第40話 軌跡
その時の感情を、何と言おう。
あれから十年余り経った今でも、ノアにはうまく説明できる言葉が見つからない。
驚きと、畏怖と、歓喜がごちゃまぜになった正体不明の衝動が胸を衝き上げた。
圧倒されたのだ。
その、純粋さゆえに曇りなく強い光を放つ輝きに。
熱さえ感じるほどの生命力に。
もしかしたら、夜から突然朝に変わったことで陽の光をより明るく感じたのかもしれない。
もしかしたら、精神的に弱っていたところに突然現れたから、より衝撃が大きかったのかもしれない。
しかしそんな後付けの理屈を抜きにして、ヴァージニアとの出会いは抽象的でありながら強烈に鮮烈な印象で、ノアの記憶に焼付いた。
「……ねえ。ねえってば。あなた、だれ?わたしがしつもんしているのよ、こたえなさい」
そう言ってまだ幼児と言える女の子は、両腰に手を当てて胸を張った。
金の髪に、金の眼。真白い肌に、真白いワンピース。
この容姿も、彼女が有り得ないほどに眩しく見えた要因の一つであるのかもしれなかった。
しばらく瞠目したまま硬直していたノアは、ようやく我に返り、何とか強張った声帯を動かす。
「……あ。……ノア、です」
瞬間、女の子の顔がぱっと明るくなった。
「なんだ、ちゃんとおしゃべりできるのね!ノア!ノアね。わたしはね、ジーナっていうの」
ジーナ?
どこかで聞き覚えがある名だ。
(……ああ、そういえば。メイシーラ様がよく口に出されていた)
第一王女ヴァージニア・メリッサ・エストレアの愛称は、ジーナだった。
***
それからというもの、城の中でヴァージニアはノアのあとばかりをついて歩くようになった。
ヴァージニアは身体が弱く、エストレアの王宮と保養地を母親のメイシーラと共に行ったり来たりする生活だったが、限られた王宮の滞在時間の中でノアの小さな私室の場所を探し当て、療養から戻ったときには真っ先に訪ねて扉を叩いた。
二人が一緒にいるのを見ても、王も王妃もただ笑っているだけだった。
王妃は純粋にヴァージニアに遊び相手が出来たのが嬉しかったのだろうし、また王はヴァージニアと接することでよりノアの王家に対する忠誠心が強くなると考えたのだろう。
初めのうちは、無邪気に慕ってくる王女にどう接したらいいのかわからなかったが、次第に部屋に響くノックの音が待ち遠しくなった。
昼間は自主鍛錬、夜は暗殺業。
丸一日、誰とも話さない日の方が多かった。
ヴァージニアは、そんな暗澹とした日々に差した、一筋の光だった。
パタパタパタ、と小さな足音が聞こえて。
コンコンコン、と、軽いが、精一杯叩いているのがわかる音。
弾む胸を押さえながら、寝台から降りる。
昨夜も仕事で帰りは明け方だったが、眠気など欠片も感じなかった。
「はい」
扉を開ける。すると、目の前に満面の笑みを浮かべたヴァージニアが立っている。
「おはよう!ノア!きょうは、なにして あそぶ?」
小さな口をいっぱいに動かして向けられた笑みに、ノアもつられて口元が綻ぶ。
「……おはようございます、ヴァージニア様。なんでも、ヴァージニア様のしたいことをして遊びましょう」
彼女といると、自然に笑顔になれた。気付くと口数が多くなっていた。
11歳のノアは、3歳のヴァージニアに、人との関わり方を教わったのだ。
彼女は王女だ。こんな時間がいつまでも続くわけはない。
そんなことはわかっていたが、期限付きの幸せでも良かった。
いつか彼女が離れていっても、彼女と過ごしたこの時間が放つ光だけで、迷わずこの先の人生を歩んでいける気がしたから。
(グリエル様、メイシーラ様、ザフィエル殿下、エル、そして……ヴァージニア様)
自分の人生は、彼らエストレア王室のために捧げよう。
こんなにもはっきりと人生に価値を見出し、生きる理由を持てる自分は、世界一の幸せ者だと思った。
***
ある日、貴族の息子たちに馬鹿にされ、囃し立てられているのをヴァージニアに目撃された。
ノアにとってはこんなことは城に来た頃から日常的に起こっていることで、何ら特別なことではなかった。だがヴァージニアにとっては、ひどく衝撃的な出来事だったらしい。
「お前、陛下に引き取られた孤児なんだってな。どこの馬の骨とも知れない卑しいガキに住む場所を与えるなんて陛下は何てお優しいんだろうって、お父様が言ってたぞ!」
「お情けで王宮に置いてもらってる分際でヴァージニア様と親しくしやがって生意気なんだよ!身分を考えろ身分を!」
正直、全く腹は立たなかった。彼らの言っていることは全て紛れもない事実だったからだ。
今までならばただ無表情に彼らが飽きるのを待っているだけだったが、最近豊かになった表情筋が苦笑を形作る。
本当に彼らは全く正しく、真実を言っているだけなのに、それでノアが傷つけようとしているのだから、的外れもいいところだった。
「何へらへら笑ってんだよ!気持ち悪いんだよ!」
どん、と肩を押され、尻餅を付く。
受身を取ったので痛みはないが、彼らの真剣さがますます可笑しい。
「こいつ、突き飛ばされても笑ってやがるぜ、救いようのない弱虫だな。……行こうぜ、同じ空気吸ってると貧しさが移る!」
彼らが去ってしまった後。
ヴァージニアが現れ、突然怒鳴られた。
「やりかえさないなんて、いくじなし!よわむし!……よわむしなノアなんて、」
すう、っと大きく息を吸って。
「だいっきらい!!」
幼い王女は顔を真っ赤にし、琥珀の瞳に涙まで浮かべ、ぷるぷると小刻みに震えながら言い放った。
「…………」
ヴァージニアは唇を引き結び、呆気に取られているノアを睨み付けている。
(……なんで、こんなに怒ってるんだろう……)
不思議だった。ヴァージニアの言動が理解できずに、まじまじと大きな双眸を見返す。
彼らに馬鹿にされたのはノアなのに。
彼女自身が怒る理由など、全くないというのに。
だけど、自分のために、我が身のように怒って、悔しがってくれる人がいる。
理由などなしに、憤って、泣いてくれる人がいる。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
だから。
「…………はは、」
状況を忘れて、笑い声が零れた。
そんなノアを見て、ヴァージニアはまた眉根を寄せる。
「なにが おかしいのよ!」
「いえ……ありがとう、ございます」
「なんでありがとうなのー!」
きぃっ、と地団太を踏む王女を前に、ノアはついに堪え切れなくなり声を上げて笑い出した。
空を見上げる。快晴の、雲ひとつない青空だ。
ヴァージニアの人生も、この空のように一点の曇りも憂いもないように。
(守るんだ。……俺が)
純粋無垢で真っ白な、優しい優しい王女様。
この娘が、誰よりも幸せになれるように。
笑い続ける彼に、ヴァージニアは怒りを通り越して呆れ果てたようだった。
そうして。
その日から、ノアは彼女の下僕になった。




