第29話 もう、戻れない
「っ、わ……」
どん、と肩に衝撃を感じて、ヴァージニアは後ろに倒れこんだ。
衝撃は感じたが、痛みはない。顔を伏せた彼に向かって、静かに呼び掛ける。
「……ノア?」
「…………」
ノアは答えなかった。
先程と同じ体勢で頭を深く項垂れている。
長い前髪に隠された顔は見えない。
「ノア」
ヴァージニアは、動かない彼に向かって手を伸ばした。
するとその気配を感じ取ったのか、ノアの肩が小さく震える。
それを見てヴァージニアは、思わず手の動きを止めた。
「……もう」
俯いたノアが小さく呻き、大きく深い溜息を一つ吐いた。
そして片手を頭にやると、苛立たしげに黒髪をぐしゃりと掻き揚げた。
「もう……いい加減に……。……諦めが悪いにも、程がある。いつまでも、想い続ける資格も、権利も、意味も……ないのに」
感情を極限まで押し殺したような、低く掠れた声。
「…………」
ヴァージニアは、舌が喉に張り付いたように声が出なかった。
そんな彼女を一瞥もしないままノアはふらふらと寝台を降り、何も言わずに静かに部屋を出て行った。
「…………」
一人残されたヴァージニアは、寝台の上で微動だに出来ずにいた。
ノアの怒りを抑えたような低い声音が頭の中で反響する。いい加減に。諦めが悪い。いつまでも、想い続ける資格なんて。
吐き捨てるように、心底うんざりしたように絞り出されたそれは、紛れもなく彼の本心だろう。
「…………」
ふいに、彼の私的な空間である私室、しかも寝台に触れていることに激しい罪悪感が込み上げた。
両手に触れる敷布が、急にひどく冷たく感じた。
手足の感覚が徐々に戻ってくると、ヴァージニアのろのろと床に足を付けた。立ち上がる瞬間ゆらりとよろけたが何とか踏ん張り、出口へと向かう。
自分が触れている場所、歩いたところから汚れていくような錯覚さえ覚える。
取っ手に手を掛け、扉を開けた。
誰かに見られたらまずいとか、鍵を掛けた方がいいかもしれないとか、そういったことには一切気が回らなかった。
気付けば自分の部屋にいた。後ろ手に扉を閉めると、ようやく呼吸が出来るようになった。意識してゆっくりと息を吸い、吐く。
頬に手をやると、指先が小刻みに震えていた。
だが指は濡れなかった。涙さえも出ていなかった。
「……っ、」
自己嫌悪と絶望で吐き気がした。
『いつまでも、想い続ける資格も、権利も、意味も……ないのに』
「……っ、そんな、……そんなこと」
言われなくたって。
あんたに、あんたなんかに、今更、言われなくたって。
「……も……っ、きえちゃいたい……」
ごめんなさい。ごめんなさい。
望みがないことなんてとっくにわかっていたのに。
お酒のせいにして、自棄になって。
形振り構わず、なんてみっともない。
もうあなたに振り向いてもらうために思いつくことは試し尽くして。
焦れば焦るほど、開いていくあなたとの距離に胸が押し潰されそうで。
虚しく過ぎていく日々に追い詰められて、もうどうしていいかわからなかったの、なんて。
汚い言い訳。
臆病で弱いくせに、打算的で狡い私。
心の奥底にあった、否定できない小さな期待。
夜中に彼の部屋に二人きり。
好みの娘でなくても、強引に迫られたら、ちょっとは、ほんのちょっとくらい、揺れたりする?
本当に馬鹿だ。彼がそんな男でないのは、私が一番知っているのに。
―――そんな彼だから、好きなのに。
でも、もしも。
……もしも、心の底に私に対する気持ちがほんの少しでもあれば、これをきっかけに、気付いてくれる?
『おんな、というには、まだ少し可愛らしすぎるような気がしますが』
まだ、彼が笑いかけていてくれた頃の、そんなに昔のことではないのにもう届かないほど遠く感じる彼の声に、思わず自嘲の笑みが漏れる。
全くもって、その通りだわ。
なんて卑怯で子供っぽいの。
私の汚い魂胆なんて、あなたはきっとお見通しね。
正面から気持ちをぶつけ続けることに疲れて、ずるをしてあなたを手に入れようとした、これは天罰。
ああ、これで完全に、嫌われた。




