第38話 生きる希望
「……されていたでしょう」
「え?」
耳元とはいえ、囁かれた声が低過ぎて、上手く聞き取れなかった。
「何もされていないって、されていたでしょう」
ヴァージニアの唇をノアの少しささくれた親指がなぞる。
(……み、見られて……)
全身から血の気が引いて、冷や汗が吹き出た。
「…………っ」
(やだ、やだ、やだ、……きもちわるい……っ)
思い出したようにこみ上げる吐き気。
悔しさにじわりと涙が滲む。
咄嗟に右手を上げ、ごしごしと手の甲で唇を拭う。
と、乱暴に腕を取られて阻止された。
「やっ、はなし……」
反射的に振り払おうとすると、大きな右手で後頭部を固定され、驚く間もなく唇が塞がれた。
「んっ、んんっ……!?」
しっかりと押し付けられた柔らかい感触に、完全に思考が停止した。
咄嗟に胸に手を置き距離を取ろうとするが、ノアの空いた左手で両手をまとめて握られてしまい、それも叶わなくなる。
結局数分間、なす術もなくヴァージニアは硬直したままだった。
「……っ、はっ……」
触れるだけだが長くて熱い口付けからようやく開放されると、またきつく抱き竦められる。
「……ヴァージニア、様」
苦しげに名前を呼ばれる。
頬をノアの黒髪がさらりと掠めた。
優しくヴァージニアの後頭部に回された手が、僅かに震えている。
全身が甘く痺れて頭がまだうまく働かないが、その切羽詰った声音と必死な様子に、ふっと笑みが漏れた。
(2年振り、ね……)
さっきは変わってしまったかも、と思ったけれど。
やっぱり、変わらない。
いっぱい、迷惑をかけたのに。いつでも、どんなときも、温かくて優しい人。
(誘拐犯に唇を奪われて傷付いていた私を少しでも慰めようと……って)
好きでもない女の子のために、こんなことができるくらいに。
本当に昔から、超が付くお人好しで―――残酷だ。
わざと大きく溜息を吐く。
「もう……何情けない声、出してんのよ。全く、あんたなんて臆病で、いつもへらへら笑ってて、部下にも馬鹿にされて。どうしようもなくへたれで、ねえ、ノア」
そこまでまくし立てて一度言葉を切ると、ヴァージニアはふわりと、とても幸せそうに笑った。
「ノア……大好きよ」
「…………」
「あなたが、私のことを大嫌いでも、この想いがどんなに迷惑で厭わしくても、私は、あなたが好き……。ずっとずっと、好きだった……」
2年前に、言い忘れたことがあるの、と、ヴァージニアは小さく息を吸った。
「ねえ、ノア。ちゃんと幸せに、なるのよ。あんたは優しくて、よく見ればかっこいいから、好きになってくれる素敵な女の子が絶対に現れるわ。私みたいにわがままでがさつなじゃじゃ馬じゃない、お淑やかで上品な、……あなたにふさわしい子が」
例えば、いつか楽しそうに話していたメイド。町の装飾具店の娘。
誰でもいい。ノアを幸せにしてくれるのならば、誰でも。
大丈夫。私はちゃんと、この人の幸せを、願える。
「あーあ……悔しい。最後まで……あなたに好きになってもらうことはできなかったわね。まあ、初恋は実らないって言うし……。あなたに好きになってもらえたら、してほしいことがたくさんあったのに。手を繋いで歩いたり、頭を撫でてもらったり、眠れない夜には添い寝してもらったり……あ、でも」
初めてのキスは、ノアとできたわ。
ノアは寝ていたけれど。
ふふふ、でも、教えて、あげない。
「ああ、なんだか眠くなってきたわ……」
彼の体温を感じて、安心したせいだろうか。
瞼が重くなり、勝手に閉じようとするのを必死に堪え、ヴァージニアは一生懸命ノアの顔に焦点を合わせる。
待って、まだだめ。
どうしても、これだけは言わなくちゃ。
だってきっと、次に目覚めたら、きっと彼はいない。
彼の肩を両手でそっと押して、しっかりと視線を合わせる。
「ノア、ノア、あのね、……ごめんね」
ぼやけた視界で、彼の緑色の瞳が見開かれた。
「ずっと、ずっと、謝りたかったの。ごめんね、ごめんなさい。たくさん酷いことを言って、困らせて、傷つけて、ごめんなさい。許してなんて、言うつもりないわ。自己満足なの。だけど、言えて、よかった……」
心残りのなくなったヴァージニアは、幸せそうに目を閉じた。
意識が急激に遠くなり、全身が心地良い浮遊感に包まれる。
「ノア、大好き、ありがとう。でももう、諦めるから。今まで……ごめんなさい」
そして最後にもう一度謝罪の言葉を口にすると、ヴァージニアの身体から力が抜けた。
***
「……自己満足は、こっちの台詞です。ヴァージニア様」
腕の中で眠る彼女の顔を見下ろしながら呟く。
ヴァージニアに意識はない。
言っても聞こえないし、届かない。
「だから、伝えても良いですか?」
今この気持ちを口に出しても、聞いている者は誰もいない。
だからこれは、完全なるノアの自己満足。
ヴァージニア様、と、ノアは あるじの唇に再度、触れるだけの吐息を落とした。
「……愛しています。ヴァージニア様。あなたは私の、生きる希望でした」
だから幸せになってほしかった。
誰よりも、誰よりも、幸せに。
その想いはこれからも変わらず、僅かも色褪せることなく。
ノアの身も心も、その生涯は、ヴァージニアのためだけに在る。




