第27話 酒は微酔に飲むべし
兄のセルフィエルと婚約者のアリーシャが明日の朝ドーラムへ戻るというので一言別れの挨拶を、と部屋を訪ねた。二人の邪魔をしないように早々に退出するつもりだったが、
「お前、ノアのことが好きなの?」
兄からの直球の不意打ちに思わず素直に頷いたことから「あいつのどこがいいんだ?」「もう告白したのか?」など質問を重ねられ、それらにぽつぽつと答える内に空回り続けることへの不安や弱音、果ては愚痴まで零してしまい、気がつけば二人の間に挟まれて彼らの部屋の奥のソファにしっかりと腰を落ち着け、「まあ飲めよ」と兄に促されるまま人生初の酒にまでちびちびと口を付けていた。
「で、報われそうか?」
妹に勧めた酒を自分もグラスに注ぎ一気にあおってから、セルフィエルは軽い口調で尋ねた。
ヴァージニアを挟んで反対側に遠慮がちに座るアリーシャは、心配そうに義理の妹を窺っている。手には酒ではなく、紅茶の入ったカップがある。
「残念ながら、今のところ、全然」
低く掠れた妹の声に、セルフィエルが表情を改めた。
ああ、兄様にこれほど心配そうな視線を向けられるのは初めてだわ。
ぼんやりと霧が掛かり始めた頭でヴァージニアは思う。
たったそれだけのことで、ゆらりと視界が滲みそうになった。
まずい。本当に、相当、参っている。
「まあ、報われるまでずっと頑張るっていうのもありだが、お前の場合立場的に難しいからな……」
王女が自身のわがままで、ずっと片思いを続け独身でいるわけにはいかない。
「そう思ってるなら、何か助言してよ」
意識して口角を上げ、努めていつも通りに返す。
そんな妹の努力を汲んでか、セルフィエルも口端に笑みを浮かべ肩を竦めた。
「そうだな。誘拐事件でも起こしてみるか?少し心配させてやれば、あいつも焦るんじゃないか。もしお前に対する気持ちが少しでもあるのなら、気付くかもな」
「セフィ様、それは、あまりいい案とは思えませんが」
今まで気遣わしげに眉を寄せながらそっと控えていたアリーシャが、堪り兼ねたように口を挟む。
「冗談だよ、冗談」
まあでも方向性は間違ってはいないと思うけど、とセルフィエルは片眉を上げ、婚約者を見下ろした。
「アリーシャ義姉様、私、どうすればいいかしら」
兄を本気にさせた義姉なら、何か良い提案をしてくれるかもしれない。
「わ、私などが申し上げられることなど、何もありません!」
慌てたように顔の前で両手を振るアリーシャだが、ヴァージニアに縋るように見つめられ、たっぷり数十秒迷った末におずおずと口を開いた。
「では……時には素直に甘えて、弱いところを見せてみたらいかがでしょうか。……きっと、受け止めてくださいますよ」
***
「うぅ……くらくらする……」
日付が変わる頃にようやく暇を告げ、重心がぐらりぐらりと揺らぐのを抑え何とかバランスを取りながら、ヴァージニアは王宮の廊下を一人歩いていた。
(……すなおに、あまえて、よわいところをみせる……か)
ふわふわと高揚した心地の中でアリーシャの言葉を思い出す。
(……ごめんなさい、アリーシャ義姉様。せっかく、助言してくださったのに)
実践は、難しそうだわ。
きっと、アリーシャの強いところも弱いところも全てまるごと、セルフィエルは受け入れたのだろう。
でも。
ノアは、セルフィエルとは違う。
性格ももちろん異なるが、もっと根本的なこと。
セルフィエルは、アリーシャを愛しているけれど。
ノアは。
「駄目よ。……もし私が、一度でも弱音を吐いたら」
心の声がぽつり、と音となって零れた。
「あいつ、私のことなんて、一瞬で切り捨てるもの」
ふわふわと安定しない心。しかし、不思議と心地良い。
生まれて初めて飲んだ、酒のせいだ。
頭は全く働かなくて思考能力もこれ以上ない程に低下しているのに、根拠もなく強気で、自暴自棄な気持ちだ。
「…………」
ヴァージニアは自室へと向かっていた歩みをふと止めると、目的地変更のために踵を返した。
***
「……何やってるんですか、ここで」
低く掛けられた声にまどろんでいた意識が浮上する。
抱えた膝から顔を上げると、ぼんやりと定まらない視界の中に驚きと呆れの表情で自分を見下ろすノアがいた。
深夜の巡回から帰ったばかりか、外套を羽織ったままだ。
「……あら、遅かったのね。……見てわからない?待ってたのよー、あんたを」
顔を上向けて小首を傾げると、ノアの眉間の皺がさらに深くなった。
「……酔っていますね、姫」
「酔ってるわよー、飲まなきゃやってられないわよぉ」
呂律の回らない舌で、本で読んだ台詞を口に出してみた。
「…………」
ノアが額に片手を当て、大きく溜息を吐いて俯く。
困っている。
ノアが。私のせいで。
なんか、久しぶり。
……なんか、嬉しい。
「……ともかく、ここはまずいですから。ご自分のお部屋にお帰りください」
「い、や!」
ヴァージニアは大きく首を左右に振った。
「誰かに見られたらどうするんですか。わがままを言わないで下さい」
「嫌だって言ってるでしょ!何よ、あからさまに迷惑だって顔しちゃって。私が普段どれだけ一生懸命気を遣っているか知らないくせに。我慢してもしなくても一緒なら、思いっきり困らせてやるわ」
「ヴァージニア様!」
ノアにしては珍しい鋭い声に、ヴァージニアがはたと口を噤む。
金色の大きな瞳が、まんまるく見開かれた。
と、次の瞬間、顔全体がふにゃりと綻んだ。
「えへへ、……名前、呼んでくれたぁ」
「…………」
目に映るノアが瞠目して固まったが、ここ最近の中で一番の幸せを味わっているヴァージニアは気にも留めない。
にこにこと上機嫌に騎士を見上げていると、ノアは片手で髪をぐしゃりと掻き揚げ、やや投げ遣りに扉に手を掛けた。
「とりあえず入ってください。ここじゃ、いつ人が通ってもおかしくありませんから。お茶を淹れますから、少し酔いが醒めたらすぐに部屋に戻るんですよ」




