第39話 邂逅
覚えている一番古い記憶は、鉄の焼ける臭いと煙と炎に染まった鍛冶場の風景だった。
現在はエストレアの一部となっている、東の軍事国家クレムストンとの国境にある小さな村が、ノアの故郷だ。
人口僅か数百人のその村では、住人のほとんどが隣町の鍛冶場で働いており、ノアの両親も朝早くから夜遅くまで煙と炎に包まれて仕事をしていた。
生活は楽ではなく、ノアは当然のように学校には行かずに家にいて家事をこなし、痩せた土地で細々と野菜を作っていた。
しかしそんな毎日は、ある日突然終わりを告げた。
西国のエストレアが攻めてきたのだ。武器の元となる鉄を製造していた隣町の鍛冶場は真っ先の襲撃され、ノアの両親はあっさりと命を落とした。
家も家族も畑も失い呆然としていると、どういう気まぐれか侵略者のエストレア王に拾われた。
のちに理由を訊いたが、「突然全てを失ったのに悲壮感がなく、達観しているような、その実ただ単純に鈍感で楽観的なような、無感情な眼が気に入った」などと言われたが、よくわからなかった。ノア自身は、自分のことを単に人より一歩遅くてぼんやりしているだけだと思うが。
とにかく先王の酔狂によって、ノアはエストレア王宮に連れてこられた。6歳の時だった。
それから2年間は、昼は勉強、夜は武術の訓練であっという間に時が過ぎた。
王の長男であるザフィエルは既に寄宿学校に入っていたためあまり会う機会はなかったが、ノアと同い年の第二王子セルフィエルとは王宮の一室で授業を一緒に受けた。王が効率を優先した結果だろうが、今考えると贅沢なことだと思う。
無表情で口数もほとんどないノアとは対照的に、セルフィエルはよく笑い、よく喋った。
そしてそんな自分のことをよくわかっているようで、大人と接する際には巧みに子供らしく甘えて見せ、結果自分の思い通りに事が運ぶように仕向けていた。変わらない表情の下でノアはその手管に舌を巻き、幼心にセルフィエルの将来を恐ろしく思った。
何もわからないうちにそんな生活を始めて8歳になった頃、ノアはようやく王が自分を王直属の暗殺者として育て上げるために連れてきたのだと理解した。
しかしだからと言って、別段王に対する感情が変わったわけではない。故郷の村で生活していた頃と、あまり心境に違いはなかった。
変わったことといえばただ煙と炎の臭いが血の臭いに変わったことと、衣食住に困らなくなったことくらいだ。
物心付いたときから、ノアには倫理観というものが薄かった。
貧しい家庭に生まれ、その日その日を生き抜くことに精一杯だったノアにとって、物事は良いことと悪いことではなく、生きていくために必要なことかそうでないことかに分けられた。
その基準に照らせばノアを暗殺者として育て上げた先王グリエルは決して悪者などではなく、むしろ住む場所と食べるものを与え、生き抜くための技術と仕事をくれた恩人なのだった。
グリエルに長女となる王女が生まれたのは、しんしんと雪が降る真冬の日のことだ。
病弱な王女を目にする機会はなく、特に何の感想もないまま王女のことは記憶の隅に追いやられた。
9歳になる頃には訓練を終え、実際に指令を受けて仕事をこなすようになった。
機械的に命令を受け、計画を練り、実行。その繰り返しで日々が過ぎていった。
第二王子のセルフィエルはザフィエルと同様王宮から離れた寄宿学校に入学し、他に親しい人間もいないノアは毎日ただ淡々と与えられた任務をこなした。
周囲から見れば、笑わない、喋らない、いつも鬱々と下ばかり向いている、さぞ気味の悪い子供だっただろう。
倫理観は薄かったが、ノアは律儀だった。グリエルからの大恩に報いるため確実に仕事が上手くいくよう念入りに作戦を立てる努力も怠らなかった。
難しい任務に成功して戻り、褒められた時には、純粋に嬉しく、誇らしかった。
自分の存在意義を、居場所を、見つけた。そんな気がしていた。
この頃になれば、自分のしていることが世間的には悪の部類に入ることには気付いていた。気付いていたが、もう戻れないし、戻る気もなかった。
これからもずっと、こんな日々が続くのだろう。
今まで変わらないように、これからもずっと。
そしていつか、背負った業に押しつぶされて、因果応報に死ぬのだろう。
そう思って、疑いもしなかった。それで良かった。幸せだった。
―――なのに。
あの日、転機は唐突に訪れた。
***
暗い夜道を、一人静かに城に向かって帰城する。
止血したとはいえまだ血が止まらない足を引き摺りながら、先程ようやく出血が止まった腕を押さえながら。
ただ無表情に、ただぎゅっと唇を引き結んで。
ようやく城門に辿り着く。時刻は明け方、もうすぐ太陽が昇る。
しかし未だ、周囲は真っ暗だった。
ノアが暗殺者としての任務を果たすようになってから、丸3年が経とうとしていた。
任される仕事の難易度、重要度は日に日に増していた。
今回の標的は特に難しく、普段は全く隙のない貴族院の重鎮。警備が手薄になる今夜だけが狙い目だった。
任務は何とか遂行したが、標的を仕留めるまでに何人もの護衛を相手にせねばならず、終わった時にはこちらも満身創痍の痛手を負っていた。
(まあでも……命があるだけましか……)
生来の鈍感さ、楽観的な性格も手伝い、ぼんやりそんなことを思った。
王直属の暗殺者しか知らない隠し通路を抜けると、王宮の中庭に出る。
ここに入るのを許されるのは、王族と、ごく近しい側近のみ。
「……っと」
隠し通路の出口である枯れ井戸から身を乗り出す際に腕に上手く力が入らず、ノアの身体はくるりと一回転し、背中から地面に落ちた。
負傷した足と腕が、ずきりと痛む。
「……痛い……」
意識的に声に出して呟いてみた。
まだ冷たい夜風に舞い上げられ宙に消えた独り言を追うように、仰向けに寝転がったままノアは夜空を見上げた。
満天の星空だった。
「…………」
ふと、ここ何年も思い出さなかった故郷のことを思い出した。
朝は暗いうちに家を出て、帰宅は深夜だった両親との時間は、いつも夜だった。
時たま、一緒に夜空を見上げたことを思い出す。
あの頃と空は全く変わらないように見えるのに、随分と遠くに感じる。
エストレアの王宮で過ごした時間の長さが、もうすぐ両親と共に過ごした時間の長さを追い越そうとしている。
「…………」
そのことに気付くのと、頬を冷たいものが伝うのは同時だった。
雫は目尻から重力に従ってこめかみを流れ落ち、ノアの耳を濡らした。
静かに目を閉じる。
視界から星空が消え、本当の暗闇に包まれた。
何も聞こえない。何も見えない。
五感を遮断すれば、ノアを包むのは完全なる闇、無だった。
ふいに、ひどい疲労を感じた。
このまま、闇に溶けてしまえたらいいのに。
もう何も考えず、感じず、今ここで消えて無に還れるならそれはどれほど幸せなことか。
生まれて初めて、ノアは心の底から何かを願った。
***
―――そうして、どのくらい時間が経ったのだろう。
ぺた、と無遠慮に頬を触る感触に驚いて、ノアは跳ね起きた。
目を開ける。傍らを見る。
と。
「…………あなた、だあれ?」
「―――っ」
瞬間。
―――世界が、真っ白に染まった。




