれくらいそうしていただろうか、腕の中のヴァージニアが身じろぎをしたことでノアはふと我に返った。ヴァージニアは瞼を震わせ、今にも目を覚ましそうだ。
反射的に、まずい、と思った。
冷静に考えると、この体勢はヴァージニアを後ろから抱き締めている構図になる。
ヴァージニアが気が付けば盛大に騒ぎ、そして烈火のごとく怒るのは明白だ。
(どうしよう)
良い言い訳が思いつかない。
ありのままを告げたとしても、きっとヴァージニアは納得しない。
寒さから守ってくれてありがとう、などとは絶対に言わない。
結局何も思いつかなかったノアが取った行動は、狸寝入りだった。
瞼を下ろし、顔を伏せる。
それと同時に、腕の中の身体がもぞもぞと動いた。
どうやら目を覚ましたらしい。
怒鳴り声が先か、手が出るのが先か。
しかし予想に反してヴァージニアは、小さく密やかな笑い声を漏らし、ゆっくりと身体の向きを変えノアに向き合った。
(……?)
内心不審に思いながらも寝たふりを続けるノアにヴァージニアが取った次の行動は、驚くべきものだった。
間近に甘い吐息を感じた瞬間、唇にしっとりと柔らかなものが触れた。
「―――っ」
声が出そうになるのを、何とか飲み込む。
感触は一瞬で、すぐに離れていった。
何が起こったのかわからない。
いや、頭が認めるのを拒否しているだけで、本当はわかっている。
ノアの思い違いでなければ、あれはキスだった。
ヴァージニアが、ノアに口付けたのだ。
完全に予測の範囲外、まさに青天の霹靂だった。
心の中で歯噛みする。
セルフィエルはノアのことを策士と呼んだが、とんでもない。
本当に策士ならば、何故もっと早くこの可能性に気付けなかったのか。
そう、願わくば、彼女が自身の想いに気付くよりも先に。
今更考えたが、もう遅い。賽は投げられたのだ。
それはノアにとって、人生最大の計算違いだった。




