第2話 大嫌いと大好き
「エストレア王国王室師団長、拝命いたします」
王に両肩を平剣で触れられ、その剣を恭しく両手で戴き俯けた顔をゆっくりと上げると、男は微笑んだ。
いつも通りの、わずかに眉尻を下げた穏やかな、陽だまりのような笑みで。
「…………」
久しぶりに間近で彼の顔を見、ヴァージニアは腹立たしげに目を逸らした。
ノア・エヴァン・グレイソン、22歳。
黒髪、長めの前髪に野暮ったい眼鏡、その奥で細められた緑色の瞳。
幼い頃から城で育ち、ザフィエル、セルフィエル、そしてヴァージニアの幼馴染でもある。
2年前のセルフィエル師団長就任と共に副団長の任に就いた。
しかし兄のセルフィエルのようには部下から尊敬の念を集められないのは、彼の性格と出自のせいだった。
ノアの性格は、良い言い方をすれば温和、悪い言い方をすれば気弱。
老若男女問わずに人当たりが良く優しいが、自分の実力と家柄に絶対の自信を持った貴族出身者の集団である近衛部隊の中では浮いた存在だ。尊敬されるどころか、入団当時から今まで部下にさえ馬鹿にされこき使われている。
彼は決して弱くはない。しかしはっきり言って彼よりも強い者は王室師団に何人もいる。
自分の方が彼よりも腕が立つのに、何故彼が副団長なのか。
これが腕に覚えのある王室師団員の隠さざる本音だった。
(……でも少なくとも軍師の才はあるのだから、開き直って堂々としていればいいのに)
王宮で部下に使い走りにされるノアの姿を見かける度にいつもそう思っていた。
もっとも幼い頃から先陣を切って彼を追い使ってきたヴァージニアが言えた事ではないが。
王直属の軍隊である王室師団が前線で戦うことはそう多くはないが、作戦や戦術が必要な場面では、セルフィエルは必ずノアの意見を聞いていた。
彼の戦略が功を奏したことは多々あれど、ノア自身が最低限の主張しかしないせいで作戦が終わればそのことは綺麗に団員の頭から消去されてしまう。
だからいつまで経っても、卑しい出自で気弱な性格の上、腕もさほど立たないくせに王族の幼馴染だというだけで王室師団にいる男、というノアへの周囲の評価は変わらなかった。
ノアはもともと、ヴァージニアの父である前国王がどこからか連れてきた孤児だった。
戦争で負かした相手国で身寄りのなくなった子供を拾ってきたのだろうと、今ならば何となく想像することができる。
ヴァージニアが物心付くころにはすでに王宮にいて、時たま父と剣で打ち合っているのを目にした。
城の中で少々年上とはいえ自分と同じ子供を見つけて嬉しくなり、ヴァージニアはことあるごとに彼に話しかけ、一緒に遊んでくれるようにせがんだ。
もう一人黒髪の少女を見たような気もするが、彼女はヴァージニアが見ているとわかると慌てたように姿を消してしまったため、あまり記憶には残っていない。
ノアも初めのうちは戸惑っていたが、前王が何も言わないのを見ると徐々にヴァージニアの相手をしてくれるようになり二人はすぐに打ち解けた。
いつも優しく微笑んで、嫌な顔一つせずに遊んでくれる年上の男の子。
認めたくはないが、あれがヴァージニアの初恋だった。
「両陛下並びにヴァージニア様、ご退出」
まだその任について日の浅い宰相のやや緊張に強張った号令と共に席を立つ。
一斉に顔を俯けた臣下を横目に見ながら粛々と歩き出し、扉の前で一瞬だけ彼を振り返るが、その表情は長い前髪に隠れて見えなかった。
「……全く、セフィ兄様が退任したらどんな格好良い専属騎士が付いて下さるのかと期待してたのに。彼は副団長だったから、薄々予想はしていたけれど。……全く、期待外れもいいところだわ」
王座の間を退出後、長兄であり現エストレア国王の兄ザフィエル、その妻であるジャクリーンと共に王族の居住区へ向かう階段にヴァージニアの声が響く。
それを聞いて、ジャクリーンは朗らかに笑った。
「あら、充分に格好良い専属騎士が付いてくださったではありませんの。良かったですわ、セルフィエルさんがいなくなってもこれで王室師団は安泰ですわね」
「……ジャクリーン義姉さま、格好良い専属騎士って、まさかノアのことを言っているのではないわよね?」
「他に誰がいるというのかしら?」
「あんな軟弱者、騎士だなんて呼べないわ!いつもへらへら笑ってばかりで、勝負を仕掛けられてものらりくらり断ってばかりいるの。絶対に負けるのが怖いのよ。男なら潔く受けるべきだわ!」
思わず声が高くなる。
そんな妹に、ザフィエルが困りきったような溜息を吐いた。
「ジーナ、お前は本当にノアが気に入らないんだな……」
「…………」
ジャクリーンが複雑な表情で夫に何か言おうと口を開き、しかしヴァージニアの大声に遮られる。
「当たり前よ!ふん、こうなったらあいつをとことんいびり抜いて苛め抜いて、団長の地位から引き摺り下ろしてやるわ!そして私の好みの騎士を後任団長に指名させて、騎士と姫のロマンスを実現してやるんだから!」
そう啖呵を切るとヴァージニアは鼻息荒く自室に入り、扉をばたんと閉めた。
「…………」
ザフィエルが渋面を作り隣の妻を見遣った。
「……何であいつはああなんだ……。もう14だというのにすでに結婚の申し込みは絶え始めている。このまま貰い手がなければ修道院に入るしかなくなるぞ」
「そんなことにはなりませんから大丈夫ですわ。全く、あなたはいつも飛躍しすぎなのです。ジーナのことがご心配なのはわかりますが……。しばらく様子を見ましょう」
「……しかし、あいつのノア嫌いはどうにかならないのか。何が気に入らないというんだろうな、だいたいノアは軟弱でも臆病でもないぞ。剣の腕は確かに飛び抜けたものではないが充分だ。見た目だって悪くない。何より、王家に対する揺ぎない忠誠心を持っている」
「……以前、ジーナに少しだけ聞いたことがあるのですけど。小さい頃は、大好きだったのですって。でもある日を境に大嫌いになってしまったそうなのですわ。……だから、ね、あなた」
「…………?」
首を傾げる夫の腕に軽く手を沿え、ジャクリーンは悪戯っぽく微笑んだ。
「大嫌いが大好きに再び転じる日だって、来るかもしれませんわよ?」